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1、紅い花
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毒を含んだような紅色が、太ももの白さをより一層白く引き立てていた。
「お時間、無くなりますけど宜しいんですか?」
片膝を立てて座る男のはだけた肌着の奥から覗く白い脚から目を逸らし、久一(ひさいち)は、挑発的に見上げる黒い瞳を睨み返した。
確かに似ている。
凛とした眉、艶やかな瞳、目尻の切れ上がった目蓋。筋の通った鼻、小さな口。
肌は目を見張るほどに白く、だらしなく着崩し露わになった肩口に、緩く束ねた黒髪がいく筋も流れ落ちている。
微かに語尾の上がる男にしては高く澄んだ声まで良く似ていた。
しかし決定的に違うのは、目の前の男の佇まいである。
蜜羽(みつは)と呼ばれたその男は、艶やかな装飾の施された絢爛豪華な部屋で、金銀箔の散りばめられた屏風を背に、紅い長襦袢一枚だけの淫らな姿で脇息に肩肘をついて気怠そうに久一を出迎えた。
男でありながら、高級花魁をも凌ぐ人気を誇る陰間、蜜羽。その評判ぶりとはうらはらな怠惰な態度に久一が顔を顰めると、蜜羽は、まるで久一が怒る様子を楽しんでいるかのように、長襦袢の裾を捲り上げ、片膝を立てて挑発するように足元をはだけた。
「高い銭をぶん取っておいて、まともに客を迎えることも出来ないのか」
「あれま。肌着姿はお嫌いですか? どうせ脱ぐのだからこちらの方が手間が省けていいと思ったんですが」
顎をツンとしゃくり上げ、澄み切った黒い瞳を尖らせて挑むような目付きで久一を見る。
その、物怖じしない毅然とした態度に、いつも久一の心の片隅に住んでいる端正な顔が重なった。
ーーー葵(あおい)
口を突いて出そうになった名前をギリギリのところで押し留める。
やはり似ている。
色白の細面で線も細い。誰の目から見てもひ弱で、武術とはおよそ縁の無い繊細な佇まいでありながら、負けん気だけは強く、こうだと思ったことはてこでも曲げない頑固な一面もあった。
蜜羽の、瞬きもせず真っ直ぐ睨み付ける瞳の強さが、その時の葵の面影に重なった。
けれども、これは葵でない。
「ずいぶんと無礼な奴だな。それが客に対する態度か」
確かめるように、久一は、蜜羽の目の前にしゃがみ込み、突き出された顎を掴んで顔を上げさせた。
同じ顔、同じ声、同じ目の色。
蜜羽の容姿は、葵の面影を至るところに滲ませていたが、いつも葵の周りを取り囲んでいた清廉な空気も、朝露の降りたあぜ道に咲く露草ような、優しく可憐な雰囲気も持ち合わせてはいなかった。
蜜羽にあるのは、男を惑わす淫猥な闇と欲情の匂い。高価なお香の香りの奥に残る男の精液の臭いと、葵とは似ても似つかぬ快楽の染み付いた肉体から漏れる毒のような色香だった。
ーーーいっそ、お前が死んでしまえば良かったのだ。
理不尽な感情だと理解しながらも、久一は全身を覆い尽くす身を切られるような想いをやり過ごすことが出来なかった。
葵と同じ顔をした人間がいるということに胸をえぐられる。
葵はもうこの世の何処にも存在しないのに、葵と同じ顔をした人間が目の前で生きていることが恨めしい。
しかも、よりにもよってこの蜜羽なのだ。
蜜羽を見ていると、どうしても葵を思い出す。
葵と同じ顔をした人間が夜ごと男の下で喘ぎ乱れているのかと思うと、久一は、戸惑いを通り越して頭が混乱する。
言い掛かりであるとは知りながらも、蜜羽が男と情を交わすたび、生前の葵の聡明な生き方や純真無垢な魂までもが汚されていくようで、久一は、胸を掻き毟られるような痛みに襲われた。
