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85.雪の降る夜
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…
あれから数日が経ったある日。僕はその時、とあるライブハウスまで訪れていた。
「月草さん!」
僕は、つい先ほどまでステージ上にいて演奏していた彼がこちらに駆けて来る様子を見て、口もとを仄かに緩ませる。
「那月君」
「どうだった?俺らのバンドの演奏」
息を切らして額に浮かぶ汗を拭いながら話してくる那月君に向かって僕は笑って言う。
「もちろん、すごく素敵だったよっ」
「ほんとに?」
「うん!なんて言うのかな、こう、…前向きになれた。感動しちゃった…」
瞳を伏せ話す僕に向かって、息を整えた那月君がに、と得意げに笑ってみせる。
「だろ?」
僕と那月君はその後、2人でしばし声を出して笑いあった。
那月君は笑う僕を見ながらふと、眉を下げて薄ら笑みを浮かべながら僕に言った。
「…店長のことなら、気にしないでよね。」
「え?」
那月君の言葉に、僕は心臓がどくりと音が立つのが分かる。那月君は、僕を見て優しい瞳をしながら話を続けた。
「幸い、頭を少し針で縫う程度で済んだんだ。脳に障害もないし、どこか骨が折れたわけでもない。店長、案外体頑丈だったみたい」
「そう…」
笑いながら話しかけてくる那月君を見て、僕は曖昧に返事をする。
「ごめんね。僕もお見舞いに行ければと思うんだけど…」
「いいっていいって。その気持ちだけできっと十分なはずだよ、あの人も」
そう、だろうか。
「月草さんたちの事情聞かずとも俺らだって何も分からないわけじゃないんだからさ、訳があって店長の元に行けないことも、俺も店長も理解してるさ。だからそんなに気に病まないで、月草さん」
「…那月君」
「ああ、あとあの人のことは俺がちゃんと見張っておくよ。もう今後、月草さんに変な真似させるようなことは二度とさせない」
キリッとしたかっこいい顔つきをしてこちらを見てくる那月君。僕は彼を見て困ったように眉を下げて笑んだ。本当に参った、彼が頼もしくて。彼が、僕よりずっと強くて。
「そういえば、LIN〇で言ってたよね。…引っ越すんだって?」
ライブハウスから出ると、那月君が上着を羽織りながら立ち止まって横に立つ僕を見て言った。外はすっかり暗く、口から白い息が出る。
「…うん、そうなんだ。言ってもそんなに遠くに行くわけじゃないんだ。透さんの仕事先のこともあるし」
「そっか…。だけど、てことはやっぱ花屋は辞めちゃうのか。まああんなことがあって続けられるわけないか」
どこか寂しげに話しながら口から息を吐き出し、僕を見る那月君。
「引っ越しはあの男の要望?」
「うん、言い出したのは透さん。…でも、僕もそうしたいと思った」
「え?」
「もう一度、いちから始めたいんだ。…もう一度」
…そう。僕はあの人の犬じゃない。僕はあの人の言いなりの人形じゃない。僕には、僕のすべきことがある。…それが今ようやく、ここにきて分かった気がする。見えた気がする。
「…そうか。」
那月君がふと、僕の頭に手で触れようとして、止まり、そのまま手を下におろしていった。
「あ…雪」
そうしてふと、那月君が手のひらを出しながら上を見上げるのに気づく。僕も同じように真っ暗な空を見上げ、空から降る雪を見つめた。
「安心してよね」
「え?」
那月君が空を見上げながらそう口を開く。
「別に、こんなことがあったからって警察沙汰にしようとも思ってないしあの男に何かしらし返す、なんてことは店長はしないからさ。」
「……うん」
「俺も店長も薄々気づいてるんだ。あの男の傍にいることは避けた方がいいと俺も月草さんの身を案じてそう思うけど、…だけど月草さんは違うね。」
「…」
「月草さんは…あの男を無意識に必要としてしまっているんだね。」
那月君がそう言った時、傍でコツ、という足音がした。それにどきっとして振り向くと、そこには僕を見て立つコートを羽織った透さんの姿があった。
「遅いぞ、凛人」
スっとした切れ長の目を向けてくる透さんの傍に僕は駆け寄る。
「ごめん、ちょっと話してたの」
そう言って那月君に目を向けると、透さんがちら、と那月君を見た。
「もうライブとやらは終わったんだろう。なら早く帰ろう」
透さんが僕の首に巻いてあったマフラーを巻き直し整えながら落ち着いた声と表情で話す。
「…うん」
僕は透さんの手に肩を抱かれながら彼の前から静かに去っていく。すると、
「待って」
呼び止める那月君の声に、透さんが足を止めた。
「…なんだ?」
低い声を出し後ろに振り向く透さんと、その向こう側で透さんを見て強ばった顔をする那月君に、僕は少しだけ心臓の音を速める。
「…あんまり、酷いことは…しないであげて」
切なげな目で透さんを見て言う那月君に、僕はどきんとする。
「……」
「…そうして、ください。お願いします」
続けざまそう話し、透さんに向かって頭を下げる那月君に僕は目を大きくし、思わず口を開こうとしてから、ゆっくりとその口を閉じる。
…那月君…。
「……はっ」
透さんは、彼を見て吐き出すようにしてそう軽く笑うだけだった。僕は前に向き直った透さんに再び肩を抱かれて雪の降る冬の夜道を並んで歩いた。
僕はもう彼と会える時が来ないことを悟りながら、彼の方は振り向かず、涙を堪えながら前を向いて歩いた。
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