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38.虚無
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……
………長い長い夜が明けた。
ー
朝、ベッドから体を起こした僕はフラフラとした足取りでリビングへと向かった。酷く喉が乾いていた。
「…は、はっ…」
冷蔵庫にあった水を飲み、僕は息を乱しながら口端にたらりと垂れる水を手の甲で拭った。
男の姿はなかった。今日は平日なのだ。男にスマホを奪われたため、僕はまた日付も時間も分からなくなった。ここから逃げる希望も…。
ジャラ…と嫌でも聞こえる音に僕はふと真顔で自分の首にある首輪に手で触れ、足元にある太い硬い首輪に繋がる鎖を見つめた。
「……重い」
僕はただそれだけを無表情に呟いた。
もう、いっそのこと四つん這いで生活した方が楽かもしれない。そうだよ、僕は犬なんだから。ペットなんだから、ここの飼い犬なんだから。
「は……ははははは」
目に浮かぶそれに気付かないふりをして、声を出して笑った。何も面白いことなど何一つないのに。いや、違う。…寧ろこんなに面白いことはない、そうだろう?ああ、将来を想像したらわくわくして堪らないよ、きっと数年後には僕の意思なんてものは僕の中からなくなってるんだ。あの男に支配され続け、僕はそのうち何でもかんでもあの人の言いなりさ。ああ、こんなに愉快なことは無い。こんなに楽しみなことは無いよ!あっはっはっはっはっ。
…ああ、しっかりしなくちゃ。気がおかしくなっているのかな。もう、僕が今までどういう性格だったかも分からない。僕が僕であることをあの男に抑えつけられ僕の目の先に映るものは全て虚無でしかない。
ああ、うける。こんなに楽しいことはない、そのうち僕はあの男の嫁か…。想像しただけで笑いが込み上げる。アホすぎる。絶望的すぎる。
「あっはっはっはっ…」
楽しい楽しい結婚生活の始まりさぁ、もちろんあの男に歯向かうことは一切許されないのさ、ああ、ぞくぞくするね。そんな惨めな自分の将来を想像して笑いが出てくるね。いや、既に今の僕が惨めなことこの上ないか。僕はどうやら落ちる所まで落ちたらしい。
……はあ、あと何年耐えればいいのかな、この生活に。いっそ今のうちにここで死んでやろうか。クソみたいな人生を歩むくらいなら、命を絶った方がいい。あの男の勝ち誇った笑みが今でも思い出すだけで殺意が湧く。期待なんかもう何も無くなったさ。もう僕はあんたに何も望みはしないのさ。…今日ここで僕は命を絶つんだ。
ジャラジャラと鎖の音を立て、歩きながらキッチンに入る前、リビングの机の上にある置き手紙に目を移した。
〝昨夜は悪かった。止められなかった、どうしても。あんなことを言うお前を許せなかったんだ。…本当にすまないと思ってる。帰って2人で少し話をしよう。待っていてくれ〟
グシャッと僕はその紙を手で丸めて潰した。…何だよ今更。あの男お得意の飴と鞭ってやつか。もう騙されない、何度僕がこの手に騙されてきたか。もういい加減僕は目が覚めたんだ。始めからこうすべきだったんだ。始めから、命を絶てば終わる事だったんだ…!死んでやる、死んでやる、そしてあの男を一生後悔させてやる……!!苦しめてやる!!
キッチンにある包丁を手に自分の胸元に向かって刃を当てようとした時、ふいにインターホンの音が鳴った。……誰だ、こんな時間に。宅配か何かか。
1度包丁を置き、インターホンのモニター画面を見に行く。すると、
「…………え?…」
そこにいたのは、永祐くんだった。……何で、どうして彼がここに…?
「…リンさん、いますか」
「……っ」
何で、彼がこんなところにいるんだっ…!?
「なんで…、…早く帰って!」
「え…?」
だめだ、あの人に見つかったら、彼が何をされるか。
「いいから帰るんだ!何でここが分かったのかは分からないけど…君は僕たちに関わったらいけない、帰るんだ!」
しかし、画面の先で彼は顔を俯かせただけで、立ち去る様子はなかった。
「…やっぱり何かあるんですね」
…!まずい、彼に勘づかれている…。
「あの日、会った時からおかしいと思ってたんです。リンさん、本当のことを言ってください」
「……や、やめて永祐くん…僕は」
「迷惑ですか?」
画面越しに彼の真剣な眼差しに見つめられ僕は瞳を泳がせる。
「…そうじゃないよ、でも」
「俺、自分でもおかしいって思ってます。でも、諦めきれないんですリンさんのこと」
「…え」
「俺は、あなたを救いたいんです」
……永祐くん、…まさか君がそんなことを言うなんて僕は思ってもみなかった。僕は、希望をまた持ってもいいの?こんな僕なんかが…。
でも、彼を巻き込むことになる。彼を危険な目に…、それだけは…。
「リンさん、俺また来週の月曜ここに来ますね」
「…えっ?」
「今日は突然だったから、準備とか色々出来てないと思うし」
準備……?
「…永祐くん、どういう…」
「ここから出ましょう。」
「…!」
何だって…。
「リンさん、付き合ってないですよねあの男と」
「………っ…どうして分かったの」
「誰でも見たら分かります。2人、明らかに不自然だった。それにリンさん、手首に赤い跡があったし」
「…」
「俺、真剣です。でも、どうとってもらっても構わないです。俺もあの男と同様危険な男かもしれないし」
「…え、永祐くん、…まって、僕は」
「考えておいてください、来週までに。じゃあ、俺今日は帰りますね。また来ます」
「…あっ、永祐くん…!」
彼はそれだけ言うと立ち去っていくのが画面越しに見えた。
どうしよう、どうすればいい?
彼が僕を迎えに来る、僕を助けに…。
〝お前は俺のものだ〟
「………っ!!」
僕はリビングの床に蹲って頭を両手で抱えながら呻いた。彼を巻き込みたくない。でも、僕はここから出られるかもしれない望みに心が震えている。…見たい、普通の人たちが見ている景色を。日常を。温度を、声を。ほんの少しだけでいいから…。
僕は床に蹲りながら声も出さずに泣いた。
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