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交錯夫婦【前編】(mfsr)
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いつも通りの低い体温と、きちんと食事をしているのか不安になる重さが人形のようにボタリと僕の胸に崩れ落ちた。
「旦那様!?旦那様!!返事してくださいっ、そらる様!!!」
そんなにも体調が優れなかったんですか。どうして安静にしないで見舞いになんか来るんです。僕の事はほっといて自分の体を優先してくださいよ。
駄目だ、混乱して旦那様を責める言葉しか頭に浮かんでこない。他にやるべきことがあるだろ。ここは病院だ。看護師さんを呼んで、然るべき処置を施してもらえばいい。早く動け、早く!!
「今っ、看護師さん呼んできますから」
「待った!!!そらる様は寝てるだけや」
何故坂田がここに居るかはさておき、旦那様は寝ているだけってどういうことだ。坂田はテーブル上のピルケースの中身を確認するとやっぱりな、と呟きポケットから別のピルケースを取り出した。
「こっちが本物の貧血の薬。そらる様が持ってたんは睡眠薬。ピルケースのデザイン似てて間違って持ってきたんやろなぁ。迎えに来て正解やったわ」
つまり、旦那様は貧血の薬と誤認して服用した睡眠薬によって突然眠りに落ちたという事になる。貧血状態ではあれど倒れたのは単なる薬の効果、急病などではない、と。
「はぁぁ〜、もぉ…」
ほっとしたの一言では表しようのない感情がどっと溢れ、思わず眠る彼を掻き抱く。壊れてしまったのかと思った。体が弱いくせに1人では抱えきれない量の仕事をこなそうとするし、僕が入院してからは毎日飽きずにここへ来るんだから疲れてるに決まってる。その上昨日は中庭で涙を流し、今日は睡眠薬を飲んで倒れて…。本当にこの人からは目が離せない。
「そらる様の事心配してくれたん?」
「そうだけど。何、文句ある?」
「ないない。ただ、一ノ瀬家に来たばっかのまふやったらそらる様を適当に寝かせて『自己管理がなってないですね』で済ますと思ってさ。そっから見ればかなり甘くなったやん」
「目の前で人が倒れたら誰だって心配するでしょ。旦那様だからとか、そんなんじゃない」
「ほぉん?まぁそういう事にしとくわ。取り敢えずそらる様連れて帰るから、車まで運ぶんに車椅子借りてくる」
「わかった」
坂田が病室から出ていったのを確認した後、どうして睡眠薬なんか飲んでるんですか、なんて答えが返ってくるはずのない問いかけをして旦那様の顔を覗き込む。相変わらず顔色が悪い彼の乾燥した唇には血が滲んでいた。
────好きになってごめんなさい。
誰に向けての言葉だろう。
嗚呼、なんて白々しい。僕と旦那様以外にこの病室にいなかったのに、僕を他の誰と間違うのか。だが僕は彼に好かれることをした覚えはこれっぽっちもない、口を開けば生意気な事ばかり言う5歳年下の男だ。
きっと睡眠薬の効果で夢と現がごちゃ混ぜになっていたんだ。そうだ、そうに違いない。あれは夢の中の想い人に向けて言った言葉で、あの口付けはその人にしたものなら合点が行く。旦那様の事だから自分が既婚者なのに配偶者以外に恋をした事に対して後ろめたさが残っているのだろう。だからごめんなさいなんて言葉を……。
(どうしたって僕は邪魔者か。別居は得策だったな)
戻ってきた坂田に旦那様を預け病院の出入口まで送り、冷蔵庫から旦那様が買ってきてくれた抹茶のケーキを取り出した。
口に入れた途端、口内に広がるしつこい甘み。
旦那様、実は抹茶のケーキって全く苦くないんです。幼い子供でもぺろりと食べられてしまうくらい甘くて、僕が嫌いな味。生クリームとか果物とか要らない。そのままの抹茶が好きなんですよ、僕。知らないと思いますけど。
だからモンブランなんて以ての外なんです、1口だって食べられない。明日来たらきちんと食べて帰ってくださいね。冷蔵庫にしまっておきますから。
明日はココアじゃなくて紅茶の方が良いかもしれない。ストックはあっただろうか、無かったら買って……、いや何旦那様が来るのを楽しみにしてる感出してんだ僕。違う、紅茶を用意するのはあれだ。流石にあの一ノ瀬家の御曹司を茶の一杯も出さずに迎え入れるのは万死に値するから仕方なくだ、うん。
