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俺は宇佐美に歩の現状を伝えることにした。
半分は自分のため。歩の身を守る体を装って宇佐美からの好感度を上げるためだ。その辺ぬかりはない。
もう半分はーー果たして誰のためなのか。
「そっか、そんなことになってたんだ。どうりで昼休み元気なかったのか」
「歩はああいう悪意に対しては表立って反抗出来ないタイプだと思うし、嫌がらせは酷くなるはずだよ」
「なんでそんな詳しいの」
経験者ですから。
「ま、いいや。今後も何かあったら俺には教えてくれ。大事な新入部員だからさ」
「……」
「え、なに」
本当に部員のよしみだけなのか。本当に? 実は二人はすでに……。
「綿貫には感謝してんだからな」
「……そうなの?」
「お前がいてくれて良かったよ」
途端に胸が騒いだ。掻きむしりたい衝動に駆られる。
“お前がいてくれてほんと良かった!”
その言葉を使うとは、罪深いにも程がある。
一年前。その日も雨だった。
教室で適当にさよならを言ったあとは誰とも会話することなく昇降口へ向かい、何事もなく傘を差した。
「そこの人! ちょい待ち!」
校門を過ぎるあたりで後ろから呼び止められた。振り返る間もなく、傘の中に一人の男子が逃げ込んできた。
「傘持ってなくてさ。ちょっとそこまでご一緒してもええっすか?」
「ええっすよ。はぁ」
「うわっ露骨なため息。あの、代わりと言っちゃなんだけど俺が傘持ってあげるよ」
俺より背が高い彼に委ねると、傘の位置が一気に高くなった。
「雨降るとか聞いてねえよ。予報出てた?」
「なかったよ。たまたま置き傘のストックがあったから」
「そっか。じゃあ俺はまだツイてるほうか。お前がいてくれてほんと良かった!」
彼は傘の範囲から外れた。
「え、傘もういいの?」
「ああ。もうすぐそこだから」
本当に「ちょっとそこまで」だった。
「それに俺、特殊な訓練受けてるからちょっとやそっとじゃ風邪引かないんだ。じゃ」
あ。
去りゆく後ろ姿に伸ばした俺の左手は、一体何を言いたかったのだろう。
その答えは一ヶ月後に判明した。
「あ」
雨降りの外界を眺めながら俺は一人昇降口で立ち尽くしていた。置き傘が無いことに気づいたのだ。
だがそれは別にピンチでもなんでもない。もしもの時に備え、鞄には折りたたみ傘を常時携帯している。
「もしもし。さてはお困りですかな」
誰? 鞄をまさぐる手が止まる。
振り返って納得。前に傘に入れてあげた男子だった。
「傘忘れたんなら入ってく? お礼も兼ねて」
「……」
俺は鞄の中で折りたたみ傘を手放し、無言でチャックを閉めた。
「うん、忘れた」
この日彼の名前を聞いた。宇佐美という。宇佐美は俺を駅まで送っていってくれるそうだ。
「その辺でいいよ。あとは走ってくから」
「気にすんなって! 俺がやりたくてやってるだけなの」
「献身通り越してドMなんだね」
「な、なんだとぉー!」
宇佐美によって傘の外に追いやられる。間髪入れずにまた傘の中に引き込まれた。
「綿貫、濡れちゃう濡れちゃう」
「いいよちょっとくらい。それに宇佐美だってそっちの肩濡れてる」
「ほんまや。結局さ、相合傘ってどこかしら濡れるよな」
「傘って本来は一人用だからね。あ、もういいよ」
俺は駅のアーケードに無事到着した。
「こっからは屋根があるから平気」
「そっか。じゃあなー」
宇佐美は点滅し始めた信号を見ると、横断歩道を渡っていった。
俺は肩を手でさすった。まだ彼の肩の感触が残っている。
湿気った風。水飛沫。雨音。陽の光が届かないこの街角で、隣りに宇佐美がいる。俺は濡れてもいいし、彼を濡らしたくなかった。それと同等の想いが相手からも伝わってくると俺は、もうどうしたらいいのか分からなくなる。
傘の柄を中心に二人は離れることができない。それは雨の日限定で発生する“鎖”だった。
だが俺は、多少行動が制限されようともーー。
相合傘の初回は、やはり初めてのことだからだろうか、お礼の言い方もリアクションの取り方も分からなかった。なんなら鼓動が昂っているのに気づいたのも家の門をくぐったときだった。二回目も、突然の出来事だったから心の準備ができていなかった。
今なら宇佐美と密着することがいかに貴重なことか分かったうえで相合傘に臨める。この無自覚な相合傘を早く更新したい。傘を共有する回数が増えれば増えるほど、想いは増すはず。やがては特等席を自分だけの指定席にできたならそれは、幸せと呼べるのではないか。
雨に濡れる覚悟はできていた。そうでなければ、相合傘は望めそうもない。二つに一つ。成功したら濡れずに帰ることができ、失敗したら傘は持っていても差さずに帰る。雨が降ったときだけの真剣勝負。
“ てるてる坊主作ったんだ”
それに水を差したのが歩だった。
歩と接するたび予感めいたものを感じては平穏を脅かされた。手段は問わず、俺の世界観を崩壊へ導くような、得体の知れない不安。大船に乗ったつもりが、実は精巧に作られた泥舟だと気づくような、そして隅から少しずつ浸水しているのに気づくような、足元から迫り来る焦燥感。こいつは何かしでかす。
悪い予感というものはえてして当たるものだ。
歩が来てからは別の覚悟が必要になった。雨に濡れる運命が訪れたとしても、壊れてしまわないような強さを、ゆくゆくは身につけなければと思わずにはいられなかった。
