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昔のこと
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夏休みを控えた、初夏の放課後。空調のうるさい職員室で、詩木先生はテストの採点をしていた。
その隣で、俺は頬杖をつきながら不躾な視線を先生にぶつけている。先生の隣の席はいつも空いているため、こうして居座るにはちょうどよかった。
「先生さあ、いつも遅くまで学校にいるよね。何で?」
「俺は仕事を家に持ちこまない主義なの。俺にしてみれば、お前が遅くまでここに残ってることの方が疑問だよ」
すでに陽はオレンジ色に染まり、遠くで烏が好き勝手に鳴いている。初夏の夕暮れにふさわしく、熱気をまとった風がグランドの木々を揺らしている。
先生は採点をしている手を休めることなく、俺を適当にあしらっていた。それでも俺は反応を返してもらえたことが嬉しくて、さらに言葉を続けた。
「それは前に言ったじゃん。俺、先生と一緒にいたいから残ってるんだよ」
「そうだったか? 興味ないから忘れたよ」
「じゃあ興味もってよ。先生ゲイなんでしょ? じゃあ俺でもいいじゃん」
「俺彼氏いるもん。それに、俺はセックスの上手い男が好きだから、童貞には興味ないよ」
先生だって昔は童貞だった癖に。少しでも余裕があれば軽口も叩けたのだろうが、俺は図星であることが恥ずかしく、言葉を続けることはできなかった。
先生は俺の不貞腐れた様子を察し、小さく笑った。
「・・・とにかく。俺は経験豊富な男がいいわけ。お前は男でも女でもいいから、自分に合った相手を見つけろよ」
「恋愛する相手って、自分に合うか合わないかで決めるの?」
「そうだよ。何でも相性が大切だからな。特に、体と性癖の相性は大事だぞ」
採点を終えたのだろう、先生がペンを置いた。テスト用紙をまとめ、クリップで留める。
「俺、何点だった?」
「どうだったかな。明日返すんだから、そのときでいいだろ」
「やだ。今知っておけば、俺と先生だけの秘密になるじゃん。何かいい感じじゃん、そういうの」
「なーにがいい感じだ。くだらないこと言ってないで、さっさと帰るぞ」
「・・・はーい」
先生は手早く帰宅の準備を済ませると、俺を振り返らないまま職員室を後にした。俺も急いで後を追う。夏物のグレーのスーツに身を包んだ先生は、口を開かなければ清潔感のある上品な大人の男性に見えた。
生徒用と職員用の靴箱は離れているが、こうして共に帰宅するときは、先生は必ず俺を待っていてくれた。今日も違わず彼は昇降口で俺を待っていてくれて、まるで待ち合わせをしている恋人のような雰囲気に顔が熱くなる。
「何赤くなってんだ」
「別になってないよ。早く行こう」
「あーそうですか。じゃあほら、手でも繋ぐか?」
ぎょっとして先生を見ると、先生も俺を見ていた。そして、少しの間を置いて先生がくすくすと笑い出す。
からかわれたと自覚すると、もう弁解できないほどの熱が顔に集まっていた。
「お前も変なやつだな。俺のことを好きだの何だの言うくせに、妙なところで照れるし」
俺の複雑な心中など知る由もないのだろう。先生はあっさりと俺から視線を外すと、蝉の声を浴びながらゆっくりと歩き始めた。俺は無言で後ろをついていき、ほどなくして学校の正門を過ぎた。
「ねえ、先生」
「何だよ」
「俺と先生って、相性いい?」
「いつも突然だな、お前は・・・」
突然じゃないよ、さっき先生が恋人にするには相性が大事って言ってたからだよ。そう続けると、先生はそんなこと言ったっけと呟いた。本当にこの人の記憶力はどうかしている。
「で、俺と先生の相性は?」
「うーん、どうだろうな」
答えを急かすが、先生は答えてくれなかった。焦れた俺は先生の腕を掴もうとしたが、先生はするりと俺を躱した。夏の夕暮れを背にして、スーツを着たまま軽やかに俺から逃げていく。俺は、ひたすら彼を追いかける。
やがて、自動販売機のある三叉路に辿りついた。この場所で、俺と先生の帰路が分かれる。一緒にいられるのはここまでだった。
夏の空は、すでに紺色に変化していた。そこには夜空を背にして光る星が浮かんでいて、俺は先生を呼んでその星を指差した。
けれど先生はこちらを見ようともせず、自動販売機に硬貨を投入していた。まだ体力が回復しないのか、息を弾ませながらレモン水のボタンを押している。
