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酔いどれ俳人になる前に
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「美味しい地酒が手に入ったんだけど……」
そもそも、この中途半端な縁を断ち切らんがため、彼に声をかけたのだ。
***
いつも、いつでも、三日にあげずにこの庵に青菜や米を足しに来る。
それは弟子たちの間では、暗黙の了解であるらしかった。
気がつくと、暮らしに差し障りのないように、色んなものが調えられている。
買った覚えのない食べ物や、いつの間にか底の見えなくなった米櫃。
半紙や墨も、そろそろ足そうかという時には既に、よく使う抽き出しに揃えてある。 そういうものを眺める度、松戸は有難いような、困ったような心持ちになる。
それは、松戸が世捨て人だからだ。
少なくとも、彼自身はそのつもりである。
質素な庵を構え、少々のものが足りないながらも、心は穏やかで、充足した暮らし。 好きでこういう暮らしをしているのだから、多少の不足は勘定に入れない。
元々不精なのもあるが、働き盛りというわけでもあるまいし、一食くらい抜いてもどうということはないのだ。
今すぐというわけではないが、別段、いつ死んでも構わない気でいる。
門弟としての立場もあるとはいえ、このように気にかけてもらい、有り難くはある。
あるのだが、正直、ほっといてくれ、というのが真情である。
贅沢な悩みであると、自覚はしている。
若干煩わしいものの、今年も飢えずに暮らしていけるのは他ならぬ弟子たちのお陰だ。
一人で生きるための技術もさることながら、縁や絆に縛られている我が身、世捨てとはなんと難しいことかと松戸は苦笑いをする。
最近はまた一つ、世捨てを出来ぬ理由が増えた。 我ながら、下らない理由だと思う。
「御免下さい」
(あぁ、来た)
はぁい、と返して、玄関に向かいながら、無意識に着付けを直す。決意の表れか、はたまた少しでも良く見られたいという浅ましさか。おそらく後者。
矛盾を感じないでもないが、心は決めたつもりだ。
世捨てのため。
今日こそは、諦めよう。
「……まだ生きてはいるようですね」
とはいうものの。
彼の姿を見ると、あぁ、と胸の裡で嘆息してしまう。
曇天を背に立つ、冷たい眼差しの男。
いけないと思いつつも、松戸の目は自然、その輪郭を、頤を、肩の線をなぞる。
「民生委員か、君は」
相変わらず、手酷いご挨拶だ。
彼に会えて嬉しいのと、決して好意的な言葉を期待できない悲しさとが半々。
それでも、その半分にすがってしまう。
そのせいでずるずると、世捨てを決行出来ないままなのだ。
(いつ見ても君は、うつくしい)
素知らぬ風を装いながら、その実、彼が訪ねてきてくれたことに浮かれている。
彼は、この無遠慮な視線に気づいてはいないだろうか。
だから、私は酷くされているのかもなぁ。と松戸は思った。
あぁ、でも、うつくしいものは、ずっと見ていたいのだ。
「今日は、日が翳ってしまっているね」
素直に整った鼻筋を視線でなぞりながら、何の捻りもない言葉を投げかける。
松戸が生業としている「言葉」さえも、今は一時でも長く彼を見据えるための道具だ。
半分、浮かれているせいで、ありきたりなつまらない文句。
彼の心を掴むには、程遠い。
「また、寒くならなきゃいいけど」
「そうですね」
軽い溜め息とともに視線を外される。
予想はしていたが、辛い。
何か、何でもいい、彼の気を引けるようなものはないだろうか。先程は、自分の世話を焼いてくれる門人達を煩わしいと思っていたのに、なんという掌返しか。いや、でもこれは、別れ話をするための口実なので、何も違えていないはず。神妙な話は苦手だから、酒の勢いでも借りて軽く言ってしまえばいい。と、そこまで考えてはたと気づいた。
誰が持ってきたのかは分からないが封のあいていない徳利があったのだ。確か門人の一人が故郷の酒を持ってきたとかなんとか言っていた。
酒ならこの仏頂面の男といえど少しは興味を示すだろう、少なくとも天気の話なぞするよりは。
(未完)
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