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部屋のドアがノックされ、晩ご飯だよと呼びかけられたことは覚えている。献立は何、と尋ね、彼が「名前は分からないけど、トマトの煮物」と答えたのも。後で食べるよと言ったのに、親切な青年はコップ一杯の牛乳、サーディンとブラック・オリーブ入りサンドイッチをベッドの側に置いていった。で、それをかじって再びベッドに倒れ込んだのが最後。その記憶の繋がれ方と言えば、さながらルイス・ブニュエルの不条理映画だった。
時差ぼけにしてもこの醜態は酷すぎる。しかも常日頃から、飛行機であちらこちらを飛び回る身の自らが晒すにしては、余りに。微かな鈍痛の張り巡らされる頭を振り立て、スヴェンはベッドから出た。マノロがベランダへと続く窓へ遮光性のカーテンを取り付けているのも宜なるかな。差し込む朝日は全く強烈だった。
ダイニングへと降りれば、テーブルの上には昨晩口に運んだものと全く同じ献立が、自らの手にするボーンチャイナを一回り大きくした皿へ乗せられている。どうやらジャックは、ここから摘まんで持ってきてくれたようだ。何故かほんの少し落胆する。
時計を見れば朝の10時。ジャックはとうに腹拵えを終えたらしい。ガラス張りの壁越しにパティオを臨む居間は、すっかり散らかり放題だった。
開廊と地続きの床は玄武岩の飾り板仕立てで、涼を取るにはもってこいだが、全身を委ねるには固すぎる。俯せの上半身はクッションと毛足の短いラグマットで防護し、片足と言えばゆっくりとしたばた足運動。細身のジーンズの先で甲が打ち付けられる度に、ぺちりと軽く音が鳴る勢いの良さ。蹴り上げられる足裏は、一際目を引くベビーピンクだった――青年が裸足だと気付いた瞬間、スヴェンは自らの脳に掛かっていた薄い霧が、静かに晴れていくのを感じた。
「おはよう。体調はどう? ここ、夜は凄く冷えるね」
「おかげさまで」
携えたサンドイッチをかじりながら、スヴェンはジャックの傍らへ腰を下ろした。
「少し疲れてたみたいだ」
「仕事、忙しいんでしょう」
肩は何でもない風に竦められる。
「分かるよ。僕も嫌なことがあった時とか、そうやってぐっすり眠っちゃうことがある」
「まあ、今日からは良いことばかりだろうからね」
拾い上げたルオモ・ヴォーグ誌は数年前のバックナンバー。表紙の中、プラダか何かのレザージャケットを身に纏いこちらを睨みつけるアーニーの眼光は、写真であることが信じられないくらい鋭い。
「部屋の隅のダンボールに入ってたんだけど。スアレスさんって、父さんのことが好きだったのかな」
「マノロが? ああ、友情って意味でね。彼は何というか……程々じゃ満足できない性格だから。友人にもそう言う人間が多い」
恐らくは客の自惚れを擽る、もてなしのつもりなのだろう。全く余計なことを。苦笑いと共に、スヴェンは塩辛いオリーブの実を噛みしめた。
ジャックは相変わらず熱心にページを繰り続けている。折り目が付くほどの乱雑さではないが、コラムや芸能人のインタビューへまともに目を通しているとは思えない。
父親にはそこまで似ていない子だった。目も口も何もかもが大振りで、熱い嵐のようなエクスタシーを予感させるアーニーと違い、ジャックは小粒だ。見とれる余り薄く開かれた、ミニ薔薇を思わせる唇。ちまちました鼻筋の造作。こまめに調髪しているのだろうツーブロックの髪を指先でくるくる巻き取って乱す仕草は、年齢よりも子供っぽい――もっともこちらの表現は、アーニーにも適用することが出来るものだったが。
「あなたが撮った写真もある?」
「どうかな……ああ、これとか」
床に手を突き、背中を丸めて誌面を覗き込む。どれどれ、と身じろいだジャックは、スヴェンの腕に肩を押しつけるようにして首を伸ばした。微かに漂うトワレの匂いは甘く、既に薄い。彼自身の健康な汗の匂いを嗅ぎ取ることが出来るくらいには。
ネルーダ夫人はもう帰宅したのだろう。音楽は無し。二人が黙り込むと、静けさに包囲され、追い詰められたかのように感じた。
明かりをつけない室内は、クーラーも稼働しないのに涼しさすら覚える。視界の端でちらつく動きに気を惹かれ、反射的に掴んだ足は、ひんやりと冷たい。
振り払われるかと思ったが、ジャックはまるで頓着しなかった。スヴェンが手を開けば、足は何事も無かったかのように再び床へと落ちる。そしてまた蹴り上げる運動。三回に一回ほど、気まぐれに捕らわれるのを許す。
「この前学校であなたの名前を出したら、モデル志願の子に食いつかれたよ。確かに彼、凄いハンサムなんだけどさ」
「馬鹿な考えは早々に捨てた方が良いって伝えといてくれないか。『エル』でも普通の男性モデルには1回125ドルしか払わないし、その金額はペニスを露出してるカメラマンと3時間向き合うのに見合うものじゃない」
「男性相手にも露出するの?」
「私はしたことないが、そう言う節制無しもいるにはいるね。最近はカメラマンもバイセクシャルが多いから」
ふうん、と上っ滑りな相槌と共に、ジャックはまた一枚ページをめくった。奥付まで到達したと知ると、元のページに戻り、頬杖をつき直す。
「父さんは、普通じゃないってことだね」
「並外れてる」
ゆっくりと回される足首の動きに合わせ、華奢な踝の骨が手の中でこりこり移動する。動きを確かめるよう、微かに握搾する力を強めた自らの手のひらは、寝起きで温い。このまま青年のなめらかな肌を溶かしてしまうイマジネーションが、頭に浮かぶ。
「彼は並外れた人物だよ。知ってるだろう」
「そうだね」
解放されても、ジャックは床へと足を戻さなかった。臑は投げ出したスヴェンの太腿へと着地する。床へと腕を滑らせ、放り捨ててある新聞を引き寄せる際に掛けられた重みは、決して存在を無視させなかった。
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