「先生大丈夫? ちょっとジジイ過ぎない?」
「・・・三堂。お前はもう少し可愛いことが言えないのか」
大きな音を立てて落ちてきたペットボトルを拾い、豪快に中身を喉に流し込む。そんな先生の姿をじっと見つめていると、彼は不意にそれをこちらへ寄越してきた。残りはやるから飲めと、その目が言っている。
俺は遠慮なくペットボトルを受け取ると一気に飲み干した。当然だが、レモンの味がした。
「俺、先生が好きだよ」
「・・・そうかよ」
「本当に好きだよ。・・・だから、俺のものになってよ」
「・・・そのうちな」
先生は儚げに笑うと、珍しく俺の頭を撫でた。初めての挙動に体が固まる。先生はやっぱり俺の気持ちなど知る由もないのだろう、しばらく撫でてから手を離すと、じゃあなとさっぱりした挨拶だけを残してこの場を去った。
先生を見送ってから、俺は先生にされたように自分の頭に手を当ててみた。ゆっくりと同じように手を滑らせ、先生の真似をしてみるが、子供特有の柔らかい感触が嫌になってすぐに止めた。
先生の手は、大きな大人の手だった。俺とは違う、成熟した成人男性のものだった。手のひら一つとっても、俺と先生はこんなに違う。
小さなことかもしれないが、俺には、絶対的に埋まらない時間の差を示しているように思えた。
翌日の先生は少し疲れていた。理由を聞くと、昨晩の恋人との行為が長引いて寝不足なのだそうだ。愛されちゃって困るよと笑う先生を見て、俺は顔も知らない恋人に嫉妬した。
「ねえ。俺さ、先生の好きなところを十個は言えるよ」
「へえ? じゃあ言ってみな」
相変わらず空調は騒がしく、先生の隣の席は空いている。他の先生の姿も遠くにちらほら見えるだけで、俺たちの会話が聞こえている様子もない。
いつもと変わらない職員室で、俺は先生の横顔に話しかけ続けた。
「えーとね、先生が担任になって初めて挨拶するときに、自分はゲイだって宣言したところとか」
「そうだったっけ?」
「うん。あと、何かやらかした生徒には、罰としてゲイのエロ本を買いに行かせるって言ってたよ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「あと、生活指導の先生が好みのタイプで嫌われたくないから、あの人の前でだけは服装を正しておけって言ってた」
「・・・・・・・・・・・・・」
「それと・・・」
「・・・もういい。いつの間にか俺の悪口になってるじゃん」
「そんなことないよ。そういうオープンなところが好きってことだよ」
蝉の声が降り注ぐ、七月の下旬。俺は駅前で配っていたうちわでパタパタと自分を扇ぎながら、先生のパソコンを打つ手を眺めていた。
「・・・明日から夏休みだな。お前、ちゃんと宿題やってこいよ」
「ねえ、今そんな話してなかったじゃん。先生の好きなところの話だよ? 大事なことだからちゃんと聞いてよ」
「はいはい。聞いてますよ」
「先生は、俺のどこが好きなの?」
「待て。そんな話をしてた記憶はないぞ」
「あ、気付いた? 先生単純だから引っかかると思ったんだけどな」
先生は薄く笑うと、ゆっくりとまばたきをしながら俺を見た。その先生の表情が扇情的で、思わずその顔も好きだよと口にしてしまう。
先生はさすがに恥ずかしかったのか、拗ねた表情でパソコンに向き直った。
「ねえ、今日も一緒に帰れるよね?」
「うーん、今夜は他の先生との飲み会があるからな・・・」
「明日から夏休みだよ? 会えなくなるんだよ? ねえ、一緒に帰ろうよ」
「そう言われてもなあ・・・」
曖昧な態度で濁す先生にしびれを切らし、俺はマウスを操る先生の手に自分の手を重ねた。先生は驚いて俺を見た。
「お願い。一緒に帰ろう?」
「・・・お前、何だか今日は妙に色気づいてるな」
先生はしばらく思案していた。緊張しながら返答を待っていると、先生はくすりと笑って、俺の手をゆっくりと外した。
「・・・わかった。もう少しで終わるから、そこで大人しく待ってろ」
結局、先生は折れてくれた。パソコンに表示されたよくわからないシステムに真剣な顔で入力していて、俺はやっぱり先生との距離を感じた。けれど、それを埋めるために、俺は今日先生と帰るのだ。
いつも適当なことばかり口にして、本心を悟られることも悟らせることもしない人。自分の恋人遍歴も性癖も隠すことなく話すけれど、肝心なところは見せてくれない大人。
