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深酒がよっぽど堪えたらしい。午睡の後、ジャックは夕飯も食べずに部屋へこもってしまった。ネルーダ夫人が、ベッドへ運ぶチキンスープによって頭痛はそれなりに紛らわされた事だろうーー以前アーニーに酔い潰されたスヴェンが、その恩寵へ預かった際のように。
尤も緩和ケアもあくまで程度の問題。いつかの朝と逆しまに、今朝のジャックは顔色に冴えがない。
対してスヴェンの食欲は亢進する一方、バターをたっぷり塗ったトーストにハモンセーラを山と積み上げてぱくついている。スマートフォンの表示では11時。デユサノ(1回目の軽い朝食)は過ぎ、アルムエルゾ(2回目の重い朝食)にぴったりのメニューだが、ジャックは自分で淹れたカフェオレを啜るばかりで、生ハムへ一向に手を出そうとしない。
これまたバターがかぐわしい、スクランブルエッグをのせた皿を差し出し、ネルーダ夫人が呆れ声を出す。
「調子に乗るからよ。これに懲りたら、分を弁えなさい」
「だって……とにかく頭の中でFシンバルを鳴らされてるみたいな状態から、やっと脱出できた」
「バズドラムじゃなかっただけ、辛うじて運は残ってたってことだな」
機嫌良いスヴェンの揶揄へ、ジャックはしょぼついた上目から、カフェオレボウル越しに視線を突き刺した。
「あのさ、スヴェン。昨日、僕の首を絞めた?」
「結果的にはそうなるかな……発声練習だよ」
あまりにも淡々とした物言いが寄越されたので、言葉の半ばまでは何の気取りもなくそう返した――いや、嘘は良くない、スヴェンは最初から質問を大まかに予想して、模範解答を作っていた。事実と本音によって作られた、全く心のこもっていない解答を。
食器洗い機から棚を引き出していたネルーダ夫人の視線が、後頭部へ突き刺さるのを感じる。片や当の本人は、ふうん、と興味も薄く相槌を打ったきり。薄切りにされた生ハムをつまみ上げた。舌の上へ乗せ、少し唾液を絡めただけでとろける脂身を、白く並びのいい歯は執拗なほど噛み続ける。
「スヴェンは凄いね。デンマーク語と英語、フランス語に、それとスペイン語も?」
「言語なんて、必要に駆られると嫌でも覚えるものさ。君も女の子が囁く愛の言葉なら、一度で頭に入るよ」
「そうだといいんだけど。ライオネル父さんに貰った詩集、辞書を引きながらでもさっぱり」
もう一枚お代わりをと小皿へ伸ばされた指は、同じ目的を持つスヴェンの手と鉢合わせする。触れたのはほんの一瞬、お互いの体温を感じる暇すらない。なのにジャックは、お目当てを得て腕を引っ込めるとき、ことさら無表情を作るよう努めているらしかった。
「ごめん」
と呟いて、カフェオレボウルから一口啜る。入れ替わりに出された声は、湯気も失せた液体を喉へ通したにしては、酷く乾いて聞こえた。
「お礼言ってなかった。あの辞書くれたの、あなただよね」
「どういたしまして。頭痛を悪化させないといいんだが」
「いやみだなあ。ちゃんと使ってるよ、本当に」
再び咀嚼が始まった口は、ダイニング・テーブルに乗っているものへ気付いた途端、動きを止める。大理石仕立ての天板の上で、ローズピンクの封筒は目立っていたが、今まで気付かなかったようだ。
目が釘付けになっていたのはほんの数秒のことだが、居心地が悪いほど長い時間のように思える。やがてジャックは封筒を取り上げると、無言で席を立った。
居間を横切り、お気に入りにしている開廊のサンウンジャーへ向かうのだろう。ガラス戸が閉められる音が消えてから、スヴェンは片手で支えたままだったトーストを口へと運んだ。
「そっとしておいてやるべきだな」
「ええ、もちろん」
手にしたタンブラーへ布巾をぎゅうぎゅうと押し込み、滴を吸い込ませながら、ネルーダ夫人は言った。
「助けを求めてくるまでは……いえ、彼は一人前の大人ですから、自分で何とかするでしょうね」
封筒に印刷されていた名前は、スヴェンですら知っている、著名な代理母斡旋団体のものだった。
ちょっとしたニュースになった自らの出生を、ジャックが人前でことさら意識してみせることはない。金にあかせてこしらえたデザイナーベイビー、血統書つきの大型犬を飼うよりもう少し手間のかかる道楽。周囲からの散々な言われように反して、愛は惜しみなく与えられる。人種も階級も、両親から良い所取りをして形成した存在こそが、ジャック・グレスラーだった。
希有な美徳をそなえながらも尚、彼は知る権利を行使しようとする。
もちろん、封を開ける真似はしていない。だがスヴェンは、凪いだ水面を一陣のそよ風が撫でたかのような不穏から、目を逸らすことが出来なかった。
腹がくちくなり、居間へ足を向ける。スヴェンの一挙一動へ、ネルーダ夫人はずっと意識を払い続けていた。非難の色は感じられない。ただ、試験管の中へ詰められて、観察される微生物の気分になる。
青々と葉を重ねる植物から垣間見る時、日陰の中のジャックは、ひどく顔色を悪くしているように見えた。サンラウンジャーの傍らに立ち、慎重に封筒の上部を千切ると、中身を振り出す。書類を開いた拍子に、挟まれていた光沢のある一枚が、ひらひらと舞い落ちた。
8R(六切り)サイズの写真だろうそれを取り上げ、正体を改めたとき、ジャックはあっと小さく悲鳴を上げた。ガラス越しに見守るスヴェンへは勿論、声など届くことがない。だが一瞬動きを止めた身体と、薄く開かれたまま凍り付いた唇を目にすれば、理解するには十分だった。
その一葉はかなりの間、矯めつ眇めつされる。今すぐ眼を逸らすべきだと分かっているのに、何故か惹きつけられてしまう、悪夢じみた状態に囚われているらしい。青年の強迫的な苦痛を、スヴェンは我が事のように知ることが出来た--何せ彼自身、今全く同じ状況に陥っているのだから。
ここのところすっかり忘れていた、腹の底から湧き出すような情緒に浸っていられたのは、ほんの短い間のことだ。デニムのポケットへ突っ込んであったスマートフォンが、鋭く振動する。誰かから不意に、笑顔で尻をぴしゃりと叩かれたような気分になった。
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