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手提げ鞄を持ち上げ、Nは「それじゃあ」と頷く。振り返ることもせず、「いってらっしゃい」と口にした自らへ驚いたのは、ドアが閉められてしばらくしてからのことだ。
まるで夫にかしずく専業主婦みたいな物言い。Cの両親は共働きで、朝とは家族全員が出勤や登校の準備に追われ、騒がしいものだった。こうやって呑気にコーヒーを啜りながら時間を過ごすなんて、ましてや自分が誰かを見送る立場になるなんて、考えもつかなかった。
手にするマグカップの中身はまだ微妙に温もりを保ち、辛うじて芳香を嗅ぐことも可能だった。一口啜り、Cは壁一面ぶち抜きではめ込まれたガラスの外を見やった。
都心まで車で1時間足らずとは言え、あちらこちらに緑が残るこの辺りは、田舎以上郊外未満とでも呼ぶべきだろうか。Cが暮らすこのマンション以外に、高層の建物はほとんど見あたらない。夏に道を歩けば蝉がうるさいし、秋の夜なら鈴虫も。近隣住人が週末に張り切って買い物に行くのはショッピングモール。もう少し小規模の、スーパーとホームセンターが合体したような店舗に入っているテナントで一番人気なのはミスター・ドーナツだ。
Nが仕事帰りに時々買ってきてくれるポン・デ・リングも、しばらくはお預けだろう。朝の光の中に棚引く黒煙は部屋中を焦げ臭くするだけではなく、心の中まで暗澹とさせる。
同じ方向にある工業団地の火事かと思った。だが最上階に近い見晴らしの良さは、楽観を軽々と否定する。
10年ほど前の世界では、スーパーが焼き討ちになんぞ遭おうものなら、全国ネットで大々的に報じられていただろう。今Cの目線と同じ場所を飛んでいるヘリコプターは一台だけ。もしかしたらあれは報道陣ではなく、警察関係者のものかもしれない。
全ての人間が、異変に慣れきっていた。突然変異したウイルスについても、周辺諸国の紛争についても、それに関する政府の対応も。対岸の火事がこちらへ延焼してを繰り返し、世界中でぼやが起こっている状態が長く続けば、それが日常となる。
国民性なのか、それとも警察の強権がまだ生き残っているのか。何かのきっかけで一つの店舗が破壊されても、他の場所へ余り飛び火しないこの傾向を、安堵すべきなのか笑うべきなのか分からなかった。
二日ほど前から続いている暴徒の略奪行為は恐らくもう、たけなわを過ぎている。昨晩なんかNと二人、この窓辺にソファを引き寄せて、オレンジ色の炎と微かに聞こえるサイレンを肴にワインを飲んでいた位だった。部屋に満ちる匂いをごまかすよう、スモーキーな芳香の白ワイン。Nは「この日曜日の晩が燃え尽きるようだ」なんて歯が浮くような台詞を口にして。そして。
後でソファの汚れを確認しておかないと。むやみやたらと悲観的になる必要はない。あそこの店が焼け落ちたところで、買い物が出来る場所はいくらでもある。
頭では理解できているのだが、少しの逡巡の後、Cはジーンズのポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。
5度のコール音の後、Nは応答した。車のオーディオをスピーカーにしているのか、流れるようなエンジンの音が聞こえてくる。
「どうした」
「ちゃんと迂回してるかな、と思って」
幾ら賢い頭でも、唐突な穂口を飲み込むには多少の時間が掛かったのだろう。
「また国道にも出てやしないよ」
短い沈黙の後、Nは自らの回答の妥当性を探る、慎重な口振りで答えた。
「気をつけて下さいね。今も結構燃えてるみたいです」
「全く、馬鹿な連中だ」
決して大きくない括りを用いても、自分と彼らが同じ属性にいる。そんなことは思いもしない物言いだった。うんざりしつつ、己とて彼の傍らにいることで、高みにいる身分だ。しかもこの待遇を思い切り享受している。
「休講にすれば良かったのに」
「もう今期に入ってからウイルスの消毒だ、ミサイル警報だと、とにかく何度も休まされてる。このままだと夏休みも通い詰めになりそうだ」
「それは困りますね」
気のない口振りは、まるで彼が一日中家にいることを望んでいないように聞こえやしなかっただろうか。時にはそんな気分になることを否定できないだけに、Cは思わずそう口にしていた。
「馬鹿みたいだって思うでしょうけど、先生。行かないでって言わなかったのに、凄く罪悪感を覚えたんです。だってこんな、いつ世界が壊れてもおかしくないような時に及んで講義を聞きにくるなんて、よっぽど金持ちのαか、事態を理解をしてない馬鹿か、だってあんな退屈な……ごめんなさい」
「いや、構わないよ」
「ああ、自分でも話してて本当に馬鹿みたいだ。そんな馬鹿達のために、先生が出て行く必要なんてないですよ。ずっとずっと、好きな研究をしてたらいいんです……いや、でも先生の研究って、どうなるんだろう。世界が無くなったら、誰も覚えていてくれない」
マグカップを握りしめる指は力がこもり、関節が白くなるほどだった。堰を切ったように溢れ出す感情は、Cがこれまで存在すら知らなかったものだ。このまま涙が出るかと思ったが、どんよりと鈍く痛む頭は、それ以上の感傷を子供っぽい冷笑で覆い隠す。真夏を目前にした、こんなにも良い日和なのに、もくもくと上がる煙が全てを台無しにする。人間が全てを。その中でも食物連鎖の頂点、王者を自負するα達は、一体何をしていたのだろう。
もちろん、愛に溺れて、Ωを可愛がっていたのだ。
「これは自己満足だよ」
カップの縁を前歯で噛む硬い音が、いい加減耳障りな事だろう。けれどNは動揺を見せることなく、そう答えた。学者の思慮深さでもう少し考えてから、言葉が紡がれたとき、その低く心地良い声には間違いなく愉悦が混ざっていた。
「私が学部内で浮気でもしたと思っていたのかね」
「違います」
どうしてそうなるのやら。大体貴方、今でも俺を不倫をしてるみたいな気分にさせてるじゃないですか。
悪態と冷めたコーヒーを、Cは一息に飲み下した。
「ああ、もう、すいません。もう構いませんから、運転に集中して下さい」
「帰りに何か買ってくる物は? 昨日の晩言っていなかったか」
「ええっと、タマネギと、薄口醤油と……メモ送っときますね。ああそうだ、薬局へ処方箋転送しときますから、ピルを受け取ってきて貰えます?」
とにかく性に関することは、あからさまに嫌がるNの事だ。さぞかし渋面を浮かべていることだろう。辛うじて溜飲を下げ、Cは通話を終えた。
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