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松戸さんは大分元気を取り戻したようだ。バックミラー越しに嬉しそうな表情を垣間見ると、深い充足感を覚えた。
正直かなり疲れを感じていたが、旅の同行者として、企画者が喜んでいるとついてきた甲斐があるというものだ。
「絹の手巾なんて勿体なくて普段使いは出来ないけど……いい思い出になったよ。こうして桐の箱に入っていると、お守りみたいだな」
絹のハンカチを買うと出来る藍染体験が楽しかったようで、笑顔すら垣間見える。渋すぎる気がしたが、喜んで貰えたならそれでいい。
「これも小説のネタになりますか?」
連日の移動と取材による疲れか、発言に注意を払うことが出来なくなっていた。
すると今までの楽しい雰囲気はいずこか、松戸さんの顔がまた曇った。ただでさえ薄暗い車内が更に暗くなったように思える。
「どうだろうね……今まで良いと思える時は数える程しかなかったけど。良いようには書けないかもしれない」
「……だから、言ったじゃないですか。あんなに変えてしまって大丈夫かって」
ちょっとした意地悪のつもりで、そんなことを口走ってしまった。後部座席でよく見えないが、松戸さんのまとう空気が強張ったのを肌で感じた。
今のはまずかったと思ったが、疲れと苛立ちが、あらぬ方向へ口を滑らせる。
「これに懲りたら、安易な脚色は辞めるんですね」
苛立ちを通り越して気分が悪くなってきた。吐き気と寒気を催して、俺は路肩に車を停めた。
駄目だ。動けそうにない。不快な感覚に全身を支配されて、思考も覚束なくなってきた。
「……書けないんだ」
俺の悪態が堪えたのか、松戸さんはうつむいて絞り出すように声を出した。幸いこちらの様子には、気付いていないようだ。
「ありのままを書くのが怖い……凡庸な書き口を連ねてしまうのが怖いんだ。だから、僕の中にしかない景色を……」
それが、この旅での不自然な「脚色」の理由だった。小説に青春を捧げた松戸さんにも、書けなくなることがあるのか。
でも、それをしたところで、目の前の景色は変わらないし、いつしか破綻を招いてしまう。
悪寒は先程より強くなってきた。少しずつ震えがやってきて、自制も効かなくなってくる。俺は痛みを感じるくらいに二の腕を握って震えを押さえ込もうとした。
「松戸さん、俺は……」
体の軸が大きく揺らいだ。
目を合わせていたはずの松戸さんの声が頭上から聞こえたのを最後に、俺の意識は暗転していった。
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