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渚と雪
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「………ん」
無音の朝。少し開いたカーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいる。ぼんやりと目が開いてその眩しさに腕で顔を覆い、深く呼吸をすると知らない匂いに気づく。ここ、俺の家じゃない。
「やば……っ」
その事に覚醒し、飛び起きるとズキリと頭が痛む。どこだ、俺昨日何してたっけ。夜確かいつものバーにいて……。てか昨日彼氏に振られて、めちゃ落ち込んでやけ酒したよな。くそ、思い出したらまた泣きそう。彼氏の家行ったら女と浮気してるとこ目撃して……しかもベッドin中に。女々しくわめいて責めたら冷静に返り討ちにされて泣きながら走って逃げたんだわ俺。
◇
『え?本気だと思ってたわけ、流石に男とはないわ。悪いな』
くそこのやろ…、呪ってやるんだからな。その言葉が頭から離れなくてもやもやした俺はいつも行ってるお仲間が集まるバーでマスターに慰められながらカウンターで酒を飲んだ。
『まだ若いんだから、いい人は必ず現れるよ』
『マスター……ありがと』
『今フリーなの?じゃあ俺と付き合おうよ』
『誰あんた、話しかけんな…今そんな気分じゃないし。俺もう次の彼氏いるから』
知らない男がギラギラとした目をして遠慮なしに距離を詰めてくる。面倒くさい奴だなとため息をついてあしらうように彼氏の存在を口に出す。大体の男はそれに冷めて席を離れるが男は動かない。その不快さに睨み付けると何故か楽しむように笑われた。
『寂しさ忘れたいんでしょ?この後ホテル行こうよ』
『話聞いてた?俺彼氏以外としないし』
『いやいや、嘘じゃんそれ。彼氏いないんでしょ?なら俺を彼氏にしてよ』
なんだこの男。初対面の癖になに言ってんだ。
その後拒否をしてはまたまた、とおちょくられマスターが仲裁してくれようとしたが男はそれを無視し、俺はそれにさらに苛立ちが跳ね上がる。
『なんなのあんた、たち悪いなっ!俺彼氏いるって言ってんだろ、だからもう他所いけよ!』
『失恋で泣いてたんでしょ?バレバレだよ』
『うるさい…!』
酒のせいもあり怒りで冷静でいられなくなった俺はカウンターの目の前の面倒な男とは逆の俺の隣に座っていた客の腕を顔も見ずに引っ張ってぎゅっと抱きついた。
『この人が俺の彼氏!!!わかった!?わかったんならとっとと俺の前から消えろ!』
男は俺の抱きついてる人物を確認すると舌打ちをしたがあっさりと引き下がった。隣の客には巻き込んで申し訳ない気持ちもあったがとてと助かった。
『………あの、すみません。騒がしくて、しかも巻き込んじゃって』
『いえ、大変でしたね』
『一杯奢ります』
『大丈夫、逆に俺が奢るよ』
『……え?』
『あなたの彼氏ですから』
『あ……、ごめんなさい嘘ついて』
進められるがままお酒を奢ってもらって、嵐が過ぎ去りやっと気分が落ち着いてきたのかまどろんでしまう。そんな俺に気づいたマスターが俺の肩を叩く。
『雪くん、ここで寝ちゃ駄目だよ。そろそろ帰りな、タクシー呼ぼうか?』
『………ん、平気。自分で帰る………から…』
『こらこら、起きて』
『……………ん』
◇
「………そっから記憶ない」
さ、と血の気が引いて勢いよく自分の寝ていた隣を確認する。
「ひっ……」
そこには深く毛布をかぶって静かに眠っている男がいた。柔らかそうな栗毛、長い睫毛、綺麗な鼻筋。昨日のくそ男が舌打ちして逃げた理由も頷ける。この人滅茶苦茶いけめんだ。酔ってて全く顔なんか見ていなかったが、こりゃ争っても勝ち目はない。
「か、……帰ろ」
体を確認すると服も着ているし未遂な事がわかる。爆睡してしまった俺を寝かせてくれる為だけにここまで運んでくれたんだ。この人絶対いい人。まじで果てしなくありがとうございます。そっとベッドから抜け出して改めて恩人の顔を見ると変わらず寝息が聞こえる。
「…迷惑かけました、ありがとう」
