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十、
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その日の晩遅く、ふすまの模様を撫でる音がした。
声を押し殺して、泣いて泣いて
ようやく涙が枯れ果てたものの一向に眠気は来ず
しかし、寅松の顔を見ればまた全てが崩壊しそうで、怖くて。
寅松の合図に応えてやる事が出来なかった。
俺が眠っていると勘違いした寅松の足音は
生気を無くし、静かに遠ざかってゆく。
……これでいい。
寅松が幸せになるには、これがいいのだ。
俺など忘れ、身体だけでなく寅松自身も愛してくれる素敵な殿方の元へ嫁ぐのが一番良いのだ。
あぁ、寅松。
ずっとずっと愛していた。
大好きだ。この先もきっと、寅松以上など現れないだろう。
それくらい、好きで…好きで仕方ない。
寅松。
…今まですまなかった。
ありがとう。
朝になれば、いつも通り大勢の男に抱かれる為の支度。
脱がせやすいよう、肌着も襦袢も身につけず
見た目だけは上質な、艶やかな衣装を纏って。
髪を結って、白粉をたたいて、紅を引いて。
今日はいい出来栄えだ。
これではもう涙など流せない。
「桃。仕事だよ!」
「はい、ただいま。」
俺は一人で生きていく。
すぐ傍で、なにか物言いたげな“柘榴”が目に入ったが
今は仕事中であり、同輩に構う暇はない。
俺は今、仙之助ではなく、桃なのだから。
──最後の仕事を終え、ふうと息をつく。
今日は手荒な客が多かった。
喰らい付かれ、絞められ、揺さぶられ
ズキズキと身体の節々が痛むが、今はその方が都合が良い。
下手に優しくされてはこの心が持つ保証が無い。
が、顔を洗っていると
背後に何者かの気配を感じて
邪魔だったかと慌てて振り返った事を
後悔した。
「セン、話があるんだ。
今夜部屋へ行っても良いか?」
「……疲れてるんだ。」
「だがどうしても言いたい事が──」
「…疲れていると言ったのが聞こえなかったか。」
すまない。
すまない、寅松。
「……今日は一切、俺を見なかったな。
俺一人休んでいたのがそんなに気に食わなかったか。」
違うんだ。
怒ってなんかいない。
ようやく姿を見る事ができて
俺を瞳に映してくれて
センと呼んでくれて
すごく、すごく
「あぁそうだな。人の迷惑も考えて欲しいものだ。」
嬉しいんだよ…。
水とは違う、温かいものが
一筋肌を伝った。
だが、俺の他にそれの正体を知る者はいない。
顔を洗っていたのだから濡れていて当然。
寅松の横を抜け、手拭いを目元に押し付けながら
長い廊下を歩く。
寅松は、俺を追ってこなかった。
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