……分かってる、苦しい言い訳ってことくらい。
「大分あの人に毒されてるな…」
案の定無かった紅茶の茶葉を売店で購入し、明日が来るのを待つ。旦那様がいない時間が嫌に長く感じられ、消灯時間よりも早くベッドに潜り込んだ。
明日は何時頃にいらっしゃるだろう。
そんな、抱くつもりはなかった微かな期待を裏切るように、翌日から旦那様はパタリと姿を現さなくなった。
「今日は浦田さんですか……」
「あからさまに嫌そうな顔しないで頂けます?そらる様に会えなくて寂しいのは分かりますけど」
「別にそんなんじゃありませんから」
浦田さんと坂田は旦那様の代わりとして交互に見舞いに来るようになった。長くて1時間、短いと15分程病室に居る。そして旦那様の様子や捜査の進捗を毎回報告してくれるのだ。
僕が入院してる間に旅行から帰ってきていた彼らは帰宅した直後、爆破の影響が色濃く残るリビングを見て言葉が出なかったという。旦那様から何も知らされていなかったのだ。恋人と二人きりの旅行を邪魔しない為に旦那様はわざと今回の件について伝えず、一人屋敷で過ごしていたのだろう。警察が捜査しているとは言え、心細かっただろうに。
「今日はお伝えしなければならない事があるのでいつもより早めに参りました」
「確かに、午前中に来るのは珍しいですね。何かあったんですか?」
「今朝、そらる様がお倒れになりました」
「っ、………聞きたいことは山ほどありますけど、取り敢えず原因だけ教えてください」
浦田さんは首を横に振った。そんなに複雑で重い病に罹ってしまったのだろうか。最悪な思考が脳裏を過り僅かに指先が震え出す。その震えを止めるように、僕のより幾分か小さい手が重ねられた。大丈夫、と言われているみたいだった。
「看護師免許を持つ坂田曰く、何かの発作や命に関わることでは無いそうです。朝一で主治医のいる病院に連絡して、今屋敷で診察を行ってもらっています」
「そうですか…。浦田さん、30分後にある診察が終わるまで待ってもらえますか。昨日そろそろ退院しても良いとお医者様が仰っていたので、交渉次第で今日退院出来るかもしれません」
「分かりました。もし退院許可が降りたら一緒に帰りましょう」
無事退院を許可され浦田さんの運転で約1ヶ月半振りの帰宅。元々は病院から直接実家に帰ろうと思っていたのだが、旦那様の容態を確認してからでも決して遅くはない。荷造りが出来次第実家に帰省すれば良い。
入院時の荷物は浦田さんと坂田に預け、僕は夫婦部屋に直行する。室内から僅かに聞こえる話し声の邪魔にならないよう、静かにドアノブを捻った。
「失礼しま、…す」
ベッドに横になる旦那様の枕元に座る異国の血が入った銀髪の男。緩やかに微笑み額に掛る黒髪を払い、慈しむようにそっと口付けたその直後、僕を視界に入れた男は明らかに動揺し始めた。彼の出で立ちから医者だと伺えるが、どう見ても医者がする行動の範疇を超えている。
しかし旦那様は彼に擽ったいと笑い、微塵も嫌そうな素振りは見せず、ただ銀髪を丁寧に撫でた。
旦那様のこんな甘くて柔らかい表情、見たことがない。
この人か、旦那様の想い人は。
「……お邪魔してしまったようですね。出直します」
「あっ、ちょっと待って」
銀髪の医者はルスと名乗り、小さな紙切れを渡してきた。旦那様の今の状態について書かれていると言って。
「どうも。では僕はもう行きますので」
自分の部屋に戻ってからその紙切れに書いてある文字を隅々まで読んだ。旦那様が倒れた原因は過労と寝不足。数週間前から貧血薬と共に睡眠薬を処方されていたらしい。寝不足の原因は「精神的な問題による不眠症」と、ざっくりとした事しか記入されていなかった。
「すーっ、なるほどね?」
この「精神的な問題」の内容が知りたいんだよ。この一言で僕が納得すると思われているのか、はたまた「お前は自分と違って彼の心の問題に介入出来るほど親密ではない」と嘲笑されているのか。
どちらも有り得るのが腹立たしい。
「まふ、ちょっとええ?」
「あ゛?」
「ひっ…。お、俺なんかした?」
「悪い、イラついてただけ。何か用?」
「今警察の人が来てる、そらる様かまふを呼んでくれって言ってきたんやけど」
「僕が対応する。応接室に通しといて」
「了解!」