手を伸ばして綺麗な栗毛の髪に触れる。何だか離れがたくて起こさないように髪を撫でた。いいな、俺もこんないけめんで優しい彼氏ほしいわ。
「…………」
元彼の顔が浮かんで憂鬱になる。あのバーはそういう人達が集まるけれど中にはバイの人も結構いる。元彼のように男同士の恋愛を火遊びのように楽しみたい人がいたりするし、そういうのに引っ掛かると面倒なことになる。あんな修羅場みたいな場面もう絶対遭遇したくない。しばらくバーに行くのもやめようと思った。
「………ばいばい」
寝室から出ると思わず足が止まる。広いリビング、家具は落ち着いた色でまとまっていてあまり生活感はない。いけめんで高給取りとか完璧だなあの人……。ふとダイニングテーブルの上に俺の財布と携帯が置かれているのを見つけて手に取ろうとすると携帯に付箋が貼ってある。
【帰らないで】
その言葉に指先がぴくりと反応して言い様のない気持ちが襲う。嬉しいような、苦しいような。いやでも俺昨日痛い目見たばっかりだし、しばらく落ち着かないと。舞い上がる気持ちを長く息を吐いて静め、付箋をはがさず携帯をズボンのポケットに閉まった。財布を掴みリビングを出て玄関を目指す。
今から1度家に帰って風呂入って大学かと思うと気が重い。ここ最寄り駅どこだろ家からめちゃ遠かったら授業間に合わないな。そしたらもう今日は傷心休暇でもするか。
玄関で揃えられた自分の靴を履いて、手を上げ体を伸ばしてまだぼやぼやしている目を擦る。オートロックだよな、鍵開けて帰っちゃうけど平気かな。鍵を開けてドアノブに手をかけようとしたとき後ろで物音がして思わず振り返る。
いや振り返ろうとした。
「うわっ!」
腰に腕が回ってぐっと引き寄せられバランスを崩す。尻もちをつくかと思いきや抱き込まれる感じで体を預けた。
ここの家主に。
「………びっくり、した」
「…おはよう」
「お、おはようございます…」
「はあ…、間に合ってよかった」
後ろから少し低めの落ちついた声が聞こえる。俺は抱きつかれているこの状況がいまだに理解できず心臓の音が痛いくらい鳴っていた。
「帰らないでって、書いたのに」
「……いや、でも…ごめん」
「いいんだ、我が儘を書いたのは俺だから」
うなじに相手の額が当たってくすぐったさに身動ぎする。居心地悪そうな俺に気づいたのか腰に回った手をほどいてくれて今度こそ俺は振り返って彼の顔を見上げた。
「雪くん、て言うの?」
「うん」
彼は笑った顔もかっこいい。ぱっちりと開いた茶色い瞳が俺のことを真っ直ぐ見ていてそれに引き込まれる。
「俺朝弱くて、雪くんより先に起きたかったんだけど駄目だった。驚いたよね、ごめんね」
「や、俺の方こそ酔っぱらって迷惑かけたから……すみません」
「全然いいよ。そうだ、時間あるかな?よかったら朝食を食べに行かない?」
「俺今日授業があって……」
そういうと彼はしゅんとして残念そうに笑う。思ってた通り物腰が柔らかくて優しい感じの人だ。昨日俺に絡んできた奴には不快感しかなかったのに、この人は初対面なのに不思議とそういう気持ちは抱かない。むしろ安心感みたいなものを感じる
「お兄さん、名前は?」
「あ、そうだね。渚だよ」
「…渚さん」
「うん」
「いいよ、朝ごはん食べに行こ」
今日は傷心休暇にしよう。
◇
「君にずっと話しかけたいなって思ってた」
ぷす、とサラダのトマトをフォークで刺した後顔を上げる。朝食の時間より少しずれた喫茶店の中は平日な事もありとても静かだ。ささやかに音楽が流れていてそれも穏やかなこの店内にはぴったりでとても寛げる。目の前の彼は朝食と言いつつ頼んだのはコーヒーだけ。俺はハムエッグのホットサンドとサラダを頼んでちまちまと食べる姿を彼に見られている。
「俺に?」
「君に」
「興味があるの?」
「うん。君はよくカウンターでお酒を飲みながらマスターと話をするよね?俺もカウンターで飲むから君の世間話をたまに聞いてたんだ。盗み聞きみたいで申し訳ないんだけど、君の話は聞いていて楽しかった」
「……何か恥ずかしい。俺いつもどうでもいい話ばっかだし」
「そんなことない。なんとなく寂しい気持ちになる時があってね、そういう時に賑やかなあのバーに行くんだけど、君を見つけるといつも隣に座って君の話をこっそり聞きながらお酒を飲んでいたんだ。ちょっと気持ち悪いかな、ごめんね。でも元気をもらえたよ」
