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2.契約Ⅴ
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気が付いたのは、眩しい朝の日差しの中だった。
「ん……。ここは……」
憂炎はゆっくりと上体を起こし、ぼんやりとした頭で周囲の状況を確認する。
見覚えのある本棚と、見覚えのある薬棚。端に立てかけられた足の短い机に、身体の上に掛かった古い布団。そして炊事場から流れてくる、暖かくて優しい香り。間違いなく、そこは雲嵐の家の中だった。
「俺は……。昨日……?」
混濁した記憶が徐々にはっきりと形を持つ。確か昨日は雲嵐の頼みで瑤草を探しに行き、ようやく見つけたはいいもののそこで大けがを負ったのだ。
全身打撲に右腕骨折、肋骨損傷。決して軽くはない怪我を負いながら、それでもなんとか帰ってきたらしい。
「あれ、そういえば痛くないな……」
思い出したように、憂炎は自分の身体の状態を確認する。昨日は僅かに上体を動かしただけでも激痛が身体を走ったのに、今身体を起こした時は、痛みなど一切感じなかった。
右腕を動かしてみると、自分の意思通りに腕が持ち上がり、前腕はしっかりと右手を支えている。
「ああ、気が付いたの」
憂炎が右手を見つめて開いたり閉じたりしていると、雲嵐が炊事場から湯気の立つ椀を持ってやってきた。
「雲嵐……。お前が助けてくれたのか?」
「……昨日の夜、君が家の前に倒れてたから。怪我もひどかったし、採ってきてもらった瑤草を使わせて貰った。起き上がれてるところを見ると、もう大丈夫みたいだね」
言いつつ雲嵐は憂炎に椀を差し出す。憂炎がそれを受け取ると、彼はこちらに背中を向けて腰を下ろした。
「……まぁ、食べなよ。よければだけど」
背中の向こうから、ふてくされたような声がした。声にいつもの皮肉っぽさもなく、どこか元気がないように聞こえる。
どうしたのだろうと思いつつ、憂炎は椀の中身を見下ろした。鳥と山芋と枸杞が入った白い粥。優しい香りに腹がきゅうと音を立て、昨日の昼から何も食べていないことを思い出す。
「いただきます」
丁寧に手を合わせ、一匙すくって口に入れた。途端に鳥のうまみと米の甘さが口に広がり、思わず「おいしい」と呟いた。そういえば、雲嵐が作った料理を食べるのは、ここへ来て初めてかもしれない。
「そう、よかった」
「お前、料理できたんだな」
「当然でしょ。じゃなきゃ君に料理のしかたなんて教えられない」
「作れたんだったら始めからお前が作ってくれればよかったのに。そうすれば俺の不味い料理を喰わずに済んだだろう」
「やだよ。そんな事してたら、君のやる仕事が一つ減っちゃうし」
雲嵐は相変わらずこちらに顔を向けないまま、ぼそぼそと話し続けている。そんな彼に、憂炎は粥を食べつつ首を傾げた。
「何故こちらに顔を向けないんだ?」
「……瑤草の効果で僕に惚れられちゃ困るし」
「量が少なければそっちの効果は出ないのだろう?」
「……」
どうやら理由は他のところにあるらしいが、口にはしたくないようだ。なので憂炎はそれ以上追求しない事を決め、大人しく黙って粥を食べ進めた。
しばらく沈黙の時間が続き、その間に椀の中の粥はあっという間に減っていった。
「ごちそうさま」
憂炎はからんと軽い音を立てて木の匙を椀の上に置き、雲嵐の隣に差し出した。
「うまかった」
「そう」
置いておいてと雲嵐に促され、憂炎は椀を彼の隣に置く。そして再び沈黙の時間が訪れた。
一体これはどうしたことか。
憂炎はどうすれば良いかも分からず困惑する。
彼と過ごして来てから今日までで、こんな気まずい沈黙が訪れたことはなかったのだ。
思えば昨夜の記憶はどこか朧気なところがあるし、その時にこの空気の原因となるような事をしでかしてしまったのかもしれない。しかしこの口がよく回る霊獣がこんな風になるなんて、一体なにをやらかしたのだろうか。