俺が好きになったのは、そんな切ない賢さをもった男の人。
先生は気づいてないかもしれないけれど、恋人の話をするときの先生はどこか不自然だった。これを説明できる語彙力を俺はまだ持っていないが、それでも俺は勝手に確信していた。先生はきっと、恋人のことが好きではないのだ。
相手の人が先生をどう思っているのかは知らないし、これから知ることもない。けれど、それはどうでもいいことだった。俺にとって大事なのは、先生の気持ちだけだった。
「・・・遅い。さっさと帰るぞ」
「・・・うん。ごめん」
いつものように昇降口で待っていてくれた先生を見て、胸が高鳴った。今日、俺は先生にちゃんと告白する。先生はきっと、俺を受け入れてくれる。先生は俺といるときが、一番楽しそうなのだから。
俺は先生に駆け寄ると、何も言わずに先生の手を握った。先生が一瞬驚いたように息を呑んだが、彼の顔を見ることは怖くてできなかった。
けれど、先生は俺の手を軽く握り返してくれた。俺は真っ赤になりながら、先生の手を引いて歩き出した。
俺たちは手を繋いだままグラウンドを過ぎ、正門から学校外へ出た。繋いだ手が汗ばんでいくのを感じたが、俺はその手を離さなかった。それは、一大決心を鈍らせないための俺の覚悟だった。
先生は無理やり連行されていることに文句を零していたが、すぐに笑ってくれた。繋いだ手を振りほどくこともしなかった。
今日の空はまだオレンジ色がかなり残っていて、先生を綺麗な橙色に染めている。先生を彩る背景の空にはところどころピンク色も混じっていて、美術の授業で見た西洋の絵画を思い出した。
「ねえ、先生」
「ん?」
先生は、吐息混じりに返事をした。手を繋いだまま歩いているため、必然的に距離が近くなる。
今までこんなに近づいて話したことがなかったので、この距離だと小さい声で十分会話ができるのだと初めて知った。密やかな声がやけに色っぽくて、緊張で手が震えた。
「・・・先生は、彼氏のことが好きなの?」
「・・・どうだろうな」
「じゃあ、俺のことは好き?」
「・・・何だよ、その質問は」
くすくすと先生が笑う。息継ぎのときの吐息さえも色っぽくて、俺の体にさらなる緊張が走る。俺は焦って、いつもの言葉を口にした。
「先生、俺、先生が好きだよ。大好きだよ」
「・・・もう何度も聞いたよ」
「先生、俺のものになってよ。俺、先生のこと大切にするよ」
「・・・そう言われてもなあ」
俺は必死になって食い下がった。けれど先生は涼しい顔で空を見上げ、今日はまだ夕焼けがよく見えるなと呑気に呟きながら夏の香りを楽しんでいた。
時間は俺に味方しなかった。同じようなやり取りを繰り返した後、二人の分かれ道である三叉路に到着した。いつもの自動販売機の前で、俺と先生は無言で立ち止まった。
先生は俺を見てから、繋いだ手に視線を落とした。そして、ゆっくりと俺の手を解いた。俺はその様子を、ただ黙って見ていた。
十数分ぶりに手を離して、そこで初めて先生の手も熱くなっていたんだと知った。俺は感情が高ぶって先生を見つめたが、先生は俺を見てはいなかった。俺は胸が苦しくなり、詩木先生、と呼んだ。
「・・・三堂。お前は、俺の大事な生徒だよ」
死刑宣告のような台詞が聞こえた。いつの間にか俯いてしまっていたらしく、慌てて顔を上げる。すると、先生は俺を見ていた。俺を見て、はっきりと言葉を続けた。
「お前のことを、俺は一番大切に思ってる。誰よりも大事な、俺の生徒だ」
「・・・先生」
先生の言葉は優しい指導者のそれのようで、俺を縛る鎖のように思えた。
好きという響きが甘く俺を惑わし、柔らかい真綿で包むように俺を束縛する。俺が動揺するギリギリのラインで、先生は優しく甘い言葉を紡ぐ。
俺が好きだと言うたびに先生が曖昧な返事で濁すのは、今に始まったことではなかった。先生は本心を語らない。口では綺麗ごとを言っていても、先生が本当はどう思っているのか、俺はそれを知るすべがない。
「先生。俺、本当に先生のことが好き。先生しかいらない。ねえ、先生を俺にちょうだいよ。お願いだから、俺のものになってよ」
「三堂。お前はいつも、俺の欲しい言葉をくれるな。・・・俺もお前が大好きだよ。一番大切な俺の生徒だ」
「違うよ、先生。俺はそんな話をしてるんじゃないよ。ちゃんと俺の話を聞いてよ」
先生は笑った。必死になって先生を引き留めようとしている俺とは違って、随分落ち着いているように見えた。