俯いて笑う彼は何処か暗い雰囲気を纏う。その暗い部分に触れてみたいと思ってそっと指先で彼の頬に触れると触られると思っていなかったのか驚いた瞳が俺を見る。
「俺の話聞くと寂しくないの?」
「…そうだね、君は明るくて温かい感じの子だから隣にいると寂しくないよ。自分が不安定な時ってある、かな?俺はね、結構ネガティブな人間だから自分が落ちてるときに誰かがそばにいるとすごく安心するんだ」
曖昧な笑みにくらりときそうになるが、それ以上に彼の隠されてる感情がある気がしてそれを見たくなる。綺麗な容姿や高い経済力を持ちながらどこか陰りのある彼は俺を見てまた笑って頬に触れてる指からそっと離れた。
「今日1日俺の家にいてくれないかな」
「………いいけど、邪魔じゃない?」
「むしろ君にいてほしいんだ」
「何それ、ちょっとときめくじゃん」
「はは、ときめいてくれるの?時間的に昼食はいらないかな?夕食は家で出前とるから食べていくといいよ」
朝起きた渚さんの家に戻り、座り心地のいいソファーに腰を下ろす。外の天気は爽やかな青1色に染まり、開けた窓から入る風がレースのカーテンを静かに揺らした。
「少し仕事をするけど、遠慮せず好きにしてていいから。テレビもつけていいよ」
「ん、いいや。何かまだ眠いしゴロゴロさせてもらおうかな…。この静かな感じも好き」
ソファーにごろんと寝転がり、天井から吊られている洒落た照明をぼんやり見ているとダイニングテーブルの方からパソコンのキーボードを叩く音が聞こえてくる。
「俺ベッドルームに行こうか?気が散らない?」
「平気だよ。人がいる場所に俺もいたいから」
「ならいいんだけど…」
寂しい気持ちになる時がある、と言っていた。そりゃこんな広い家にひとりで住んでれば人恋しくなる。俺だって元彼と会えないときは早く会いたくて会いたくて仕方がなかった。あれも寂しいの分類だろうか。でも、きっと俺の気持ちとは違う気がする。変な言い方かもしれないが本当に寂しがり屋なのかも。恋人いないのかな……?
「君はもう悲しくないの?」
独り言のような問いかけに閉じかけていた目を開ける。
俺が失恋したのも聞いてたんだろうな。
「…………どうだろ。でももう浮気現場なんてごめんだよ。……違うか、俺が浮気相手だったのかな」
「その傷は癒える?」
「今こうやって過ごして癒してるよ、しばらくまったりゆったりすれば段々気持ちが静まってくるから」
「そう」
「ねえ、寂しいってどんな時?」
キーボードを叩く音が止まってしばらく沈黙が流れる。まずいことを聞いたか、と体を起こして謝ろうとすると彼は顎に手を添えてパソコンの画面を見ながら俺の質問に対して考えているようだった。
「愛情を誰かに渡せない時、かな。人は好意を言葉とか行動で表現するよね?それが出来ない時、ひとりなのは寂しいなって思うよ」
「………恋人はいないの?」
「我慢して、作らないようにしてるんだ」
「……我慢して?」
首を傾げると彼はパソコンの画面から視線を外して俺を見た。どきりとして思わず目が泳ぐ。ダイニングテーブルから席を立つと俺の座ってるソファーまで来て隣にゆっくりと腰かけた。距離が近くなってそわそわしたが話をしてくれる雰囲気にちゃんと聞こうと体を向けた
「ごめん、仕事……」
「平気、急ぎじゃないから」
「……ならいいんだけど」
笑みは優しい。でもやっぱりどこか寂しげで柔らかい眼差し。
「去年、君ぐらいの年の子と付き合ってた時期があったんだ。俺、仕事はアパレルの営業してて残業とか出張とか結構多くてね、中々その子と会える時間が少なかった。………こんな話嫌?」
「ううん、続けて」
「寂しい思いさせてるな、て思って電話したりこまめにチャットしたりとかしてて…、その子は優しかったからよく俺を励ましたりしてくれたんだ。気にしなくていい、大丈夫、て言ってくれて。休みの日はその隙間を埋めるように一緒にいて、俺なりにその子を想って、すごく…大切にしてた」
彼の瞳は過去を見ていた。記憶をなぞり、懐かしむように目が細まって記憶の中の大切な人を追っている。