憂炎があれこれ想像していると、雲嵐が不意にぽつりと呟いた。
「憂炎は、何で魄が欲しいの」
「ん? 最初に言っただろ? 魄がいないからと宮廷では随分馬鹿にされてたんだ」
「他に、理由があるでしょ? じゃないとここまで身体を張って僕を求めたりしない筈だ」
「……ばれたか。ちなみに、あまり言いたくないと言ったら?」
「そしたら、僕は絶対に君の魄にはならない」
雲嵐の返答に、憂炎は困ったように微笑んだ。正直恥ずかしくて絶対に言わないつもりでいたが、ここまで言われてしまったら仕方がないというものだ。
「知りたかったんだ。自分にとっての唯一というものを」
「唯一……」
「そう。そして、俺にもそれが欲しかった」
父に、兄の。自分以外のこの世のすべての人間には、己の魂の片割れが常に隣に寄り添い、そして互いが互いを信頼し合ってかけがえのない存在として扱う。
その、親友でも、恋人でも、家族でもない、人間同士の間では決して生まれることのない絆を持つ彼らが、憂炎にはうらやましかったのだ。
周りで魄を連れた人間を見る度に、彼らの互いを見る眼差しの熱を知る度に、もし自分にも唯一と思える相手がいればと思ってしまう。
世界中の誰もが知っているその感覚を、自分だけ知らないのが悔しかった。
「互いを信頼し合えるような関係が、自分が唯一と思える相手が欲しかった。だから擬似的にでも、魄を作りたかったんだ。こんなこと、二十を越えた男が言うことじゃないけどな」
「……それで、僕を選んだの?」
ぼつりと呟く雲嵐に、憂炎は「いや」と頭を掻いた。
「正直に言えば相手はどんな精霊でもよかったんだ。だってそうそう精霊など見つけられないのだから。たまたま噂を聞いてここに来たら、お前がいた。初めはそれだけだったんだ」
「……」
「だけど今は、お前がいいと思ってる。一緒に過ごした日々は……まぁなんだかんだ楽しかったし。お前となら、これからも楽しく過ごせそうな気がするしな」
雲嵐の背中に笑いかけると、彼の肩がぴくりと動く。しかしまだ、こちらを向く気配はない。
「……精霊と契約する術を持ってるのに、欲しいのが唯一だなんて。そういうのを知ってる人は、大抵複数の精霊と契約しようとする筈だよ」
どこか拗ねたような口調で雲嵐は言った。不機嫌の理由が、憂炎には全く分からない。
「別に俺は精霊を従えたい訳じゃないからな」
「そう……」
再び沈黙。しかし今度はすぐに雲嵐が震える声で言葉を発した。
「君は……僕のことを知って嫌いにならない? 気持ち悪いと思わない? なんでこの世に存在しているんだって思わない?」
「……何を言ってるんだ?」
確かに雲嵐は口が悪いし、性格も良いとは言い切れない。しかしだからといって、この世に存在するなとまで思う程、自分の性格は曲がってはいない筈。
「違う。そういうことじゃない」
「なら、どういうことなんだ?」
憂炎が問うと、雲嵐はすっと天井を見上げた。その肩は僅かに震えている。
「僕は……」
そこで一拍。そして、雲嵐は信じられない事を口にする。
「僕は、魄だったんだ。龍黎国を建国し、初代皇帝となった鴻帝の」
「……え」
憂炎は耳を疑った。
「魄だった……? しかも鴻帝の……?」
鴻帝には、魄がいなかったと伝えられている。しかも、仮に彼の魄だったとして、通常魄はその人間が死ぬ時に一緒に消滅する筈だ。しかし雲嵐は静かに首を横に振る。
「僕は確かに鴻の魄だった。だって鴻が赤ん坊の時から一緒にいたんだよ。歴史上に僕の名前がないのは、きっと鴻が皇帝になってから僕を表に出さなかったからだ」
「表に出さなかった……? まさか、軟禁されて……?」
その言葉に雲嵐は「違うよ」と鋭く指摘する。
「きっと何か意味があったんだ。でもその頃から鴻は他の精霊を配下にする術を知りたがって……。僕がそれを教えたら、鴻は僕を隠したまま、たくさんの精霊達を支配下に置いたんだ。あとは君が知ってる通り」