警察から受けた話は至極簡潔だった。
この屋敷に爆弾を送り込んだ犯人が逮捕されたのだ。犯行動機は「恵まれている人間が憎かったから」
貧困を極めていた犯人は、働かなくとも優雅な生活ができる有閑階級の人々を常日頃から妬んでいたらしい。そんなある日、相川家に爆弾が送られてきた事件が書かれた新聞記事を見つけた。これを模倣すれば自分に疑いが向きにくい上に、上手くいけば憎き人々を殺すことが出来る。犯人はこの新聞記事をきっかけに、犯行に及ぶ決意をしたのだ。
そして爆弾を独学で自作し、宅配業者になりすまして適当に選んだ名家と呼ばれる家門へ爆弾を送った。これが犯人への事情聴取で明らかとなった一連の流れ。
そう、たまたまだったんだ。一ノ瀬家が標的にされたのは。
良かった、本当に良かった。僕のせいで旦那様が危険な目に遭ったのでは無いとわかり安堵する。僕達の生活にひとまずの平穏が訪れたのだ。
あの銀髪の医者の存在を除けば。
新聞や雑誌に大々的に取り上げられた一ノ瀬家次期当主の結婚。相手は由緒正しき家柄のご令嬢ではなく汚名が残る相川家の次男という事もあり執拗に注目され続けた。それらの媒体を一切見ない人間でもどこかで旦那様と僕が結婚した話は聞いたはず。
なのに、どうしてあんな……。
辞めよう、思い返すだけで吐き気がする。
旦那様は結婚する前から彼と好き合っていたのだろう。あんな風に触れ合っていたのは愛し合う者同士なのだから自然なことだ。
さっさと荷造りを済ませてしまおう。
これ以上二人の邪魔になる前に。これ以上、必要の無い感情をあの人に抱く前に。
──────
サラリとした白髪を風に靡かせてこちらを見る柘榴石のような瞳。彼が身に纏う服は皮肉にも結婚した日に着ていた物と全く同じで、トランクは誰に預けることも無く自分で持ち、俺との決別の意をはっきりと示した。
「今までお世話になりました」
深くお辞儀をして顔を上げたまふまふは、恐ろしく美しい笑みを浮かべていた。
「大っ嫌いでしたよ、元旦那様。僕の人生に汚点を作ってくださってありがとうございます」
あははっ、と爽やかに笑う彼を誰も咎めやしない。否、咎められない。被害者だから。俺と無理やり結婚させられた挙句、俺を守ったせいで大怪我をしたまふまふは。
俺の夢が「一ノ瀬家の当主として相応しい男になり、家と国を支えること」であるように、まふまふにだって夢があっただろうに。俺がその夢を壊してしまった。俺が自由を奪ってしまった。
「ごめん、まふまふ。でも」
「その声で僕の名を呼ばないで。もう行きます、二度とお会いすることはないでしょう。さようなら」
実家から寄越された迎えの車に乗り込んだまふまふは一度も振り返ることは無かった。
終わった。全部。あの声を聞くことも、一緒に眠ることも、朝に食堂まで運んでもらうことも、まふまふ手作りのココアを飲むことも、これから先はどう願ったって叶わない。
「ゃだ、まふまふッ…!!!!」
目を開けばいつも通りの何の変哲もない夫婦部屋が視界いっぱいに広がり、ほっと胸を撫で下ろす。
あれは紛れもない悪夢だ。俺が今一番恐れている夢、まふまふと離婚して彼がこの家を出て行くという、正夢になりそうな悪夢。
最近は睡眠薬のお陰で夢は見ていなかったのに、全てルスに没収されたせいで…。
「一回に10錠?!死にたいんかそらるさん!!」
当たり前だけど怒られた。服用方法を守らなかったのは悪いと思ってる。でも、正規の服用量ではどうしたって眠れなくて、日に日に量を増やした結果がこれだった。
まふまふがしたいなら離婚する。そう言ってしまった手前、離婚届を突きつけられたらこちらに拒否権はない。本当は傍に居て欲しいって思っても、迷惑にしかならないから。
そう思いながら眠ってしまったせいだろう、こんな夢を見たのは。
じっとりと汗をかいた体にパジャマが張り付いて気持ち悪い。入浴しようとベッドから降りた時、部屋にある姿見が視界に入った。
血色が悪く濃い隈の残る顔、全身に伝う汗、ベタついた髪。とても人に見せられるような姿ではなかった。
パタ、パタ、とスリッパを鳴らして浴室を目指す。ここ数日、体を綺麗に出来ればそれで良いとゆっくり湯船に浸からず、疲れが蓄積された体で壁を頼りに少しずつ移動する。
(体、重いな。歩くのってこんなにしんどかったっけ…?)