「でも、その子は俺からだけ愛情をもらってる訳じゃなかった」
「…………」
「何人かと転々と過ごしていたみたいで、俺はお互いが今の時だけでも唯一無二の存在で一緒にいると思っていて付き合っていたから、ショックが大きくて…、次にその子に会った時に加減も出来なくて思い切り頬を叩いちゃったんだ」
大事な人が自分の知らないところで他人と関係があった、なんて俺も昨日体験したばかりだ。でも彼の傷は俺よりもとても深いのだとすぐわかる。特殊な恋愛でない限り何も知らなければ当たり前のように目の前の恋人を大切にして持てる限りの愛情を注ぐに決まっている。その時は幸せと自分にはこの人しかいない、と思うくらい好きだからだ。突然自分だけが真剣に恋をしていた事を知ると深く傷を負い、自分はいままで何のためにいたのかがわからなくなる。
『苦しいから縛り付けないで、俺はこれからもこの関係を変えるつもりはないから、俺を自由にさせてくれないなら一緒にいられない』
「頬を打ったら、その子は何故自分が悪なのかと鋭く俺を睨んでそう言ったよ。そもそもの考え方とか、生き方が違ったんだと彼と別れることにしたんだけど……、その後から元々の性格もあるけどすごく臆病になってしまってね。何度か一緒にいたいと思う人がいたんだけど、自分が傷つくのが怖くて今もひとりでいる」
「だから、時折寂しくなる?」
「うん。久しぶりに家に自分以外の誰かがいて今すごく満たされてる」
「ひとりが寂しいのにひとりでいるのは辛いよ。渚さんすごく優しいから、それに惹かれてきっと過去以上にいい人が現れる。あとは、少し勇気を出すだけだ」
「………そうだといいな。ごめん、こんな話。」
小さく呟いて立ち上がった彼は俺の頭をそっと撫でてまた仕事に戻った。俺も寝転んで緩く入ってくる風を肌に感じながらうとうとして気づいたら寝てしまった。
俺無責任な事言ったかな、少しの勇気が彼にとってどれくらい大変なものか知らないのに、後で謝ろう。でもひとりは寂しい。俺だったらずっとそばにいてあげるのに。むしろあんなにも大切にしてくれるなら俺がそばにいてほしいくらいだ。
「雪くん」
「………………寝ちゃった」
「夜ご飯やっぱり外に行かない?」
「………うん、いいよ」
窓は閉まっていて外は夕焼けの空。だるい体を起こすとブランケットがかけられていて少し嬉しくて笑った。様子を伺うようにそばに立っていた彼を見上げて手に持っていたコーヒーをひと口くれと言うときょとんとした後マグカップを渡してくれた。
「何が食べたい?」
「…んー、ピザ」
「若いね」
「嫌だった?俺なんでも食べるよ」
「嫌じゃないよ。さ、上着着て出よう」
渚さんの家は俺の大学の近くにあるタワーマンションだった。俺の家から一駅、いつも行ってるバーも近い。こんな街中のマンション家賃とかやばそうだ。
「バーの近くにピザの美味しいイタリアンがあるんだけど行ったことある?」
「ううん、俺あそこら辺バー以外に入らないから全然わかんない」
人が多く行き交う通りをはぐれないように着いていく。何人か知ってる顔を見かけたりしながら立ち止まったのは大きなガラスがはまって中のきらびやかな照明の光が外に漏れているお洒落なお店だ。中に入るとカウンターでは客が酒を楽しんで、テーブルでは親子やサラリーマン、OLなど幅広い層が食事をしていた。
「テーブル席に行こう」
席について彼はメニューを開くと俺に渡す。それを受けとると写真つきのそれはどれも食欲を誘うものだった。
「渚さん、何が食べたい?」
「君の好きなものでいいよ」
「……渚さんってあまり自分の欲を出さないよね。俺に気なんか使わなくてもいいし、自分の食べたいもの食べればいいのに」
「……無意識なんだ。基本人と争うことが嫌いだから自分に支障がない限り波は立てないようにしてる癖があってね。もちろん、仕事とか曲げてはいけないところはちゃんと意見してやってるよ。こうして君に合わせるのは争うのを避けてとかじゃなくてただ単に安心できるからおまかせしちゃってるだけだよ。だから雪くんが決めて?」
「…………ならいいけど」
なんか、俺に心を許しすぎてる気がする。今日初めて会ったのに前からお互いを知っていたような不思議な感覚。それくらい渚さんの心の距離が近い。俺もそれに感化されて惹かれるし、甘えて、触れたくなる。
