アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
3.
-
3.
帰宅して台所や居間、寝室へと足を踏み入れても、Cの姿は見あたらなかった。となると、聞こえていた水音は、幻覚ではなかった訳だ。上着とネクタイをクローゼットに片付け、それから鞄の中からエコバッグを取り出し、Nは風呂場へと向かった。
バスタブに居座るCはすっかりご機嫌で、今にも鼻歌を歌い出しそうだった。インフラが瀕死に陥ったこのご時世、湯船へ浸かるなんて全く良い度胸をしている。もっとも最近、断水が続いていたから、N自身も汗を流したいと思っていたところだった。
浴室へ足を踏み入れても、不快な湯気に包まれることは無かった。どうやら冷水を張っているらしい。
「おかえりなさい」
踏み込まれても焦らず騒がず、Cは浴槽の縁に置いていたグラスをずらし、場所を空ける。
「夕飯はビーフンかお好み焼きにしようと思ってるんですけど。それとも、どっちも食べます?」
「君の好きなようにしなさい」
腰を下ろし、グラスを取り上げる時触れた指は、普段に増してひんやりしている。クリスタルガラスの中身を含み、Nは思わず片眉を吊り上げた。
「山崎を勝手に開けたのか」
「だって先生、また今度、また今度って、いつまで経っても開けないでしょう」
普段物静かな彼が水へ浸かっているにも関わらず、頬に上る火照りの理由を、けれどNはそれ以上咎め立てなかった。虚しさを覚えたのだ。かつてはスーパーで幾らでも売っていたような銘柄すら、いつ生産中止になるかと警戒しなければならない事に。
「ならばこれは、今必要ないな。酒のつまみにするには、少し甘すぎる」
そう言って、床に置いていた袋へ手を伸ばされるのを、Cの瞳は目敏く追っていた。地味なエコバッグから取り出された瓶に、普段から眠たげな眼が文字通り覚醒し、大きく見開かれる。
「売ってたんですね」
「スーパーが上手く仕入れたんだろう。何食わぬ顔でジャム売り場に陳列してあったよ」
コンデンスミルクではなく、ミルクジャムが良いのだとCは主張する。甘さがまろやかで、香りも良いからと。
Nからすれば、どちらも砂糖を煮詰めたものとしか思えない。だがCは数ヶ月前に切らして以来、スーパーへ行くたびに売場を覗いては肩を落としていた。
落胆の表情が醸す子供っぽさは、どう言うわけかNの欲情を酷くそそった。帰宅後、我慢できず玄関でドアに細い身体を押しつけるようにして交わったこともあるほどだ。
あれは後ろ暗い感情だと、Nは理解していたし、自制も心がけている。けれど今こうして、正反対の表情と向き合った時に覚える落ち着かなさはどうだろう。あの腹の奥から勢いよく突き上がってくる、間欠泉を思わせる衝動ではなかった。だが性欲な事は間違いない。
「どうせなら3瓶位買ってきてくれたら良かったのに」
無邪気に手が伸ばされた拍子に、ほっそりした腕を伝ってびしゃびしゃと水滴が滴り落ちる。避けるようにして瓶を遠ざけ、Nは無防備に晒された、Ωらしく産毛しか生えていない腋窩へちらと視線を走らせた。
「お礼は?」
Cの機嫌の良さを吸い取ったかのようなNの物言いに、簒奪された方はと言うと、最初は虚脱。きょとんとした顔の中、やがて僅かに開かれていた唇が尖る。往生際も悪く振り回された指先に、Nは上機嫌な笑い声と共に一層腕を引いた。
「後でしてあげますから、先に下さい」
「そんな交渉が通ると思ってるのか?」
「先生……」
太腿に置かれた手から、スラックスに水滴がじんわりと染み込む。食い込む指先は案外熱くなっている。ちゃぷんと水面を揺らし、Cは年上の男へ身を寄せた。軽く持ち上げられた顎の輪郭、それに上目を作る瞳。一度噛まれた下唇はさながら皮を剥いたばかりの果実。何も塗らずに、そのまま食べてしまいたくなる。
わざとらしく溜息をつき、Nは瓶を差し出した。Cが彼の腰へ肩を押しつけるようにしながら蓋を開き、そのまま中へ指を突っ込んだ時には、さすがに声を上げてしまう。
「不衛生なことを。黴が生えるぞ」
「生える前に食べきります」
瓶の中で僅かに渦を巻く、キャラメル色のねっとりしたクリームは、突き込まれた指をたやすく受け入れた。ぬぷりと音を立て沈み込んだ人差し指は、くいくいと何度か引っ掻く動きを見せた後、抜き出される。
ゆっくりと口腔内に差し入れられた指の動きは、舌で拭い取ると言うより、喉の奥へ押し込んでいるかのようだった。伏せられた瞼の縁で震える濃い睫に、水滴が乗っている。そんなことに気がつくほど、凝視していたのだ。
何度か指を突っ込んではこそげ取り、味わった後、Cは瓶の蓋を閉めた。
「美味しかったです、とても」
先生? と疑問符の付いた言葉は、浴場に反響することで寄る辺なさを増す。実際のところ、この青年は案外したたかだった。
「ああ、そうだな」
「僻まないで下さいよ。これからもっと良いことをするのに……ほら、こっち来て」
この先は最初から期待していたことだった。なのに、あんまりぼんやりしていたから、頭がついていかない。スラックスの裾を折り曲げることなく、そのまま脚を水の中へ突っ込んでしまう。「大胆ですね」と揶揄しながら、Cは内心間違いなく驚いていた。
ファスナーを下ろし、下着をまさぐり、現れた物を眼にして、Cはふうっと息を付いた。まさか皮膚で匂いが分かる訳でもないが、敏感な先端にその温かい息が触れた時、Nは間違いなく甘さを想起した。
好物を与えられて機嫌のいい口は、まるでペニスにジャムがたっぷり塗りつけられていると言わんばかりだった。緩く芯を持ち始めたものを手のひらに乗せ、袋の付け根から先端までべろりと舐める。見上げるCの眦は、ただ純粋に楽しさのみが作る高揚で、甘く笑みを刻んでいた。
奉仕するために身が屈められれば、水の中で尻が突き出され、折り畳まれた脚が膝を擦り合わせる動きでもぞつく。ぼやける肢体を見下ろし、人魚のようだとNは思った。泡になって溶けてしまうような儚い存在ではなく、美しい歌を口ずさみ、嵐を呼んでは船乗りを破滅させる生き物。
素直にそう口にすれば、Cは含んで舌で転がしていた鬼頭から口を離し「そう言えば『人魚との交尾』って小説がありましたよね」などと宣う。
「あれは、死姦の話だ」
「そうでしたっけ」
そのまま再び行為に没頭することで晒される項を掌で撫でてやると、喉の奥を突くよりも遙かに大きな震えが身体に走る。
これが拒絶なのか、恭順なのか、それとも期待なのか。読むことの出来る男というのは、ミルクジャムを3瓶買うのだろう。
苦く自嘲しながら、Nは迫り来る快楽に備え、腹に力を込めた。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
3 / 6