「旦那様、何をなさっているんですか」
どうしてこういう時にまふまふは来るんだろう。こんな姿見せたくないのに。幸い、彼は俺の背後にいるから、早々に話を切り上げれば正面に回り込まれることは避けられる。
「ぁ、、や…、嫌な夢見ちゃったから、お風呂行こって、思って」
「大丈夫ですか?浴室はもっと先ですけど、おひとりで移動できます?」
ガタリ、と何かを置く音がしてまふまふの手が汗の染み込んだ寝衣に触れようとし、反射的にその手を振り払った。
「今汗すごいから、触らないで。一人で行ける」
「壁に全体重預けて歩く人にそう言われたって説得力ありませんよ。汗なんて気にしません、失礼しますね」
情けないくらい軽々と持ち上げられた。
負担にならないようにする為だろう。抱き上げられても尚、顔を見られたくない一心でまふまふから離していた上半身を慣れた手つきで彼の方へ引き寄せられ、頭がまふまふの肩にコツンと当たった。
何度されても慣れないこの距離にぶわっと顔の温度が上がるのが分かった。
「だからほんとに大丈夫だって言っ」
「大丈夫じゃないんですよっ!」
まふまふの張り上げた声が廊下に響いた。初めてだった、まふまふがここまで感情を露にしているのを見るのは。
「大丈夫じゃないから旦那様は倒れたんです。浦田さんから貴方が倒れたと知らされた時の僕の気持ち、分かりますか?」
怖かった、心の底から心配した、とまふまふは唇を噛み締めた。心做しか目が潤んでいるような気がする。
「…ごめんね」
首に手を回し優しく頭を撫でる。長男の性なのか、年下の彼が泣きそうになっているのは見過ごせなかった。
「もう、良いですから。浴室行きますよ」
「ん」
受動的に抱き上げられた姿勢では見えることのなかった背後が見えるようになり、その光景に目を見開く。まふまふの後ろにはこの家にある彼の荷物が全て入ってしまうくらいの大きなトランクが置かれていたのだ。別居するのは確定らしい。
「浴室の前で待っていますから、終わったら呼んでください。お部屋に戻った後、お話があります」
とうとう別居したいと本人から伝えられる時が来た。首を横に振ってしまいたい気持ちをグッと堪え、何とか頷いた。
「そんなに風邪引きたいんですか貴方…」
鏡台の前に座らせられ毛先から水が滴る髪を梳かれる。まふまふはタオルで丁寧に髪に残る水気を拭き取ったあと、ドライヤーのスイッチを入れた。
髪を乾かしてもらうのも、きっとこれが最後になるだろう。まふまふの姿を目に焼き付けるように鏡越しに彼をじっと見つめた。何度か目が合い、その度何も無い風を装って数秒後にはまたまふまふを目で追いかける。
何だこれ、恋する女学生みたいじゃないか。
「終わりましたよ。お話はこのまましてしますね」
まふまふが背後から移動して俺の横に膝をつくので俺も体ごと横に向ける。真剣な眼差しの彼から放たれる言葉はひとつしかないのに嫌に緊張して落ち着かず、手に滲む汗をパジャマで拭った。
「爆弾を送ってきた犯人が逮捕されましたよ」
「は?」
「は?じゃありませんよ、大事なことでしょう?」
事件の詳細を語り始めるまふまふについていけなくなって話を中断させた。兎に角身の安全が確保されたってことは理解出来たから、その話は終わりにしよう。まふまふは俺にもっと伝えるべきことがあるでしょ。
「まふまふ、あの、さ」
別居はいつから?
別居が終わる日は来る?
それとも別居した後は離婚する気でいるの?