けれども蜜羽は、久一の苦悩を推し量るどころか、苦しげに唇を曲げる久一を鼻で笑うと、顎を掴んだ久一の手を自分の手の甲で振り払い、立て膝をついた脚を横坐りに置き替え、開いた襟元を正して久一に背を向けた。
「私に言わせれば、部屋に入るなり人の顔をジロジロ見る旦那の方がよっぽど無礼ですよ。お陰ですっかり気分が萎えました。お代は結構ですんで、どうぞこのままお引き取り下さい」
もともと顔を見るだけのつもりでここへ来た。帰れと言われたところで、久一が腹を立てる理由は無いし、代金まで返ってくるのならむしろ好都合と言える。
にもかかわらず、拒絶されたと感じるのは、蜜羽が思いのほか葵に似ていたからだ。
他人のそら似だと解っていながらも葵と同じ顔に拒絶されると心が騒ぐ。
惑わされてはいけないと、気を取り直して蜜羽に向き直った。
「勝手ことを言うな。俺は客だぞ。そんなことが許されると思ってるのか!」
「許すもなにも、旦那の方が私をお気に召さないのでしょう? そんなに気に入らないなら無理に抱いてくださらなくて結構です。生憎、客には全く不自由しておりませんのでね」
惑わされないと気を張った筈が、とうに惑わされていた。自分でも知らないうちに、久一は、蜜羽の襦袢の襟を掴んで振り向かせ、自分の鼻先ギリギリにまで引き寄せていた。
「不自由してないとはどういう意味だ」
「そのままの意味ですよ。これでもこの桔梗屋を背負って立つ大看板ですからね。こうしている間にも、たくさんの殿方が、下の廻し部屋で私が来るのを今か今かと待ち詫びているんです。旦那の一人や二人いなくなったところで、こちとら痛くも痒くもないんですよ」
何に対しての怒りなのかは解っていた。けれども、どうしてそんな感情を抱くのかと聞かれたら、久一は、やはり、『惑わされた』と答えるしかなかった。
蜜羽が他の男に抱かれる姿を思い浮かべた途端、爆発しそうな怒りが久一の脳天を突き抜けた。
葵をこれ以上汚されるわけにはいかない。
怒りが冷静さを奪い、感情優位へと押し流す。
久一は、胸ぐらを掴んで引き寄せた蜜羽の身体を床にドンと突き倒し、身体を跨いで、両手首を頭の横で押さえ付けた。
「ちょっ……旦那、いきなり何をなさる……」
「黙れ! もうこれ以上お前に勝手な真似はさせない!」
背中をくねらせて逃げようとする蜜羽を怒鳴りつけ、上体を起こして、うっすらと隙間の開いた入り口の襖を降り返った。
「おい、金剛(こんごう)そこにいるんだろ? コイツは今から俺が仕舞(しまい)で買い上げる。解ったら、廻し部屋で待ってる奴らを全員帰らせろ!」
暫く間が空き、金剛(こんごう)と呼ばれた付き人が『承知しました』と低く答える。
蜜羽が驚いたのは言うまでもなかった。
陰間遊びの格付を松竹梅に例えるなら、ひとときの睦み合いを楽しむ一ト切(ひときり)は梅、朝まで床を共にする仕舞(しまい)は最高位の松に相当する。代金も当然高額で、いくら藩主の御用人として参勤に随伴する将来有望な若武者とは言え、一晩で使うにはあまりに無謀な額といえた。
「一体どうしちまったんです。気は確かですか!」
「いいから黙ってろ!」
蜜羽の手首を片手で一つに束ねて頭の上で押さえ付け、空いた方の手で長襦袢の腰紐の結び目を解いて前をはだけた。
葵とは違う淫らな身体をこの目に焼き付ければ頭に上った血も少しは引く筈だ。
そう考えての行動だったが、赤い襦袢の下から現れた蜜羽の身体は、久一が藩校を卒業してすぐの十五の夏の盛り、たった一度だけ触れた葵の白くなよやかな肌と同じ肌をしていた。
姿形が似るということはこんなところまで似るということか。
久一にはもう逃げ場が無かった。
蜩(ひぐらし)の鳴き盛るあの夏の日をなぞるように、久一は、目の前に曝け出された蜜羽の白い胸に唇を寄せた。
