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悪魔の純愛
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その男は今夜も何かに取り憑かれたかのようにベランダに出てじっと望遠鏡を覗き込み、かれこれ数時間経つというのにひどく興奮した様子のまま、半ば狂気に近い感情の昂ぶりに悶えていた。
彼の名はここではKと仮定しておこう。僕はKの事を口述するにあたって本人に何の承諾を得てはおらずに、そんな権利が及びかねない範囲の話をしようとしているからだ。これはただ単に世間に対する遠慮であって、決してKに対してのものでは無いことを付け加えておく。
というのも、もしKにそのような些細なことで伺いをたててみようものなら、一切の抵抗が無く、聞き流しているに近い快諾の後に、三十万㎞毎秒という光の速さを伴って、Kが近年熱中している分野の話題へと切り替わっていくことであろう。
Kという男は自分が他人にどう映っているのかは思考と考慮の対象から外れているのであり、その一方で自分が他をどう見るのかがKにとっての全てであって、それがKの世界なのであって、世界観であって、世界はKを楽しませるだけに存在すべきであって、実際にそうだった。
Kは時に執着の塊であるのだが、それと同時にその魂をあっさりと手放す精神をも所持していた。いつかその精神をも捨てることがあろうことなら、Kは現在の人格を保持し続けることは困難であろう。それ程に彼は他とは一線を画していた。普通、常識、一般、多数、平均、そのような零に近い数値の対局に居るのがKであって、そこに存在し続けることでしか生きた実感を得られない、最も幸せであり且つ破滅と隣り合わせの愛すべき普遍な人間の一人なのだった。
当時、Kは高校二年生であった。通う学校を違えていたり、組分けが同一ではないという条件だけで、己の理解範囲を越える者は全て真っ赤の他人である年頃にも関わらず、存在が曖昧で賽子を振ったり振らなかったりしている神様という奴は似た者同士を引き合わせるのが仕事のようで、その抜きん出た勤務姿勢によって、Kは身体の奥底から興味がこみ上げる相手をかすかに捉えた。
随分と長い間、夜空を観測し、ある程度の進捗を得たからなのか、はたまた肉体疲労か、精神の緩和からか、覗きレンズから顔を離し、一つ大きな伸びをした。月を背景に猫のように身体をしならせ、逆光による影の中でKは黒猫のように艶やかであった。
靴音を鳴らしてベランダの冷たい手すりを布越しに頼りにし、近隣をただなんとなく眺めた。一つ一つの部屋の灯りがKに与える情報を彼はそのままそれと受け取り、手前勝手に夢想へとつなぎ合わせて多彩な物語を繰り広げていた。それを綺麗な比喩を伴った言葉に置き換えようものなら一端のポエムでも書きあげてしまえそうなものであったのだが、Kにとって均一の取れていないものは美しくはなく、それ故に移ろいやすい心情などというものは、泥に塗れ、薄汚い上に寂れた、時代遅れの鼻つまみものであった。確固とした軸や筋や意思の強さこそKが耽溺する対象であった。
ふと、さきほど視界の端に映り込んだ一軒の住宅がKの気を惹いた。その外観は同じパターンの繰り返しであり、オフィスビルを縮小か切り取ってきたかのような風貌なのだが、規模はそれ程に広くもなく、二階建ての個人事務所にも見える質素な雰囲気であった。しかしそれでいて、窓を彩るカーテンが一般家庭向きの花柄であることが、そこに何者かの生活感が漂っていることを示していた。
夜空を観察する為に使用していた望遠鏡のガラスの位置を調整し、その民家へと向けた。高倍率になる程に視野は狭くなるのだが、よく見える。花柄だと決めつけていたカーテンはその実、ドットの集合であったし、規則正しい窓の配列はやはりその設備によって形を変え、大きく開いていたり、無くなっていたりしている。虚勢を張って外面の体裁を整えた綺麗事を並べているだけではないようだった。
その人間らしさにKはますます望遠鏡から目を離せなくなった。白紙にほんの爪の先の黒点が滴りようものなら、群衆の目はそこに一度はとまるように、ルーチンに於いての寄り道は目立ってしまうように、生活感という隠しきれない雰囲気はこの際、他の民家よりも際だっていたのだった。
その家は二階を建蔽の中から一部分だけを居住場所として部屋を重ねており、残した余白を広いベランダにしていた。そのような洗濯物を干すにも、プランタを並べるにも十分すぎる程の敷地があるにも関わらず、そこには一切何もなく、むしろ余している、当初の目的と現在の使用価値が変化してしまい手を下すに困っているといった感じがあった。
一方でKが立っている場所は一メートル程の幅しかないベランダであって、そこにぎしぎしと精密機械を並べ、風になびく髪をうっとうしく掻きあげていた。隣の芝生が青く見えるというのはそこに観測者の願望達成の一助があるからであって、その屋上とも換言できる場所はやはりKにとっては至極羨ましい環境であった。
その一階の天井の上に一人の人間がカラカラと窓を開けてそっと外に出てきた。見えてはいなかっただけで、そこには外靴が常備されていたようだ。
Kは心が踊る感覚を覚えた。望遠鏡の倍率をあげて、じっとその人物の尾行を始めた。その者は自分と同じ位の年齢か、それとももう少し大人びたような男性で、陰鬱そうな雰囲気を持ちながら、手すりに体重を預けて、夜空を見上げ、街灯りを見透かし、頬杖を付いて視線を下へと下ろした。まさか自殺でも考えているのではないのだろうかと、浮き足立ったのだが、その高さでは後遺症を伴う怪我を負う確率も高いので、Kの期待は淡くなった。当の本人がどんなことを考えていたのかは知らないが、Kを通すと彼はそんな影を抱いていたそうだ。
夜風がびゅうっと吹き、鳥肌も立つ上に、望遠鏡も風に煽られ始めたので、今夜の観測はここまでにしようかと思ったが、ベランダの彼に後ろ髪を引かれ、もう少しと粘ろうとしたのだが、再び視線を送った先には誰もいなかった。まさか本当に飛び降りたのかと思ったが、庭には誰もおらず、目を離した隙に部屋に戻ったと考えるのが筋だろう。夜風は身体に染み渡るものだからな。
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