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翌朝
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リン……
なんて、寂しい音色なんだろう。
おれはぼんやりとそう思った。
どうしてそう思ったのかは分からない。 ただ、空気すらも裂いて響く美しいその音は、あまりにも澄んでいて、それがなんだか、とても哀しいことのように思えてならなかった。
……オト、おいで……
「……」
やつれた男だ。
歳は、五十かそこらに見える。
肌は青白く病的で、差し出された腕には骨が浮き出てしまっていた。
その腕に頬を擦り寄せ、青黒の毛並みの猫は鳴いた。
……にゃあ
……オト……おれが愚かだったよ。
今更気付いたって遅いって、賢いお前のことだから、思うんだろうな。
……それとも、本当は気付いていたんだろう、って、言うのかな……
……にゃあ
……ごめんな。
こんな愚かな飼い主で……
……最期までお前自身のことを愛せなかったおれを、お前は、許してくれないだろうな……
……にゃあ
……本当に、今更気付いたって遅いんだ。
今更、お前を愛してやればよかったって……
遠(おと)なんて名前、付けなきゃよかった、って……思うなんてさ……
ほとんど消え入りそうな声を絞り出して、懸命に言葉の交わせない猫に話し掛け、笑う姿が哀れだった。
オトはその眸に主人の姿を刻みつけようとするかのように目を見開き、耳をそば立て、じっと聞き入っていた。
その姿もまた、ひたすらに、哀れだった。
彼らに同情したわけじゃない。
悲痛な運命が哀しかったわけじゃない。
それなのに、おれの視界は先からずっとぼやけていた。
後から後から涙が溢れて、止まらなかった。
目が覚めたら、また忘れてしまうのだろう。
ならばせめて、それまでは、愚かな二人のために泣くことを許してくれないか。
……空虚の世界に放り出される小さな彼を想って、泣くことを……
…………
……
「…………」
どうしてか、まぶたが開かなかった。
寝ぼけ半分で小さく呻いて、頭を振る。
そうしてやっと目を開くと、目の前に心配そうなオトの顔があった。
どうやら、オトの手がまぶたを押さえていたらしい。
なんでそんなことをしたのかと、おれは一瞬眉をしかめたが、すぐに理由は判明した。
濡れた頬が、冷たかった。
「嫌な夢でも見た?」
「……夢……?」
なにか、ぼんやりと霞むものが脳裏に浮かんだ。
あともう一捻りで思い出せそうなのに、どうしても鮮明に浮かんでこない。
おれは首を傾げた。
「……なんか夢は見てたっぽいんだけど、思い出せない」
「ふーん。
まぁ、嫌な夢なら思い出さない方がいーかもね。
ミコト、随分辛そうだったし」
「へぇ……
そう言われると気になるな……」
見た記憶はあるのに、どうしても思い出せない夢ほど、なんとかして思い出したくなるものだ。
おれは額に力を入れて、記憶に残っているはずの夢の断片を探した。
オトは手のひらでおれの涙の跡を拭ってから、ぺち、と頬を叩いた。
「そんなことより、からだはへーきなの?
……ま、へーきなはずないと思うけど」
「……ん? からだ?」
言われて、おれは何となしに上体を起こそうと、腰を引いた。
……いや、引こうとした。
「……!?」
思わず、声にならない叫びが漏れた。
腰のみならず、背中や太ももにも貫くような激痛が走り、おれは身悶えながら腰をさすった。
それを見て、オトはさも可笑しそうな笑い声を上げた。
「……笑いごとじゃないんだけど!?」
「あははっ!
だから昨日、覚悟しときなよって言ったのに」
「うう、動けない……」
今日が休みでよかった……
こんなんじゃバイトなんて出来ない。
「てか、おれいつ寝たんだ?
途中から記憶がないんだけど」
「うん。
ミコト、気絶しちゃったから。
あ、そうだ。お風呂沸かしておいたから、入りなよ」
「う、うん……あ、今何時?」
「一時くらいかな」
うわ……そんなに寝ちゃってたのか。
つい慌てて立ち上がろうとして、鈍く広がる痛みに呻いた。
「うぐっ……駄目だ、腰が立たない」
「んー、そんなに激しくしたつもりはなかったんだけどなー」
いや、中々激しかったよ?
ていうか激しくされたことより、無理な体勢を強いられたことの方が響いてる気が。
……うん。完璧に運動不足。
「足腰には自信あったんだけどなぁ……」
「ごめんね。次はもっと優しくするから」
つ、次って。
「……」
「……ミコト?
そんな顔して、襲われたいの?」
「は!?」
おれどんな顔してた!?
「まぁ昨日の今日だし、我慢してあげるけどさー。
あんまりえろいこと考えないでよね」
「か、考えてないからっ」
「どーだか。
ね、明日もお仕事ないんでしょ?」
「え? ……そうだけど」
「じゃあさ、デートしない?」
「…………」
……でーと!
やば、にやけそう。
「い、いいけど」
「ほんと?
おれね、ミコトと買い物してみたいんだー」
「いいよ。
……まぁ、そんな高いものは買えないけどな」
それに暫く買い物してなかったし、丁度いい機会かもしれない。
おれが頷くと、オトは嬉しそうに抱きついた。
「ミコト、大好きっ」
「……そんなに嬉しい?」
「嬉しいよ。
……おれね、普通の人間と同じことがしたいって思ってたんだ」
「え?」
「人間みたいに外歩いてさ、なんとなくふらっとお店に入ってみたり、今日の夕飯はどうしようかなって悩んでみたり。
そういうことがしてみたいって」
「……お前、人間になりたいの?」
オトは少しだけ目を泳がせた。
「んー……どうかな。
人間は不便だよ。身体は重たいし、すぐに病気にかかる。
猫の方がずっと自由がきく。
……だけど、同じが良かったなって、思うこともある」
「同じ?」
「人間と同じ身体だったら、ずっと一緒にいられるのにって」
「……あのさ、オトって」
「ん?」
「本当に、百年も生きてるのか……?」
出会ったばかりの頃にそう言っていた。
それが本当なんだとしたら……
「……どう思う?」
上目遣いに見つめられて、おれは思わず唾を飲んだ。
「オトが言うことなら、信じるよ」
人間に化けられるような猫が、百年生きてたとしても、きっとおかしくはない。
オトはただ、蒼空の色の眸を細めて微笑った。
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