「旦那! 何をするんですっ!」
「聞いて無かったのか。お前は朝まで俺に買われたんだ……」
「ああっ、いやぁあっ……」
薄紅色に色付く乳首を口に含み、柔らかい部分を、舌先で揉んだり舐めたり転がしたりしながら、空いている方の手でもう片方の乳首を指先で弾くように撫でた。
似ていてもやはり中身は別物だ。
どんなに抗おうと、快楽に慣らされ開かされた身体は、見知らぬ男の愛撫にもいとも簡単に本性を曝け出す。久一の舌と指先で捏ね回され、蜜羽の柔らかかった乳首はみるみる硬く尖り、小さな粒となって久一の舌の上を転がった。
「嫌だっ……嫌ぁッ!」
卑猥に疼く乳首を唇で挟んで吸っては舐め、もう片方の乳首を指先でキツく捻り上げた。
蜜羽は下唇を噛みながら首を振って抵抗している。
「いつもやっている癖に何をそう嫌がる」
「旦那の相手は嫌です! 離して下さいっ!」
「なにを小癪な!」
乳首を乳輪ごと口の中に収めて引っ張りながら吸い、これ以上伸びないところで唇を離した。
乳輪が吸われた形に薄っすらと盛り上がり、桃色珊瑚のような乳首が震えながら濡れ光る。
悔しそうに眉間を顰める蜜羽を上目使いに見ながら、襦袢の裾を開いて下腹部に手を伸ばした。
「あっ、だめッ……そこは……」
触れた瞬間、冷たいものが久一の指先に貼り付いた。
恥辱に耐える素振りをしながらも、蜜羽の股間は快楽に悦び、熱く腫れ上がった竿の先からいやらしい蜜を滴らせている。
腰をひねって逃げようとする蜜羽を体重をかけて押さえ付け、先の部分を握り、蜜を溢す真ん中の溝に親指の先でこすった。
「ひッ、やだっ、ぁあっ、ひっ、ん……」
「なにが嫌なんだ。こっちも吸ってやろうか? それとも今すぐ捻じ込んでやろうか!」
濡れた竿を握り、上下に激しく扱き上げた。
頭の上で束ねた手首を離して自由にすると、蜜羽が、腕を口に当てて声を押し殺すように喘ぐ。
その、眉の下がった泣きべそ顔を一瞥し、身体を下にずらして昂り立った竿の先を口を含んだ。
久一の口の中で、蜜羽の、男根というにはあまりに小綺麗な、クセの無い色味の薄い竿が熱く張り詰める。溢れる蜜を舐め取りながら、蜜羽の片脚を肩に担いでお尻の割れ目を露出させ、奥に佇む後孔に指を忍ばせた。
「あぁっ! ま、まって! そ、それはダメっ、やぁ、っんんんん!」
丁子油で解された肉壁は既にふんわりと柔らかく、久一の指を絡め取りながら奥へ奥へと飲み込んで行く。
指を増やして肉壁を捻り上げるようにして押し込んだ。
蜜羽が、上半身を浮かせて久一の肩を叩く。
蜜羽の細腕が作る握り拳など久一には痛くも痒くもなかったが、蜜羽の、身体の反応とはうらはらな強情な態度は癇に障った。
久一は、空いている方の手で蜜羽の腕を掴み、何かを訴えるような瞳で見上ける蜜羽を睨み付けた。
「お前は、さっきからなんだってそう俺に逆う! それが客に対する態度か! 一体なにを考えてやがる!」
「それはこっちの台詞です! 俺のことが気に入らないのにどうしてこんなこと……」
答えは久一本人にも解らなかった。
葵に似た蜜羽が憎い。
けれど、葵に似た蜜羽に拒絶されたくはない。
蜜羽を抱きたいのか、葵を抱きたいのか。
蜜羽を抱くことで蜜羽の中の葵とは違う部分を見付けたいのか、葵と同じ部分を見付けたいのか。
求めているのかいないのか。
突き放したいのか、すがり付きたいのか、確かな答えもでないまま、久一は、感情に揺さぶられるまま蜜羽を押し倒していた。
離れたいという気持ちと誰にも渡したくないという気持ち、相反する二つの気持ちがせめぎ合い、久一を混乱させていた。
「いいからもう黙りやがれ!」
