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ラムネ雪20
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雪が妙なところで言葉を止めたので、ナツキは尋ねる。
「どうかした?」
異性からしたら、とても贅沢なことをしているような気がする。
ナツキにロマンチックに口説かれたら、間違いなく誰だってコロッと掌中に収められる。それくらいの特別な価値がある。
もしも、ナツキが好意を寄せる相手が異性だったら…
きっと、彼と均質のとれた美しい女性が隣を歩いていたことだろう。
だが、好意を寄せる対象は人それぞれなので、一般的な考えをナツキに押し付けるようなことはしたくない。
雪自身もナツキのことを思うと、彼が今まで抱いていた虚しさに同情してしまいそうになる。
「ううん」
「?」
雪はナツキが、彼と釣り合う美しい女性と並んで歩いている様子を妄想してやめた。
何に遠慮する必要があるのか。
なぜ、思いを止めなければならないのか。
常識を押し付けて勝手に身を引いてなんになるのか。
不明瞭な未来への不安を抱いて何にもならない。
けれど、不確かな心情に迎合するつもりはない。
焦らなくて良いとナツキは言っていたから、雪も焦らずに自分の気持ちに正直になろうと思う。
「ゆきちゃん」
歩幅を合わせて歩いていたナツキは長い足を止めた。
雪が周りを見ると、そこは駅のロータリーであった。
駅から人が行き交い、バスに乗り込んだり、タクシー乗り場に並んだりしている。帰宅する人々が多く、別れを惜しむようなカップルの姿はまだない。
コンサートに訪れていた観客や出演者たちの姿はなかった。
ナツキは、行き交う人の邪魔にならないように、人があまり通らないような場所で足を止めた。そこは街灯の光が届かない、少し暗い場所だった。
駅の周辺は、高架下を利用した商業施設が連なっており、銀行やチェーン展開している喫茶店などが多く並んでいて、人通りも多かった。
そのせいか銀行の前で、ギターを片手に歌を歌っているミュージシャンがいた。多くの人が、イヤフォンをして前を素通りし、足早に帰路を目指していた。
駅に到着し、ナツキが足を止めた意味を雪は理解した様子だった。
ナツキが雪をじっと見つめる。
「また連絡するね」
「分かった」
雪は頷いた。
「…」
「…どうかした?」
別れる雰囲気を出していたナツキが突如閉口する。
雪が顔を上げる。
「まだ、さよならしたくない」
「…」
ナツキが子供のように駄々をこねる。
「でも、今日帰らないと…」
雪は今日の電車で帰らなければならない。
住んでいる場所が自然み溢れた田舎なだけに、電車が終わってしまうのも早い。それに明日の早朝からは、勤めをしなければならない。
今すぐにというわけではないが、都会の終電ほど余裕があるわけではない。
「分かってる」
ナツキは頷いていたが悲しそうだった。
「もう少しだけ」
ナツキはそう言って、雪の両手を握った。
抱き合うことも、別れを惜しむための口付けをすることも憚られる。
せめて、触れ合うことだけは許してほしいとナツキは雪と向き合う。
駅についたら、別れなければならないから、雪の歩幅に合わせてゆっくり歩いたのに、到着する時間はあっという間だった。
「…」
雪は帽子をかぶっている。
襟足がないから、よく見れば剃毛していて髪がない不自然さには、すぐ気づく。けれど、髪がないせいで露呈した頸や首元は、色白で噛みつきたくなる。
先ほど、耳を喰んだ時の感触が、ナツキの唇に甘苦く残っている。
柔らかくて分厚い耳朶だった。
できることなら、舌でずっとしゃぶっていたい。
もっと強く噛んで、痕を残したかった。
猟奇的な陵辱心が沸き起こり、体に力が入る。危険な想像が巡りそうになり急いで掻き消す。
「ナツキ」
見つめていた雪に名前を呼ばれてナツキは我にかえる。
「今生の別れというわけじゃないから、そんな表情をするなよ」
駄々をこねる子供を嗜めるかのようだった。
ナツキは素直に頷いた。
この手をどうしても離したくない。寂しくて胸が痛い。
ナツキは長い睫毛を伏せて深く息を吸って、そしてゆっくり吐き出した。
「ゆきちゃん」
愛おしい名前を呼ぶ。
じんわりと滲み入るように気持ちを落ち着かせる。
「?」
雪はナツキの言葉を待っている。
「大好き」
「…うん」
少し困った表情をして、視線をそらして雪は頷いた。
それは嫌悪しているわけではなく、言われ慣れない恥ずかしさからそうしたのだ。徐々に頬がほんのり赤くなる。
雪はナツキを見上げた。
「またね」
「…うん」
今度は雪の言葉にナツキが頷いた。
さよならと言われないだけ希望がある。嘘やこの場を繕おうとして、ナツキを期待させているわけではないのは分かっている。彼は、そんな人じゃない。
けれど沸き起こる寂しさを止められずに、ナツキは視線を逸らした。
雪はナツキが手を離すまで、待ってくれている。
優しい。大好き。
心の中で、決意を固めてナツキは雪の両手を離した。
「…なっちゃん」
拭えない寂しさと、共に離した指先から冷えていく。
「ごめんね」
なかなか決心のつかないナツキは謝る。
それを雪は察したのだろう。
別れを惜しまれる雪は、ナツキに近づいて背伸びをした。
「じゃあねっ」
「…」
その一瞬の出来事が、至極ゆっくりで何があったのかわからないまま、雪が離れていく。
「ちょ、ちょっと…!」
雪は雑踏に赤くなる表情までも紛れさせるように、改札の方へと歩いていく。
追いかけようとしたが、足早に改札を抜けていってしまい、追いかけることができなかった。いや、足が動かなかった。
「なに今の」
ナツキは一瞬の出来事を頭の中で反芻した。
動画というよりも静止画で切り取られた映像は、雪が1歩近づいた瞬間から始まり、近づいた雪がナツキの頬に唇を寄せて耳元で、シャッター音と重なるようにチュッと聞こえた。
遠くでミュージシャンの歌声が煩くなければ、あるいはこんなに駅を利用する人が多くなければ、もっと大きく耳の奥に録音できたかもしれない。
『じゃあね』とゆっくり唇が動いた瞬間から、みるみる顔が真っ赤になっていって、くるりと背を向けたときは耳が真っ赤だった。
自分の気障な行動や、ここが屋外であることなど、色んなことを想像して恥ずかしくなって、真っ赤にさせて去っていった。
何かを追求されたら、きっと何も答えられないと思ったのだろう。
雪の唇が触れた頬の感触が、ナツキの頬に残る。
どうせだったら、口にしてくれたらよかったのに…
と贅沢な感想を漏らす。
けれど、雪にしてみたら史上最大の1歩だったのだ。
可愛い。大好き。
そして、ナツキの頭の中に危険な妄想が一気に広がる。
もしも…
もしも、この思いが炭酸と同じだったとしたら、一気に広がった妄想は、やがて弾けて二酸化炭素の抜けた、ただの緩くて甘い砂糖水になるのだろうか。
「…」
ゆきちゃん またね。
もう聞こえないし、言葉にも発していない。
心の中で、ナツキは解けるように消える残像の雪に呟く。
さっきまで、あんなに別れを惜しんで、悲しさに胸を痛め、指先が冷えるような孤独に震えていたというのに…
今は、微かに指先が暖かい。
そういえば雪の画像を撮っておけばよかった。待ち受け画像にする用に。
今更後悔する。
ナツキは、ため息をついて目を閉じた。
そして、しっかりと目を開けて駅を利用する雑踏に紛れて、消える。
ー終ー
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