「えっと、」
もし、離婚したいですって言われたらどうする。
どうするもこうするも俺には素直に応じるしか道はない。自分でそうしたんだ、即行で書類を準備し判を押して役所に持っていく以外何がある。どう転んだってまふまふから離れることが最優先事項となるのだ。
「旦那様?言いたいことがあるならはっきりと」
バンッと扉の開く大きな音で遮られたまふまふの言葉。音を立てた主は病院に戻ったはずのルスだった。
「そらるさんに渡し忘れたものがあったから、また来ちゃった」
「来ちゃったって…。病院から出てきて大丈夫?」
「今昼休みだから。渡したらすぐ出るつもり、だったんだけど」
そらるさんの泣きそうな顔見ちゃったら戻れないや、とルスは石像として美術館に飾られてもおかしくない整った造形の顔を歪ませて俺の両頬を包む。
「患者さんに迷惑かけたらダメだよ、時間内にきちんと戻って」
「ん〜…。じゃあそらるさん、悩みがあったら薬じゃなくて僕を頼ってね。僕はそらるさんの」
「あの」
「わあっ!奥さんいたん?!」
「悪かったですね、影が薄くて」
ぐっ、と強く腕が引かれ、椅子から勢いよく立ち上がってバランスを崩した拍子に何かに全身を包み込まれる。まふまふだ、まふまふに抱き締められてる。どうして、なんで、こんなことするの?
「この人は僕の夫です。いくら同性であっても既婚者にベタベタ触れるのは如何なものでしょうか」
何それ。嫉妬したってこと?
違う、まふまふのことだから真面目にマナーを説くつもりで言ったんだ。そうに決まってるのに、それ以外有り得ないのに、俺の顔、今絶対赤い。
「そらるさん奥さんにすっぽり可愛い〜」
ぐしゃぐしゃと乱すように髪を掻き回される。年下扱いされているみたいで少し嫌だけど、相手はルスだから仕方ない。
「言った傍からッ」
「ごめんね。大切な人が泣きそうになってたんだもん、ほっとけなくて」
「は、大切な人って…」
「あっ!昼休み終わっちゃうから行くね。えっと、はいこれ、パーティーの招待状!そらるさんの体調が良くなってたら来てね。奥さんも一緒に」
慌ただしく封筒をテーブルに置いて帰っていった。ルスのいた場所に残る仄かな消毒の香りに意識を現実に引き戻され無意識にまふまふの服を掴んでいた手を引っ込めると、突き放すように肩を押された。
「すみません、急に抱き寄せてしまって。さっきの僕、どうかしてました」
どうかしてたって何。夫婦が抱き締め合うのは何もおかしなことじゃないでしょ。って、口に出来たらどれだけ良いだろう。
何も言えずボケっとしている間にまふまふは夫婦部屋から出ていき、俺は呆気なく一人ぼっちになった。
鏡台の前から動くのも面倒で、鏡の中の自分とにらめっこ。鏡に映るのは全部全部が真逆の世界、もしかしたらそっちの俺はまふまふに好かれているかもしれない。毎日抱き締め合って眠り、挨拶と一緒にキスをして、愛の言葉を囁き囁かれて。どんな甘味よりも甘くてとろとろに蕩けてしまいそうな日々を送っているのかも。いいな、羨ましいな。もしそうなら立場を交換して欲しいくらい。
先程までまふまふが触れていた場所がジクジクと熱くなる。離れたくなかった、もっともっと触れていて欲しかった。
両親でも、気心の知れた仲の使用人でも、いつの日からか主治医となった彼でもなく、まふまふが恋しい。
『体調を崩した時は人肌が恋しくなる』
誰が言い始めたか分からない迷信紛いのことが実際に起きるとは思いもしなかった。
(ごめんね、まふまふを想うのを辞めるなんて、やっぱり出来ないや)
───────
完全にやらかした。
何だ「僕の夫」って。それ以前に相手は旦那様に愛されている恋人だろうが。いくら二人の距離の近さが気に入らなかったとはいえ、僕はただの書類上の妻であって「旦那様にベタベタ触るな」と牽制出来る立場ではないのは百も承知だったはずだろ。
それなのに、だ。幼稚で自分勝手な独占欲を剥き出して旦那様をあの医者から引き剥がしたのは変えようのない事実となった。
「馬鹿なのか俺は…」
咄嗟に自室に逃げ込んだはいいものの、旦那様と顔が合わせづらくなった。結果的には旦那様と距離を置ける良い機会になったのだ、これで良い。
そう自分に言い聞かせ、廊下から回収したトランクに荷物を詰め始めた。
夜。
一通りの荷造りを終え、あとは実家に連絡するだけだけとなった。早速書斎にある電話機に手を伸ばし、懐かしい番号を心の中で唱えながらダイヤル回す。最後の数字に手をかけた時、ふといくつかの疑問が思い浮かんだ。
旦那様があの様子では、実家に帰ったとしても心配でずっと彼のことが頭から離れないのではないか。
それにもし回復したとして、旦那様は夫婦で招待されているパーティーに1人で参加するのだろうか。
そして、邪魔者がいなくなったあと、あの医者とはどうなるのか。
心の中の蟠りがどんどん大きくなっていく。
「その電話機は故障中ですよ」
「っ?!」
ひょこっと横から現れた人物に声を掛けられた弾みで受話器が滑り落ちて机に直撃する。え、これ、僕のせいで修理じゃなくて買い替えってならないよね?