蜜羽の片足を肩に担ぎ上げたまま、袴の腰紐を解いて滑り落とし、小袖をはだけ、褌(ふんどし)を押し上げながら反り勃つ男根を引っ張り出した。
蜜羽の身体を横向きに起こし、高く上げた足を腕に抱え込んで支え、上げていない方の太ももを跨いで男根の先を後孔に当てた。
観念したのか、蜜羽は、両眼を堅く閉じ、眉間にシワを寄せて小娘のように肩を震わせている。
その姿に、遠い夏の日の葵が重なった。
『大丈夫……だから。きて……。久一』
長い睫毛を震わせ、赤く潤んだ瞳を細く流すようにして久一を見上げて囁いた、あの日の葵の消え入りそうな声と、華奢な肩から白い背中に流れた艶やかな黒髪が、今ふたたび久一の目の前にあった。
「葵……」
久一は、抱え込んだ太ももを胸元に引き寄せ、後孔の中に赤黒く脈打つ男根をゆっくりと捻じ込んだ。
「んァあぁあ……あああっ……んぁッ」
腰を前に迫り出しながら、張り詰めた男根を肉壁のヒダを掻き分けるように埋めて行く。
喘ぎ泣く蜜羽の後ろで、途切れ途切れに囁く吐息混じりの声が響いた。
『久一……好き……好きだよ、久一』
ーーー葵。
蜩(ひぐらし)の鳴き盛る声が耳の奥に広がる。
うっすらと目を細めた先に、高く結えた黒髪の束を揺らして歩く小袖袴の後ろ姿が浮かび上がる。
葵の、小さな背中とすんなりした腰を目蓋の裏に焼き付けながら、久一は自分の下で喘ぐ蜜羽の中にゆっくりと腰を沈めて行った。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
突如湧き起こった騒動は、一日にして城下を早馬のごとく駆け巡った。
亥の刻を告げる鐘が鳴って暫く後、町の灯も消え家中が寝静まる頃にありながら、水野家家老、平岩重昭の屋敷はにわかに騒めき立っていた。
「平岩様! どうかお目通り願います! 平岩様!」
墨を塗ったような闇空に、熱を孕んだ湿り気のある風が低く流れる。重苦しい空気を割り裂くように、久一の、鬼気迫る雄叫びが繰り返し響いていた。
何度目かの訴えでようやく門が開く。
案内された奥座敷に上がり平伏した顔を上げると、部屋の奥から、険しい顔つきの面々が久一を射るように見下ろした。
八畳ほどの広間に、家老職の平岩と、若年寄の小原、大御目付の木俣、そして、久一の父である、御目付の市田泰清が寄り合っている。
深刻な事態であることは、その場に漂う陰鬱な空気と、普段は柔らかく温厚な父、泰清の重苦しい顔色にも現れていた。
「久一! ここを何処と心得る!」
父、泰清は、平岩に息子である久一の無礼を詫びると、顔を上げたままの久一に厳しい視線を向けた。
普段とは違う父の姿に戸惑いながらも、久一は、気持ちを奮い立たせて平岩に向き直った。
「葵……瀧山葵について申し上げたきことがございます」
「瀧山……」
久一が蒼の名を口にした途端、平岩だけでなく、その場にいた誰もが息を潜めた。
「私は、葵……瀧山とは藩校で共に学んだ級友です。平岩様もご存知の通り、瀧山は、藩校を主席で卒業した秀才でございます。我が藩広しと言えど、あれほどの成績を修める者は瀧山以外にはおりません。勤勉で真面目な男なのでございます。書物が好きで、学問のことしか頭に無い、俗ごととは全く縁の無い純粋な男なのでございます。その瀧山が、よもや若様をたぶらかすなど到底信じられません!」
「だが、若様は瀧山に刃物で脅され情交を迫られたと申しておるのだ」
「何かの間違いにございます! 若様が、葵……瀧山を特別気にかけていたことは皆ご存知の筈。若様が瀧山に迫ったというならまだしも、瀧山が若様に迫るなどあるわけがございません。そのようなことが出来る男では無いのです。絶対に何かの間違いです!」
「それ以上申すな!」
