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金魚は想う
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「……来てたの」
さきおととい喧嘩した相手の、びっくりしたような声を背中に聞いて、河辺はまた一口、冷めきった茶を啜った。
来ていたも何もない。
居た、という表現が正しい。
朝一番に庵を訪ねたが、生憎松戸は不在であった。
まあ今日は寒いからすぐに帰って来ようとふんで、書斎や勝手をうろうろし、夕餉の支度などしながら待ち続け、はや幾刻か。
とっぷりと日が暮れた頃、ようやく庵主は帰ってきた。
声を聞いた途端、しかしにわかに馬鹿馬鹿しくなって、駆け寄ってきた待ち人をかえりみもせず、お暇しますと言い放った。
「えっ、待ってよ、帰るなよ! ゆっくりしてってよ」
もう充分しましたけど。
皮肉を返すにはあまりに苛立ちすぎていた。
(このバカジジイ)
てっきり泣いてしょげているだろうとふんでいた自分が愚かに思えた。
どうせ、鯉屋の邸か気に入りの弟子の所にでも転がり込んで慰めてもらっていたのだろう。 そこで一献すすめられて、僕の悪口を肴にでもして、ついでに飯でも食べてきたのだろう。
ああ、そうだろうとも、だから僕がここへ謝りに来ようとは夢にも思わなかったわけだ。
だのに 帰るな、だと。
僕のことなど、都合の良い人形か、猫や何かと同じに……いや、何とも思っていやしないくせに。
そんな被害妄想じみた想像がじわじわと広がっていく。
(ああ、こんなのまるで地団駄を踏む童のようじゃないか)
下らない感情が沸いたことすら腹立たしく、言葉にする代わりに舌打ちを一つくれてやり、動作だけは静かに帰り支度をする。
おろおろするも一向に止めに来ない松戸が余計に苛立たしかった。
しかし、腰を上げて歩き出した途端、松戸が足袋のままで駆け寄り、河辺の腕に縋ってきた。
反射的に、逆の手が松戸を打ち据えようと高く上がる。が……
「手が、つめたい」
怯えとも、媚びともつかぬ、一見真摯な視線と、かちあう。
(何してる)
(早く打ちのめしてやれ)
「ずっと待ってたんだね」
手の温かさに安心してしまう前に、早く。
「寒かったでしょう」
(ああ、)
“ふり”であると、本気ではないと、わかっていても。
「ごめんね」
(僕の、敗けだ)
掲げられた手が、行き場をなくしてそろそろと降ろされた。その手を、松戸の両の手が大事そうに包んで、熱を伝えようとする。
そのまま暫く、二人の吐息が白く空に溶け続けた。
「あまり、あったまらないね」
少し思案すると、松戸は河辺の手を片手に持つと、自らの羽織の中に押し込めた。
空いたもう一方の手が、河辺の白い頬を撫でる。
まだかじかんでいるはずの指先が、掌が、熱い。
「ほっぺた、冷たっ」
頭をぐいと引き寄せられ、少し皮膚の弛んだ柔らかい頬が、己の頬に擦り寄せられる。
「よしよし」
(ほら……何とも思ってないにしろ、やっぱり人形か猫のような扱いじゃないか)
負け惜しみのように、こっそりと拗ねたものの、心ではもうとっくに松戸を許していた。
ただの「お気まぐれ」とは知りつつも、三日、水の入る隙もなく想い続けた人の肌が、情けないほど、悔しくなるほど嬉しい。
こちらの顔が見えないのをいいことに、目を閉じて、温もりを噛み締める。
背中に回そうとした手を、彼は気付いただろうか。
人形や猫以上に、可愛がってくれるかもという期待にも。
「松戸、さん」
「……上がっていくよね。ね?」
声もなく頷くと、松戸が当然のように河辺の手を取った。
まるで幼子を連れていくかのように、繋いだ手を揺らしながら歩くものだから、気恥ずかしくてならない。