「来週新しいものが来るまでは代わりに電報を送ることになります。如何致しますか?」
良かった元から買い替えだった。電話機なんて高価なもの弁償するだけでどれだけの金がかかるのか、想像するだけで鳥肌ものだ。
「いえ、そこまで急な用事ではありませんから。少し、家族が恋しくなってしまったと言いますか」
適当に吐いた嘘を真に受けた浦田さんは心底意外だと言うように目を見開くと、顎に手を添え、少しばかりどこかの探偵っぽく思考を巡らせてにんまりと笑った。
「入院生活が長かったせいでしょう。今夜からはそらる様と一緒に眠れますし、寂しさも少しは紛れると思いますよ?」
「旦那様と…?あっ、」
ド忘れしていた。
旦那様と同じベッドで眠り、旦那様の湯たんぽとなって抱き着かれていたことを。
流石に今の状態で湯たんぽにされることは無いだろうが、同じベッドで眠るのもかなりキツい。
僕が一緒に眠ることで睡眠の妨げになる可能性もありますし、別室を用意してもらえますか?
こんな風に旦那様の体調不良を口実にしてなんとか別々に眠りたかったのだが、この空気からそれを言い出すことはまず不可能だった。
「お隣失礼しますね」
色々と諦めて旦那様が眠るベッドに横たわる。
旦那様の位置を確認する為にベッドサイドのランプをつけると薄目を開けて僕の方に寝返りを打った。
「まふま…、?」
「どうかしましたか?」
サラサラの黒髪が胸に押し付けられる。
旦那様は悪戯っ子のような幼気な笑みを見せると、あったかい、ぎゅってして、と甘い声で呟いた。
「随分と、甘えん坊ですね…?」
「ひとりいや。うまくねらんないの。ゆめでくらいくっつかせてよ」
布団の中に隠していた手が冷たい指に絡め取られ、俗に言う恋人繋ぎにさせられる。
つまりなんだ、旦那様はこれが夢だと思い込んでいるのか。普通は夢に想い人が出てきた時にだけそういう姿を見せるもんだろう。何が悲しくて僕に甘えているんだか。
「……ゆめでもだめ?まふまふいなくなる?」
そんな潤んだ瞳でいなくなって欲しくないみたいな、僕がここにいないと寂しいみたいな言い方しないでくれ。この数ヶ月で貴方の涙に滅法弱くなったせいで、僕の負けは確定してるんですから。
「〜〜っ手離してくださらないと、抱き締められませんよ」
恋人繋ぎにした手をきゅっと握られるも、数秒後には素直に離された。なくなった温もりを求めるように右手を腰に回して、左手は旦那様の後頭部に置き、髪の流れに沿って優しく手を滑らせる。
「これで、満足ですか?」
返事の代わりに背中へ腕を回される。怪我への配慮なのか、手は背中に触れることなくパジャマだけを掴まれる。気づいた時には気持ち良さげな寝息を立てて、旦那様は本物の夢の中へ落ちていった。
そんな旦那様とは対照的に僕の目は冴えまくり、全く眠りにつけない。旦那様のせいだ。
至近距離にいる旦那様から漂うお揃いのボディーソープの香りと、僕の体に絡みつく細く柔らかい体躯、極めつけに耳に触れる静かな吐息。
これで何も意識せずに眠れる方がおかしい。
(貴方の目には俺がどう映っているか知りませんけどね、俺だって性欲がある立派な男なんですよ)
理性は強い方だから今この瞬間も襲わないでいられるだけ。良かったですね、嫁が紳士で。
僕の中で旦那様の存在は大きくなっていく一方で、どうでもいい人にはなってくれない。この肥大し過ぎた感情を「必要のない感情」と名付けたものの、既に抑えること自体が不可能になってきている。
「お慕いしています、旦那様」
どうやら僕は想い人が別にいる貴方に、とんでもなく無謀な恋をしてしまったようです。
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