アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
5
-
「君たち、何してるの?」
廊下に、凛とした男性の声が響く。彼が声を発したと同時に髪を急に離され、再び床に倒れる。誰かが来てくれた安心感に力が抜けて依兎が腕の中から擦り抜け、俺の身体を起こしてくれた。
「くそっ」
彼らは典型的な悪役のような捨て台詞を吐いて別館へ向かって走り出した。
「ちょっと…、どうしたの?大丈夫?」
あの男性の声は、担任の西野先生のものだったらしい。そうか、先生に見つかったから逃げ出したのか。ずきずきと痛む頭の中でそう推測する。穏やかな先生の真剣な顔が印象に残った。
「季長が、僕のこと庇ってたくさん殴られて…」
「そうか、理由はあとで詳しく聞くよ。あの5人の生徒については僕が把握してるから。まずは早く保健室に行こう」
俺よりも少し背の低い西野先生が肩を貸してくれる。痛みとかよりも自分の情けなさに泣きそうだった。何の考えもなしに集団に突っ込んで、何もできなかったうえに助けた相手に怖い思いをさせてしまった。依兎は、保健室へ向かう間ずっと俺の制服の裾を握っていた。保健室の前には養護教諭不在の立て札がかけられていたけれど、西野先生がタイミング良く持っていたマスターキーで保健室のカギを開ける。中へ入るなりすぐにベッドの上に座らされ、殴られたところを、依兎が氷で冷やして、先生は擦り傷を消毒して絆創膏を貼ってくれる。
「依兎は、怪我しなかった?」
「うん、季長がずっと守ってくれてたから…」
「よかった…」
一応自分の目で彼に傷がないことを確認すると、ほっと胸を撫でおろす。救急セットを棚にしまった西野先生が依兎に話しかける。依兎は一瞬顔を強張らせるがすぐにいつもの表情に戻って冷静に先ほどの件について説明していく。
「どうして、こうなったか教えてくれる?」
「…はい。あの、僕が、教室に向って歩いていたら廊下でふざけてたあいつらがわざと僕にぶつかってきたんです。僕はとりあえず謝りました。だけどいちゃもんつけてきてその上、別館に来いって言われて無理やり連れていかれそうになったんです。ずっと抵抗していたんですけど5人相手じゃ全然意味無くて。あの渡り廊下でやっと腕を振りほどいて、逃げようとした僕を囲って殴りかかろうとしたところに季長が走って助けに来てくれたんです」
初めて知ったあの事件の理由に、あのとき俺が気付かずにいたら今頃依兎が一生立ち直れないほどの心の傷を負っていたかもしれないことに気付いてぞっとした。
「え、じゃあ日向くんは今まで何も知らなかったの?」
「は、はい。今知りました。下駄箱に依兎の外靴があるのに教室には依兎も鞄もなかったから…おかしいなと思ってなんとなく窓から探していたらあそこで何か揉めているのを見つけたんです。そしたら依兎が殴られそうになってて…」
「…そうだったんだ。日向くんよく見つけたね。それに二人とも、暴力で抵抗しなかったのは本当に偉いよ。あの生徒、別件で謹慎処分中でさ。僕が指導担当なんだけど、指定した時間に教室にいなかったから学校中探してたんだ。…僕はあの生徒たちのところへ行くから、日向くんは今日はしばらく保健室で休んでてね。あと春田くんもね」
「えっ、でも僕は…」
「春田くんも怖かったでしょう。目、兎みたいに真っ赤だよ」
「う…うさぎ…?」
「今日佐々木先生いないからさ、代わりに日向くんのこと看ててくれる?」
「…はいっ」
「ありがとう。じゃあ、落ち着いたらまた保健室に来るね。氷は好きなだけ使っていいから。あと授業担当の先生には僕から伝えておくから心配しないでね。それと教室に戻ったとき、傷だらけの日向くんを見たらクラスのみんな心配すると思うから先に理由を軽く説明しておいてもいいかな?」
「は、はい。ありがとうございます…」
先生はいつも通りの笑顔でお大事にね、と告げて俺らに手を振ると、保健室のドアを閉めた。依兎に氷をずっと持たせてしまっていることに今更気が付いて、慌てて氷枕を依兎から受け取ろうとする。
「ご、ごめんずっと持たせちゃって。手、冷たくなっちゃったね…」
俺が氷枕に手を触れてもなかなか離してくれなかった。きっと西野先生に俺の看病を任されたから譲らなかったのだろう。俺は素直に甘えて手をおろした。ベッドの端に座る俺の前に立ったままの依兎は顔を俯かせて、俺の足に出来た痣を見つめている。さっきまで真っ赤だった皮膚はだんだんと青黒くなっている。手当のために先生がズボンを捲ってそのままだったのを、隠すようにズボンの裾をおろす。
患部はもう見えていないのになかなか顔をあげてくれなくて、何となく依兎の頭を撫でてみる。さらさらの細い髪は武骨な俺の指には全く似合わなかった。でも、触り心地が良くてつい何往復もしてしまった。
「季長、ごめんね」
「依兎が謝ることじゃないよ。…怪我してなくて本当に良かった」
「でも、季長は殴られた。いっぱい怪我もした。嫌なこともたくさん言われてた、それなら…」
依兎が言いかけた言葉は、何となくわかった。でも俺が怪我をしたことが無駄にならないように言い切らなかったのだと思う。依兎は本当に良い子だなと改めて実感した。言葉を飲み込んだ依兎がやっと顔を上げたかと思ったら、俺の頭を胸に抱きしめた。思っていたよりも早い鼓動が制服越しに伝わってくる。