その歩はといえば、廊下の隅で女子に吊し上げられているところであった。よく見ると陸部の男子も混ざっている。見ているだけで気が滅入る。歩含め、好きな人間が一人もいない。
あれだけ威勢の良かった歩はここ数日で一気にしおらしくなった。今だってそうだ、壁際に追い詰められて何も言えず縮こまっている。俺としてはそれくらい大人しいほうが丁度いいが。
ガムテープを持った陸部の男子が迫り、体を数箇所撫でられた歩は身じろぎしている。その触り方があまりにも気色悪く、俺はそろそろ止めに入ることにした。俺の経験上このあと歩はすぐ近くのトイレに連れ込まれ、男子たちにいろんなことをされるはずだから、それだけは阻止しなければならない。
「何してんのお前ら」
宇佐美の声に俺の体はびくりと震えた。歩は安堵のためかその場に崩れ落ちている。いちいち大袈裟だな。
渦中の人物と思われる宇佐美乱丸がおいでになった。何より驚いたのが陸部男子たちの挙動で、宇佐美が声を掛けてから姿を現すまでの数秒間で、女子トイレに避難してしまった。訓練された動きである。こうやって陸部は無関係であることを貫き通すのだろう。
残った女子たちは口々に言い訳をしている。新しく来た歩とちょっとお話したくてーーと主張が一貫していることから、これもあらかじめ用意しておいた言い訳なのだろう。それにしてはちゃちいが。
「なんでこんな人気のない所で? 人払いしてるようにしか見えないんだけど」
宇佐美がもっともらしいことをつっこむ。傍観している俺は複雑な心境だった。宇佐美に真相を暴いてほしいような、でも歩は救わないでほしいような。
「それには訳があるの。歩くんに忠告したいことがあって」
一人の女子が声を潜める。今度は何を話しているのやら。
「……え? 綿貫が?」
宇佐美が、それまでとは打って変わって純粋な疑問符を出した。それに関しては俺のほうが疑問だし、驚いている。なぜここで俺の名前が出てくるんだ。
そこからの彼らのやりとりは、なぜかはっきり耳に届いた。
「そう。歩くんと同じクラスらしいじゃん? だから人前じゃ話せなくて」
「いや……ありえないんだけど。綿貫が歩に嫌がらせしてるって? 何を根拠に」
「これ見て」
女子が取り出した携帯に宇佐美と歩が釘付けになる。
「歩くんたちの教室からおっきな物音がして、何だろうと思って覗いてみたの。そしたら……」
「……綿貫」
「ね、机凄いことになってるでしょ」
「これは……綿貫は一体何して」
「なんかてるてる坊主をダメにしてるみたい。歩くんが作ったやつでしょこれ」
「そう、だけど」
血の気が引いて、体が震えてくる。じめじめして暑苦しい気温の中、俺は震えていた。
全て見られていた。それを最悪なかたちで利用されている。
「で、極め付けは雑巾投げつけてて……映像はここで終わってるけど、このあと下駄箱にも寄って画鋲仕込んでた」
それは嘘だ。映像として残ってはいるだろうが、それを見せたら俺が画鋲を入れずに帰ったことが明るみに出てしまう。
あいつらがなぜ歩に強引な手段で迫ったか、今になって分かった。証拠映像という切り札があったからだ。
宇佐美は呆けている。歩もだ。
「綿貫から報復があったら怖いけど、私そういうの許せなくて」
「酷いよね、ホモだなんて」
「歩くんはともかく、宇佐美も気をつけたほうがいいと思う。これ見たでしょ、何されるか分かったもんじゃないよ」
「綿貫って何考えてるか分かんないとこあるよね」
どこまで最低なんだ。
「あ、そういえばあいつって、先生相手に体の関係持ってるって噂あるの知ってる?」
「いや、知らない」
「前に映像が出回ったことあるの。そのときは冗談だと思ってたけど……あ、ほらこれ。トイレの中で」
待て。それだけはやめろ。おい。
俺は恐る恐る彼らを覗き込んだ。
歩と目が合った。
「いらない。見ない」
宇佐美が断るが早いか、俺はその場から走り去っていた。
終わった。バレてしまった。俺の恋心はおろか歩に対して醜い嫉妬心を抱いていることまで大っぴらになった。きっと宇佐美に嫌われたな。もう終わりだ、何もかも。もう無理。廊下を途方もなく走って、走って
「あっ!」
靴の裏が嫌な音を立てて滑り、俺は前のめりに転んでしまった。なぜか廊下に水溜まりが出来ている。瞬時に理解できたのはそれだけで、なぜ床が濡れているのかまで頭が働かない。
見覚えのあるバケツが目に入った。ここは最近になって雨漏りしていたところで、確か俺がバケツを置いたのだ。
バケツの中の水は誰にも捨てられることはなく溢れ、廊下を水浸しにしていた。そして天井からはなおも水が滴り落ちている。
勘違いしていた。泥舟の浸水は、もう俺が対処できる段階をとうに過ぎていたのだ。水を出しても出しても溢れ、しまいには底が瓦解し始めている。
もう溺れるのを待つだけ。
防水加工はまだ間に合っていないのに。
今はただ頬を何度も拭って凌ぐしかなかった。
翌日から、歩も宇佐美もよそよそしいながらもいつも通り接してきた。俺もそうした。
しかし、宇佐美が俺に会いにくることは、それから二度となくなった。
弁解をすればいいのだろうか。無駄だろうな。嫌がらせをしたのはあくまで事実なのだから。真相を伝えられたなら罪は軽くなるだろうが、罪は罪。こればかりは変えようがない。
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