アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
5-1
-
平穏とはいつか必ず破られるものだ。特にこんな、艀に乗ってあちらこちらを行き来し、ありとあらゆる事に首を突っ込む生活をしていれば。だが予期していたことを現実に突きつけられ、驚きを押さえ込めるかとなると話はまた別物。
スマートフォンに着信があった際、スヴェンは二度「警察署に行けば良いんですか」と問い質した。幸い連絡をくれた警官は親切で、若干怪しいスペイン語を話す外国人へ丁寧に「現場に留め置いて話を聞いています」と繰り返してくれる。
タクシーで店の前に乗り付けたとき、迎えてくれたのもその男だった。この辺りではそこそこ身分が高いらしく、現場を完全に掌握しきっている。こじんまりした酒場から既に野次馬は散らされ、残っている警官も他に一人か二人。彼は事情を説明した後、さも同情しているかのように「ありふれたことです」と請け合った。
「信用しますよ。スアレス氏のご友人でしょう、彼は街にたくさんの恩恵をもたらしてくれる」
言外で、袖の下を求められているのかと思った。だが彼は連れてこられたジャックの姿を認めるや否や、すぐさま人払いを指示し、自らも席を外す。
殴り合いになったというのも誇張ではなかったらしい。氷を巻いたガーゼの下、拳の関節は既に痣と腫れが十分視認できる。
「君、意外に腕っ節が強いんだな」
しょんぼりとスツールへ腰を下ろした青年へ、開口一番スヴェンはそう言い放った。
「酔っぱらって酒場で喧嘩か。若者の必須科目を、着実に履修してる訳だ」
「迷惑をかけて悪かったと思ってる」
間違いなく恥入ってはいるものの、ジャックは決して相手から眼を逸らさない。油っぽく汚れた電球の光の下、白目は酷く充血して見える。
「でも僕は酔ってなんかいない。それに、理由があったんだ」
「お父さんに報告するか」
「しないで」
叩き返される口調が余りにも頑なな事は、呆れや怒りよりも先に興味を掻き立てる。カウンターへ頬杖をつき、スヴェンは店主を呼びつけた。所望したのはジンジャーエールとスコッチ。間違いなく燃えている目の前の青年と対峙するには、自らとて一杯燃料を入れでもしなければ、とてもやりきれない。
出されたグラスは指紋で曇っていたが、ジャックは全く気にすることなく取り上げた。
「ホルヘが言ったんだ」
「君が最近仲良くしてた、エマの兄の?」
「そう。僕の父さん達のことを、ファグ(カマ野郎)って」
「随分古臭い物言いをするね」
かび臭いウイスキーが喉と、そこを通る声に絡みつく。スヴェンが平静を保とうとすればするほど、ジャックは気色ばみ、胸すら張ってみせた。
「だからぶん殴ってやった。あいつ、僕が妹と遊んでたから、気にくわなかったんだ」
「その兄妹の事だけど」
顎を乗せていた手のひらで唇を拭っても、腹の底へと流れ込んだ不快感は無かったことに出来ない。湿気た息を付き、スヴェンは首を振った。
「いや、彼らは本当の所、兄妹じゃないらしい。二人は恐らく恋人同士だよ」
突っかかってくるかと思ったが、ジャックはじっと耐え、続きを待ち続けた。それだけの分別が付くならば、酔っていないと見なすことも出来る――トラブルを起こしたのだとしたら、それは彼本来の気質の問題だった。
「父親に連れられてここに来たらしいが、その男も、実は父親じゃない。アメリカ人だって聞いてる」
一足先に「ダディ」へ身請けされたそのホルヘだかは、反省の様子も見せなかったと、警官は憤慨して語った。まるで彼を責め立てることで、この国に対する自浄を誇示しているかのように。
「マドリードによくいる輩だ。ローマにも、パリにも、都会や田舎に関わらず、アメリカや、東洋の先進国から来る人間が多いヨーロッパの土地にはね。君は知らないうちに、人の恋人を寝取ろうとしていたって訳さ」
実のところ、スヴェンは最初からこの結末をうっすらと予期していた。ジャックが口の端に乗せる情報と、これまでの経験を統合することで、いとも容易く。
だが彼と、同じく事情を察していたに違いないネルーダ夫人は、暗黙の内に抜け駆けた口出しを控えた。若者をむやみやたらと疑うなんて、気持ちよいことでは全くない。大人だって案外、現実へ期待を抱きたいと思うものだから。
結局、スヴェンの信じたジャックの理性も、自称兄妹の良心も、全く未熟なものだった。そして子供の諍いは、お互いに加減というものを知らない。
噛んで含めるように言い聞かせたのは、ジャックがどこまで正体を知っていたか、測ることが出来なかったからだ。そして今も、ジャックは測らせない。しんねりとした反抗の目つきを、一向に崩さないことで。
「人間、誰かを罵倒するときは、自分が負い目を感じる言葉をぶつければ、相手も傷つくものだと思い込む。残念な話だが、彼はその程度の人物ってことさ。女の子にしたって、君が懸命に追い回すような相手じゃないと思うよ」
「そんな風に、あの二人を見下す物言いはやめて欲しい」
ジャックの口調は静かだが、きっぱりとしている。それは疑いようがなく、彼の父親であるアーノルド・ハンターが好んで使う言い回しだった。
「どうせ僕だって、周りから似たように見られてるんだし」
咄嗟に彼の頬を打ったのは、怒りによるものではない。自分でも信じられないほど計算づくに、スヴェンは腕を振り上げた。放っておけばどんどん暗く、冷たくなるジャックの目を覚まさせるために。
これは彼に課せられた義務だった。許されることではないのだ。青年が一人で勝手に無軌道に、自らを貶めるなんてことは。何せ彼はまだまだ蕾で、誰かの手を加えられなければ、とても花開くことなど出来はしない。
スヴェンは口を開かず待った。店主は離れた位置で無視を決め込んでいるし、入口前に立つ警察官はこちらへ背を向け続けている。なのにジャックはほんの数秒間、向けられる全ての視線を意識し、そして与えられた痛みと共に俯いていた。何もかもを飲み込んだ後、伏せられていた顔は、自らの冷厳を吸い取ってしまったかのようなスヴェンの瞳まで持ち上がる。
彼がうっすら口元を綻ばせている事に気付いたのは、その場でスヴェンだけだったに違いない。恐らくは当の本人ですらも知らない秘密を、彼は一人で味わった。
確かに甘い、目眩がするほど。けれど、物足りない。まだまだ青臭い。機は熟していなかった。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
13 / 18