「お前が教えたって……」
つまり自分が再現した鴻帝の術の根本は、目の前の霊獣だったと言うわけだ。そして憂炎は、その相手に向かって術を使おうとしているということ。
しかしそれを気にするよりも、先に問わねばならない事がある。
「鴻帝は何百年も前に生きた人物だぞ。その魄だったら何故……」
「ほら、やっぱり言った……」
「いや、そういうことではなく……」
ただ純粋に、人が死ぬと魄も消えるという世界の理から外れた理由が気になるだけだと。そう言って憂炎は不機嫌そうな雲嵐をなだめる。
彼は鼻を啜りつつ、何度も「分からなかった」といって首を振った。
「分からなかったんだよ。何もかも。鴻が倒れて、僕は鴻を治すためにありとあらゆる薬を作って……。だけど結局鴻は死んじゃって。彼の命が絶えた瞬間に、僕の身体も消えると思ってたんだけど、いつまで経っても消えなくて」
宮廷にいるとよくないだろうと、ひとまず都を出て南へ向かった。そうしてこの場所にやってきて、いつの間にか長い時が過ぎてしまったのだと雲嵐は語った。
「もしかしたら鴻が生き返るから自分も生きてるのかもと思っていろんな薬を作ったり、いろんな術を使ったりしてみたけど全然駄目。そうこうしているうちに、君がここにやってきたんだ。それでようやく、鴻を生き返らせるなんてできないんだって分かった」
「……」
憂炎が何も言わずに黙っていると、雲嵐が「ねぇ」と声を上げた。
「こんな僕なのに、君はまだ僕を魄にしたいと思うの? 僕の唯一はもう鴻にあげちゃってるのに、それでも君は僕を唯一にしたいと思うの?」
それはか細く、今にも泣き出しそうな声。言葉では憂炎を退けようとしているようだが、その奥に秘められた思いは救いを求める叫びにも似ている。
「雲嵐……。俺は……」
唯一の相手が欲しかった。自分が唯一と感じることができ、その相手がいる事がどういうことかを自分に教えてくれるその相手が。それはある意味一方的な感情で、必ずしも雲嵐から唯一を貰わなくても成り立つ関係だと思う。
それに雲嵐が唯一を捧げた鴻帝は、既にこの世に存在しない。いくら雲嵐が彼を思っても、契約すれば生きて隣にいるのは自分なのだ。そうなればきっと、雲嵐も自分の事を見てくれるだろう。
ならば。
「雲嵐の本当の唯一が鴻帝でもいい。共にいる間だけ俺を見てくれるならそれで十分だ」
憂炎はそっと雲嵐の細い肩に触れる。そして「こちらを向いて」と声をかけた。
促された雲嵐は、大人しく憂炎の方を振り返る。
不覚にも、目元を赤く染めて白い肌に涙を滑らせる彼の姿が可愛らしいと思ってしまった。
「なあ雲嵐。だから、俺の魄になってくれ。俺は、お前がいいんだ」
懐に入れて肌身離さず持ち運んでいた巾着から指輪を取り出し、憂炎はふわりと微笑んだ。
雲嵐は僅かに目を見開く。そして更なる涙をためながら、答えの代わりに左手を差し出した。
「言わない、とは……。何というか、お前らしいな」
苦笑いをしながら、白く細長い薬指に指輪を通す。術を発動するための呪文を唱えると、雲嵐につけた指輪と自分がはめている指輪が同時に白い光を放った。
やがて光は収束し、憂炎は自分の薬指にはめた指輪を眺めた。それはほんのりと熱を持ち、雲嵐との絆が結ばれたことを感じさせる。
「これで契約成立、だな」
「……うん」
小さく、しかし満足そうに指輪を見つめながら頷く雲嵐。そんな彼がやはり可愛らしくて、憂炎は雲嵐の背中に手を回し、細い身体を抱きしめた。
「憂炎……!? やっぱり昨日変なところを打って……!?」
驚き慌てるような雲嵐の声に、くすくすと笑う。そして腕の中の温もりを感じながら、憂炎は言った。
「改めて、これからよろしく。雲嵐」
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