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自らのくしゃみか、それとも洗面所から怒鳴る達夫の「お大事に」か、覚醒を促したのは一体どちらだろう。ふうっと浮上した意識へ流れ込む、冷たく乾燥した空気を追い出すよう、譲治は大きく息をついた。
「起きるよ」
「まだ早いだろ」
ぱたぱた間抜けな足音が、こちらへ近づいてくる。そうでなくても、達夫の足運びは普段からがさつなものだった。
「お前、そんなに歯ぎしり凄かったけな。キリキリキリキリ、うるさくて寝られやしねえよ」
「君の鼾よりはましさ」
柔らかすぎて据え心地の悪い枕から少し顔をずらし、腫れた眼で床を見下ろす。計っていたかの如く、ホテルの名前が金色で印字される、臙脂色のスリッパがすっと視界へ差し込まれた。履き口の延長上に、骨ばって案外華奢な感じのする、素足の甲の白さを見て、現実と向き合う。
確かに、こんなことは全くまともではない。37歳のまともな男は、二日前に再会したばかりの同級生と寝たりしない。せっかく熱海へ来たのだから、夜はセックスなんかせず、温泉へでも入るべきなのに。
昨晩も夕食前に一度、共同浴場へ行ったきり。この呑気な男は邂逅以来、服を着替える時を除いて自らの宿へ戻ろうとしなかった。当たり前の如く譲治の部屋へついてきて、誘惑を仕掛ける。譲治が思わず涎を垂らす、嵐のようなセックスの匂い。感情がこの上なく豊かに表現される、あの焙じ茶色の瞳がいけないのだ。不躾に見とれるのが隠されなくなると、自らがとてつもなく良い物になったように思い、浮ついてしまう。
素直に求められると、大盤振る舞いしてしまいたくなるのが、譲治の悪い癖だった。
幸い、達夫は噛みついたり鬱血を残したりの狼藉には及ばなかったので、公衆浴場へ足を運んでも許されるだろう。身体にぐっしょり染み込んだ情事の名残を湯で流し、さっぱりしたい。その為には、重たく熱っぽい四肢をベッドから出さなければ。
身体の節々を持て余す譲治と違い、達夫はけろりとしたもの。目地の荒いホテルのタオルで顎を擦る手つきと言えば等閑で、頬に残ったシェービングフォームは拭いきれていない。
「起きるならな。ちょっと頼まれて欲しいんだけど。11時に熱海駅まで息子を迎えに行ってくれねえかな」
寝返りを打ち見上げた顔は、冗談の気配も窺えない。
「君、子供なんかいたんだ」
当人が、いつまで経ってもガキのようなのだ。女性の腹を膨らませ、自らの遺伝子を受け継ぐ存在を生み出したなんて、俄には信じ難い。
「いくつ?」
「17」
その答えが益々困惑を膨らませる。皆まで言うなとばかりに、昨日散々譲治の肌を擽った、柔らかい唇が皮肉げに歪んだ。
「年に数回会う程度の仲だけどな。母親が単車で転んで入院しちまって。高校生だったら、一人暮らしくらい出来そうなもんだけど」
「僕達が17の頃、思い出して見なよ。部活に打ち込んで、テレビドラマ観て、数学の坂本に紙屑投げたり……20年前の話か、信じられない」
「何にせよ、明日には金沢にある母親の実家にやるから、一日だけ、な」
おもねるような物言いがおかしくて、思わず譲治はマットレスの上で頬杖をついた。
「どうして僕に遠慮するんだ。好きにすれば良いじゃないか」
「だってよお」
これ見よがしに片眉をつり上げてやれば、てっきり拗ねるものかと思っていた。けれど頬を掻く仕草はやはり決まり悪げで、とてつもなく子供っぽい。
「お前だって、週末には帰るんだろ。あいつは俺の宿にやるから。臍曲げるなよ」
「曲げてない」
心底驚いて声音を高めれば、短い沈黙の後、「ほんとに?」などと抜かす。シーツから剥き出しになった譲治の肩を撫でる手は、柄にもない躊躇で、不器用な動きを作った。
悪党だと思っていたこの男が、案外情け深いのだと譲治が知ったのは、その時が初めてのことだった。
正直、そんなことを知りたいとは思わなかった。この関係に、意義どころか、安らぎすらも見いだすつもりはない。そうやって、すんでのところで踏みとどまる理性くらいは、誇りに思っても許されるはずだ。
大体、関係を深めれば深めるほど、面倒も起こりやすくなる。がむしゃらの時代はもう通過した。例え苦いと分かっていても、セックスの先にある感情へ耽溺したいと思う程、もう若くもない。
それにしても、17歳とは。どすんとベッドの端へ腰を下ろした達夫を横目に、譲治は思考を巡らした。自らが普段、職場で監督している生徒達と変わらぬ年齢だ。本来、己にそれ位の子供が居てもおかしくない事は、今まで考えないようにしてきた命題だった。
その点、達夫は年齢というものへ対して、随分と気楽な態度で向き合っているように思える。
靴の中に押し入れていた靴下をつまみ上げ、爪先を突っ込もうと丸められる背中は、確かに大学生の頃と殆ど変わっていないように見えるけれど。浮き出た背骨の陰影をぼんやり眺めながら、譲治は内心一人ごちた。責任を持たない生活というのも、全く考え物だ。身も心も若々しいままでいられるが、どうにも安っぽくていけない。まるで彼が履いている、スーツと比べれば遙かに格落ちものだと一目瞭然な、ブラウン・バックスのように。
顔も見たことのない子供に覚えた同情は、素肌を這い回る寒気へと変わる。再び破裂した、はばかることないくしゃみへ、達夫は言うに事欠き「おっさんみたいだな」などと宣う。
「僕と君は同い年だよ、知らなかったみたいだけど」
寝汗にしては明らかに湿り気の多いシーツを身体へ巻き付け、譲治は言い返す。努めて明るく口にしたつもりだったが、肩越しに振り返った達夫の顔は、力任せに丸めた紙のようにくしゃくしゃだった。
「やっぱり臍曲げてるんじゃねえか」
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