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「いやーいいとこですね東北……」
多少のわだかまりはありつつも、宿についた俺たちは、大浴場で束の間の貸し切り状態を楽しんだ。一通り大学生らしい遊びを嗜んではいるが、小雨が降る中の露天風呂は、それらとはまた別の趣がある。
横で同じく寛いでいる松戸さんに視線をやる。眼鏡が曇って表情は分かりにくいが、だらしない口元となだらかな肩が、俺の問いにゆるめな肯定を返していた。
「まずいなあ……」
「え、ダメでしたか?」
「あ、そういう意味じゃなくて……自分が想像した以上に、旅が楽しくて……」
「なんすか、それ。俺、ついてこなかった方が良かったですか?」
陸奥——この世の果てといっても、当時から人は住んでいたし、現代は各種交通機関で行こうと思えばいつでも行ける。だが、松戸さんとしては、もっと淡々とした旅を想像していたのかもしれない。
ちょっと意地悪に、含み笑いをしながら聞いてみると、湯を跳ね上げる程勢いよくこちらに向き直って訂正された。
「そんなことない。河辺くんがついてきてくれて、本当に良かったと思ってるよ」
「はぁ。そういうことにしておきますよ」
ごめんねと謝ってくる松戸さんに、今はただ物分かりのいいふりをして、笑みを返した。
風呂から上がって、予約した宿の自室に移動すると、松戸さんは早速執筆にとりかかった。広縁で原稿用紙を広げる浴衣姿を、ついつい堪能してしまう。
袷がはだけて、上気した首と胸元がのぞいている。足を組み直す姿がしどけない。
良からぬ視線に気づかないほど無防備なのは、もう俺の存在はやんわりと意識の外に締め出されているからだ。
高校生の頃からそうだった。そういう時は、気配を消して道具になりきるのがいい。そうしてスマートフォンの秘書機能よろしく、呼び出されるまでは押し黙っているのだ。
「海では……雨が降っていたよね? いつ天気が回復したんだっけ」
記憶を探っているのか、彼は独り言を呟きながら、目はどこでもない場所を見ていた。探ったところで何も出てこないだろう。それは、松戸さんの作り出した虚構の光景なのだから。
俺は数秒困惑しながらも、集中を途切れさせないよう極力穏やかな声音で返答した。
「……海ではもう雨が上がってましたよ。そのまま天気が回復していったんです」
「そう……。道中の紫陽花は……ああいう色合いは何色と言うのかな」
「名所は通りましたけど、もう見頃は終わっていました。一輪も咲いていなかったですよ」
ハッとした松戸さんがこちらに視線を向けた。集中が切れたようだ。あまりにも自然に、記憶が事実を塗り替えていたことに驚いているようだった。
「そっか……ごめん」
「いえ。こういう時のための俺ですから」
視線も合わさず、気にしていない風に聞こえるよう、努めて素っ気なく返事をする。
松戸さんの持つ想像の力が、逆に彼を蝕もうとしているかのようだった。
頭の中が創作一色になる状況はさぞ心地良いのだろう。だけど、松戸さんが創作に没頭するあまり、このまま現実を置き去りにしていってしまう不吉な予感が、頭を離れなかった。
俺がそばにいる間はまだいい。
空想と現実の間(あわい)にいるあの人を、俺が繋ぎ止めていれば良いのだから。でも俺がもし——あの人のそばにいられなくなった時、誰があの人を……。
あの人がまた現実に戻ってこられるように、何か錨のようなものが欲しい。
誰でも、何かでも。
俺ではだめなんだ。
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