ふいに、平岩の吐き散らすような怒号が轟き、久一はびくりと肩を竦めた。
平岩は、驚きのあまり息が止まったように硬直する久一に目をやると、眉間に深い縦皺をいくつも作り、丸薬でも噛み潰すような苦々しい顔で視線を逸らした。
「わしとて解っておるのだ。しかし瀧山が若様を傷付けたのは事実なのだ。たとえそれが自身の身を守るためであったとしても、若様を傷付けた罪は重い。瀧山はおかしてはならない大罪をおかしたのだ」
「ただのかすり傷ではないですか!」
「それでも傷は傷なのだ。なぁ、久一よ。我々は殿あっての我々なのだ。殿が黒と言えば白いものも黒になる。それに、殿は、瀧山を処刑せねば、瀧山家を身分剥奪、お家没収にすると申しておる。理不尽極まりない話だが、武士に取って身分剥奪は死罪同然。此度の瀧山の覚悟も、親族老頭が路頭に迷うのを憂いてのことであろう。死罪になるのは無念であろうが、これで瀧山の家は守られる。瀧山を友と慕うなら、お家を守りたいという瀧山の気持ちも汲んでやれ」
「気持ちを汲む……?」
一瞬、頭の中で何かが割れたような気がした。
久一は、言葉の意味が解らなかった。
気持ちを汲む、とはなんだ。
葵のどんな気持ちを汲むというのか。
お家を守るために死ぬことが葵の気持ちだというのか。
何を根拠に。
そもそも葵が何をした。
本を読むのが好きで、動物が好きで、砂糖菓子が好き。
いい加減なことや嘘が嫌いで、正しくないことには誰であろうと物怖じせず真っ向から向かって行く。
その葵が、謂れのない罪を着せられたまま死んで行くというのか。
お家を守るため、やってもいない罪を背負って死んで行く。それで葵が本望だとでも言うのだろうか。
ーーー馬鹿な。
納得できない思いが、久一の頭をがんじがらめに締め付ける。
そんなことが本望であるわけが無い。
葵とずっと一緒に学んできたからこそ久一には解る。
葵は、学びたいことが沢山あると言っていた。漢学だけでなく、蘭学や算学を学び、将来は藩のために尽力したいとも言っていた。
その夢を絶たれる悔しさや辛さはどこへ行くのか。
綺麗ごとで片付けてしまうわけにはいかない。
「冗談じゃない」
やり場の無い怒りが、口をついて出た。
瞬間、父、泰清に思い切り頬を張り倒され、久一は畳の上に無様に転がった。
泰清は今すぐにでも討ち捨てんばかりに激怒していたが、その唇は久一同様悔しさを噛み締め震えていた。
家老職の平岩を始め、若年寄の小原、大御目付の木俣誰も久一を咎めはしなかった。
「お前の気持ちはよう解る。わしらとて皆お前と同じ気持ちだ。だが、こればっかりはどうにも覆せん。せめて、お家だけはと己が運命を受け入れるあやつの姿を立派であると褒めてやらねばあやつが救われん……」
久一は、畳の上に倒れ込んだまま、平岩の言葉を聞いていた。
い草の匂いが鼻をつく。
ともに藩校に上がった同級生。すぐにお互いの屋敷を行き来するほど仲良くなり、久一は、机に向って読書に耽る葵の横顔を毎日のように傍で寝転がりながら眺めていた。
その時に嗅いだ畳の匂いと同じ匂いが鼻先に漂った。
もうあの横顔が見れなくなるのだろうか。
ふと、会えなくなる寂しさが唐突に久一を襲った。
葵がこの世からいなくなることが耐えられない。
せめてもう一度会いたい。
「葵に会わせて下さい」
弾かれたように飛び起き、久一は、平岩の正面に座り直し、畳の上に両手をついて額を畳に擦り付けて平伏した。
「葵の居場所を教えて下さい! お願いです。最後に、葵と話しをさせて下さい!」
長い沈黙の後、平岩は、暗い海に押し寄せる波のように深い溜め息を吐いた。
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