けれど、その手を振り払うことはしなかった。
(……そういえば、どうして喧嘩をしていたのだったか)
松戸の手に、舌に、声に、弄ばれ焦らされ、靄のかかった頭でぼんやりと考える。
思考を手繰り寄せようとすると、抱き起こされて、ひどく深く貫かれ、河辺はその糸を手放さざるを得なかった。
違和感と快楽のせいで自然、口をついて、媚びるような短いうめきが漏れる。
「何を、言おうとしてるの?」
耳敏く、切れ切れの言葉を拾って、意地悪に松戸が訊いた。
(まるであんたの中には、二人、いるみたいだ)
先刻までの、慈しむような眼差しも、あやすような声音もない。
先程河辺の手を優しく温めた手は今、彼の弱い所を探り、執拗に責め苛んでいた。
「ちゃんと言ってくれないと、わからないよ」
弱い物言いのくせに、明確な命令文よりも「それ」をはっきり言葉にしろと強いているようで、河辺の羞恥を掻き立てた。
(ちゃんといわないと、わからない……)
「…まつ、ど…さん、僕…」
「なぁに?」
依然、半分は意味を成さない声を漏らしながら、また河辺は考え始めた。
「あなたが……っ」
「うん…?」
促しながらも、河辺を快くさせる手は緩めない。
あえぎが大きくなる。
向かい合った体に縋りついて、河辺は、屈服にも等しい言葉を、「それ」を口にした。
「す、…き……です…」
(あ、)
吐き出された精が松戸の腹を白く汚して、茂みへと伝う。
間もなく、腹の中に彼の精を受けたのを感じて、河辺は力なく顎を松戸の肩に預けた。
(思い出さなくて良かったのに)
先に床について、うとうととしている松戸を眺めながら、河辺はぼんやりと、先程の答えを反芻していた。
情事の最中に、好きだなどと口にするなんて。
しかもそのせいで、思い出してしまった。
切れ切れの言葉を耳敏く拾い、「それ」をはっきり口にしろと強いる、ひどく意地悪な仕打ち。
普段は、平手一つくれてやれば泣き喚くような、弱々しいじじいのくせに。
(優しい貌のあなたも、僕を抱く時のあなたも……)
これまでに何度となく、唇も体も重ねてきた。
密やかな情事のその度に、松戸は言葉を尽して河辺の美しさを誉めそやし、腕(かいな)に抱いて囁いた。
よもやそれだけで、心が通うなどとは思わないが、精神的な繋がりがなかったとも思ってはいなかった。
決してそうとは思いたくなかった。
それはある種の願掛けか、または線引きでもしているつもりなのか、或いは……
(人形や猫に、愛していると囁くような奴はいないからか……)
松戸は、決して河辺に、好きだとは言わなかった。
(これでは僕ばかり、あなたを思っているようじゃないか)
それが癪で、河辺は拗ねてみせたのだった。
しかし、河辺の拗ね方たるやこの先の一切の関わりを拒絶しているようで、松戸には真意が伝わらなかったようだ。
今思えば、大人びた子供と、子供じみた大人の、下らない喧嘩。 何の意地か、好きと言わぬも、言われたがるも、頑なに譲らぬ。
師という立場上、松戸がそれを言えぬのは分かっていた。
それでも、と河辺は希うのだった。
(偽りでも好きと言われれば、僕は満足するのだろうか。 ああ、そんな気がする。
それほど僕は、あんたの言葉に渇えている……)
(ねぇ、松戸さん)
僕を、人形や猫と同じだと、お思いでないのなら。
(好きと言って、僕を見てはくれませんか)
寝ている彼に口付けを施しながら、合間に、松戸の目を盗み見る。
夢うつつの中、緩やかに閉じられた眼が、束の間、瞬きの間だけ、河辺を視界に収めたように見えた。
了
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