「い、依兎…?」
「季長、ありがとう」
「…どういたしまして」
そう一言だけ返すと、依兎の身体が離れていく。
「本当はね、すっごく怖かった。…だから、季長が名前を呼んでくれた時本当に安心したんだ」
声を震わせながら依兎はついに涙を流した。俺はやっと泣いた依兎に安心して、次々溢れてくる涙を指で拭う。俺の手にすり寄ってくる依兎が可愛くて涙が落ち着くまでずっと頬を撫で続けた。その後、氷枕を持って冷たくなった依兎の手を俺の手で包んで暖める。小さな依兎の手は俺の手の中にすっぽりと収まった。そういえばさっき依兎を抱きしめたときも俺の身体に全部収まるくらい彼は小さかった。
「依兎って、かっこいいね」
「え…?」
俺の言葉に、依兎はティッシュを鼻に当てたまま驚いた表情で固まる。
「走ってそっちに向かってるとき依兎の声が聞こえたんだ。あんな状況だったのに先輩に違うことは違うって言ってた。きっと俺だったら自分が心の中で思ってること、何も言わずに無抵抗だったかもしれない。ちゃんと自分の思っていることを口に出して言える依兎はよっぽど偉いし、男らしくてかっこいいよ」
「…ふふ、変なの。僕かっこいいなんて初めて言われた」
照れを隠しつつ鼻をかんでいる依兎が、あのとき俺が来てから何も言わなかったのはあの人たちをあれ以上熱くさせないためだったのだろう。彼のとっさの気遣いについては、心の中に仕舞っておくことにした。再び目も鼻も赤くなった依兎は生まれて初めて言われたらしい台詞にはにかみながら、また泣いてしまった。
「でもね、季長もかっこいいよ」
「え?」
「さっきの季長、王子さまみたいだった」
「俺も、そんなの初めて言われた」
依兎の笑顔を見てやっと力が抜けて、俺もつい笑った。俺の隣に座った依兎はその間も泣いたり笑ったり忙しそうだった。ころころ変わる彼の表情を眺めていると予鈴が鳴る。やっと一時間目が始まる頃か、なんだか今日は時間が経つのが遅い気がする。
「そういえば依兎っていつも学校来るの早いよね」
「えっ」
「早起きなんだね」
「人のことおじいちゃんみたいに言わないでよ」
頬を膨らまして拗ねたふりをする彼は足をパタパタさせてなんだか落ち着かない。そんなに答えづらい質問をしてしまっただろうか。
「違うの?」
「ち、違うよっ。その、季長が電車の本数少ないから学校に着くの早くなっちゃうって言ってたから…」
「え、俺の登校時間に合わせてくれてたの?」
「だって、みんなが来るまで20分ぐらいあるんだよ?…それに季長と二人で話すの楽しいんだもん…」
何故だろう、胸が締め付けられてるみたいにぎゅうっと苦しくなる。これが俗にいうきゅんとする、ということなのだろうか。しかも依兎も朝二人で話すのが楽しいと思ってくれていたことが嬉しくてしばらく言葉を失っていると依兎がこちらの様子を窺ってくる。
「す、季長?」
「俺も…朝、依兎と二人で話す時間が好きだから嬉しくて」
「…ふふ、よかった」
「依兎、ありがとう」
「ううん」
ベッドの上に膝立ちをした依兎は俺の背中にまわって氷枕を後頭部に当ててくれた。
「あ、ありがと…」
「まだ痛い?」
「ううん、もう大分痛みは引いてきたよ」
「そっか…」
依兎が俺の頭を撫でる。俺は隠しているピアスホールが見えてしまわないか内心はらはらしながら大人しく撫でられる。何故か俺の髪の毛に興味を示し始めた依兎に見せたかったものを思い出す。
「そうだ、今日依兎にこれ見せたかったんだ」
「なぁに?」
氷枕から手を離さず俺の隣に座った依兎に今朝撮った海の動画を見てもらう。十数秒の短い動画だけど画面に釘付けの依兎の瞳は海に負けないくらいきらきらしていた。
「うわぁ、綺麗…!」
「今朝、電車に誰も乗ってなくて…依兎が海に行ったことないって言ってたから」
「ありがとうっ、すごいね、これが電車からいつも見えるの?」
「もしよければ今度家に来て、海見に行こう」
「い、いいの?本当に?」
「うん。家からも見えるし、歩いても近いから。ただ、依兎の家からは遠いけど…」
「行く!行きたいっ」
「良かった。いつにしようか…あ、この日お祭りあるみたい」
「えっ、お祭り!」
「夏休みも始まってるしちょうどいいかも、依兎空いてる?」
「空いてる空いてる!」
「じゃあその日にしようか。楽しみだね」
「うんっ」
きらきらと眩しい笑顔で依兎が笑う。笑った彼の頬に涙の跡があって、指で拭ってみるけどすっかり乾いてしまっていて取れなかった。依兎は頭に疑問符を浮かべながら俺に頬を撫でられている。さっきから思っていたけれどいくら仲が良いとはいえ他人にこんな風に触られたら普通は嫌がりそうなのに依兎はいつも無抵抗だし、そもそも依兎は俺との距離感が近い気がする。依兎に他に仲が良い人がいたら、他の人にもこんな感じなんだろうか。そう思うと何だかもやもやして、初めて感じる気持ちになんだか落ち着かなくなる。タオルを濡らして顔を拭いてあげたところで、ちょうど保健室の扉が開く。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
5 / 6