先生の気持ちは、俺の気持ちとは違うのか。どこかでわかっていたのに、理解したくなかった現実がすぐそこまで迫ってくる。暗い気持ちが、心に影を落としていく。
「・・・先生。それは、俺が生徒だから?」
俺は深呼吸をしてから、先生に訊ねた。先生は穏やかな顔をしたまま、そうだなと呟いた。
「・・・俺はさ、三堂。お前のことを生徒以上には見れないよ。その制服を着てる限りな」
「だったら、卒業したら付き合ってくれる?」
「そうじゃない。そうじゃないんだ。・・・なあ、気を悪くしないでくれ」
先生の否定に思わず眉をひそめてしまう。先生は手を伸ばして、俺の頬に触れた。そこに体中の熱が集まった。
「先生・・・」
「俺のわがままだよ。目の前にいるお前は、いつまで経っても俺の生徒だ。親しか知らない雛のような、幼い男だ」
「何、それ・・・」
「お前はまだ何も知らない。人と人のこと、男と男のことを、何も知らない。そのことが怖いんだ。無垢で純粋なお前を、俺は怖いと思ってしまう」
「・・・先生、難しいよ。ねえ、俺はどうすればいいの?」
「だから。俺から離れて、俺以外を知ってくれ。俺以外を見て、抱いて、それでも俺を選ぶなら・・・」
先生は最後の最後で言葉を濁した。それは、さんざん俺を縛りつけた先生の、少しの罪悪感だったのかもしれない。その続きを聞いてしまえば、俺は絶対に先生から逃れられない。
そもそも逃げる気はないし、そこまで聞けばもう何を言いたいか想像もついたのだが、先生にとっては最後の言葉を口にしてはいないという事実が必要なのだろうと思った。
長い間、沈黙だけがこの場を支配していた。俺は先生が欲しくて、でも先生は今の俺はいらなくて。でも、大人になった俺なら欲してくれるかもしれなくて。
悲しいのか、嬉しいのか。俺は自分の感情がわからなかった。それは先生も同じなのか、複雑な表情をして俺を見ていた。
「・・・わかったよ、先生」
「三堂・・・」
「俺、先生を諦めるよ。ここで、今、諦める」
「・・・うん」
「卒業して、働いて、一人前の男になるよ。それで、十年経ってまだ先生を好きなら、そのとき先生を口説きに行く」
頬に添えられたままの先生の手を離し、俺はまっすぐに先生を見た。先生は少し寂しそうな顔をしていたが、静かに笑って小さく頷いた。
今まで見た先生の表情で、一番綺麗だった。
「先生、約束して。十年後の夏に俺が会いにきたら、今度はちゃんと答えてね。誤魔化したりしないで、そのときの俺をちゃんと見てね」
「・・・約束するよ。二十五歳になったお前が、三十五歳になった俺をみて幻滅しなければな」
辺りはもう暗くなってきていた。紺色に差し掛かった空の下で、先生が深く息を吐いた。
「お前が今の俺の歳になったときか・・・。どんなだろうな。想像つかないよ」
「先生好みのガタイのいい男になって、先生よりも経験豊富になってるかもね。まあ、期待しててよ」
「・・・そうだな。お前まだ童貞だもんな」
「っ、うるさいなあ!」
こうして、玉砕覚悟で先生にぶつけた告白は、十年後にやり直しとなった。俺はこの日以来、職員室に入り浸ることもやめた。これは大人になるために必要な我慢なのだと自分に言い聞かせた。
その後、夏休みを満喫してから流れるように学校生活を終え、俺は卒業式でも先生と二人きりにはならないようにした。生徒である限り、俺は自分の気持ちを封じ込めていた。
そして、俺が卒業すると先生も学校を辞めた。卒業アルバムには教師の住所も載っていたが、俺は先生を訪ねなかった。俺から十年後と区切りをつけたのだから、それまで先生と会うわけにはいかないと思った。
大丈夫。もし先生がどこかに遠くに行ってしまったとしても、彼を探して、追いかければいいだけのことだ。俺は自分を奮い立たせ、寂しさに蓋をした。
先生からもらったレモン水を飲み干した帰り道。マウスを握る先生の手に触れたときの緊張感。手を繋いで一緒に帰った日の言葉。どれをとっても、俺と先生の思い出は輝いていた。
そして、俺は十年間ずっと先生を想い続けた。記憶の中の先生はまだ俺の告白をはぐらかしてばかりいたが、それでも俺を受け入れてくれる予感がしていた。
社会を知り、大人を知り、建前を知った俺が辿りついた結論は、十年前と同じだった。先生に会いに行こう。俺は決心して、古くなった卒業アルバムを開いた。
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