「雪くん?」
「…あ、ごめん考え込んでた。このピザにしようかな」
「美味しそうだね、お酒も少し飲もうか」
「ん、俺ビール」
ほろ酔いになって満腹で、あれほど寝たのにまた眠気を感じる。とても美味しくて少し食べ過ぎた、でも大満足な俺を楽しそうに見る彼を見て俺は笑った。
「ねえ、もっと笑って?渚さんの笑顔かっこよくて………ずっと見てたい」
「あはは、酔ってるの?ほらちゃんと歩いて」
「渚さんのおうち、帰ってもいい?」
「好きなだけいればいいよ。俺も嬉しいから」
心地いい、それは酔ってるからじゃない。その声が、言葉が、笑った顔が。俺を受け入れてくれる気がして。
泣きそうだ。
「雪っ」
ああ。
塞ごうとした傷がまた裂ける。
「お前朝から連絡もつかねえし、どこ行ってたんだよ」
この男、平気な顔でよく俺の前に現れたものだと思う。俺の行き先なんてもうあんたに関係ない。
「今日暇だから俺んち来いよ」
「………意味わかんない、行くわけないだろ」
「なんで?」
「なんで?………わかんないの?俺はあんたのセフレになった訳じゃないっ…。俺が本気で好きだったの知ってたよな…?同じ気持ちがないならもう会うつもりもない、顔も見たくないっ……!」
「…それで?そいつが次の彼氏かよ、尻軽」
「そうだよ!だからもうあんたはいらない、女でも男でも好きなやつと好きなだけ寝ればいい!じゃあなっ」
癒えない、全然癒えてない。あの瞬間、自分の気持ちが粉々に叩き割られたような痛みは今も破片が刺さって抜けないまま、痛いままだ…。裏切られた、悲しかった、辛かった、自分はあいつしか見てなかったのに自分は見てもらえてなかった。苦しい。もう、あんな思いしたくない。
「雪くん」
『雪』
「呼ばないでっ…!」
そこではっとする。
気づいたらマンションの下まで帰ってきていた。強く渚さんの手を握りしめたまま。
「あ………俺、…ご、ごめんなさい……」
「泣かないで」
「………俺、っ………」
「部屋に戻ろう」
今度は俺が手を引かれてゆっくりとした歩調で渚さんの部屋まで帰る。涙が止めどなく溢れて、視界は歪んだまま、渚さんの表情もわからない。背中でドアの閉まる音を聞いてもたつきながら靴を脱いだ。さっきまで昼寝していたソファーに座らされ彼も隣に座る。
「抱きしめてもいい?」
「………ん」
彼の肩に頭を預けて深く呼吸する。背中に回った温かくて包み込むような大きな手にまた涙が出た。
「泣かないの」
「………だって、……止まらない、だもん」
「君と俺は似てるね」
「………ほんとにね」
あやすように背中を撫でられて目を閉じる。
「君がバーで俺を彼氏だと嘘をついたとき俺は嬉しかったんだ」
「嬉しかった……?」
「ずっと話しかけたかった、君に彼氏がいても、それでもお互いちゃんと知り合って話をしてみたかった。こんな大人になってあれだけど、一目惚れだったんだと思う、君に恋してた」
「…本当?」
「本当だよ。でも俺はやっぱり臆病で、君の話をそっと聞いてるだけしか出来なかった。だから君が俺の腕に抱きついて彼氏だと言ってくれたとき君との接点が出来て、お酒が一緒に飲めて泣きそうなくらい嬉しかった」
俺の肩を掴んで目を合わせるように顔を覗かれる。瞬きするとまた新たに涙が溢れた。
「実はマスターが俺の気持ちに気づいてたみたいで、家も近いし君を連れて帰って寝かせてあげなさいって言ったんだ。君の意思関係なくこんなことをしてもいいのかとすごく悩んだけど、ただ本当に君を置いて帰れなくてね」
「……マスターが…、そうだったんだ」
「雪くんが許してくれるなら俺は君と一緒にいたいと思う。君を大事にしたい、俺のそばにいてほしい」
「………俺も、渚さんのそばにいたい。寂しくならないように一緒にいたい」
目の前にある彼の顔が心から嬉しそうに笑む。額同士が触れあったかと思うと優しく唇が触れあう。
「君がいればもう寂しくない、大事にする」
「ありがと、俺もあなたを大事にするよ」
これが、俺たちの始まり。
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