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強すぎる性欲は悲劇しか生まない
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会社の終業時間はとうに過ぎ、夜空を背景にした窓ガラスは疲れた自分の顔をくっきりと映していた。年齢を重ねるごとに若さを失った肌が、これから迎えようとする年度末の繁忙期に立ち向かえるのかと詰問してくる。
そんな自分自身の問いかけから逃げるように顔を背けると、今度は真正面にある鏡の中の自分と目が合った。疲労の色をはっきりと浮かべた顔がより一層悲壮感を増していて、どうにもいたたまれない。俺は安物のハンカチで濡れた手を拭うと、少し早歩きで男性用トイレを後にした。
誰もいないフロアは、水を張ったように静まり返っている。必要以上に大きな上司の声も、やけに耳につく電話の音も、狭い通路を忙しなく行き交う足音もしない。
いち早く繁忙期の予兆を見せ始めた二月の中旬。社内で残業しているのは俺―――弓削 大地だけだった。課内の予定を書き込んだホワイトボードには、出張や直帰という殴り書きが所せましと記入されている。
パソコンの時間表示に目をやると、ちょうど二十一時を示していた。もうこんな時間かと思い背筋を伸ばすと、緊張の糸が切れたように集中力が消えていく。
あと三時間で今日が終わる。至極当たり前のことを思いながら、俺は静かに溜め息を吐いた。繁忙期であっても閑散期であっても、サラリーマンの一日はあっさりと終わっていく。それがどんなに特別な日だったとしても。
たとえ今日が、俺の三十四歳の誕生日だったとしても。
「・・・帰るか」
のろのろとカーソルを移動させ、シャットダウンの文字をクリックする。命令を受け入れたパソコンは「弓削 大地さん、お疲れさまでした」というテンプレートの挨拶を浮かび上がらせたのち、すぐに光沢を抑えた黒い画面へと切り替わった。
首からぶら下げた社員証を鞄にしまい、コートを羽織るだけの簡素な身支度を整える。電気のスイッチをオフにしてフロアの扉を施錠すれば、忘れていた空腹感がここぞとばかりに襲ってきた。
エレベーターで一階まで下り、時間外専用出口であるビルの裏口へ向かう。寡黙な警備員に軽く会釈をすると、俺は手動の扉を押して退館した。少しでも寒さをしのげるようにコートの襟を立て、小さな植え込みに沿って歩きながら駅に向かう。
大都心に鎮座する駅周辺は煌びやかで、高層ビルが互いに牽制し合うように乱立している。だが、駅から徒歩二十分という微妙な立地では、寂れた低層ビルが遠慮しながらもひしめき合うように並んでいた。
俺の会社が入っているビルは、残念ながら後者の方だ。駅周辺を囲む表現力豊かなオフィスビルとは違う、無個性さながらの地味なビル。ここから早歩きで歩いたとしても、駅に着くのは二十一時半過ぎになるだろう。
平凡な人生を送る俺にぴったりだな。俺は微かに自嘲すると、緩慢な動作でコートのポケットに手を突っ込んだ。
昨年の昇進のおかげで主任という肩書きは増えたが、境遇と給料はほとんど変わらない。変わったのは、役職を持たない後輩のミスのため頭を下げる機会が増えたことくらいだ。
「せめて、もう少し手取りが増えればな・・・」
アスファルトを叩く革靴の音が、人影もまばらな帰り道に小さく響く。この辺りは車通りも少ないため、余計に寒々しく感じる。財布の中まで寂しいことは考えないようにした。
やがて小さな植え込みがガードレールに変わり、街路樹が途切れて細い電柱が連なり始める。ここは会社と駅のちょうど中間地点で、少し物悲しい雰囲気に包まれている。
他にも家路を急ぐサラリーマンがいて、誰とも目を合わさずに歩いていた。電柱に貼られた怪しげな紙も、どこからか飛ばされてきたビニール袋も気にするそぶりはない。ダンボールを机の代わりにして「一回 五百円」という簡素な看板を掲げた占い師の老婆も見慣れたものだ。
いつもと変わらない。さして特徴もないサラリーマンの誕生日など、誰にも気づかれないまま過ぎ去っていく。別に気にすることでもないし、いちいち傷ついたりすることもない。
無感情のまま歩いていると、もう少しであの怪しげな老婆の前を通ることに気がついた。思わず鞄を握る指先に力が入る。
夜遅くになると現れる高齢の占い師はいつもジロジロと通行人を物色していて、いいカモだと判断するやいなや無遠慮に声をかけてくる。相手は誰でもいいらしく、手当たり次第に声をかけている姿も見たことがある。
俺が初めて声をかけられたときは、無下にするのも失礼かと思って断るジェスチャーをしたが、舌打ちとともに悪態をつかれただけだったので、それ以降は完全無視を決め込んでいる。
「・・・ん?」
だが、今夜はいつもと違っていた。老婆の前にスーツ姿の男が立っていて、何かを話しているように見える。
あの老婆の相手をするなんて、とんだお人好しがいたものだ。もしくは無理やり引き留められて、ぼったくりにでも遭っているのだろうか。
勝手な想像が浮かんだが、変に首を突っ込んで俺まで巻き込まれることは避けたい。結局俺は歩くスピードを緩めないまま、男の背後を通り過ぎようとした。
だが、単純な好奇心が顔を出す。こんな繁忙期の夜にわざわざ五百円も出して怪しい占いに興じるなんて、一体どんな物好きなんだ。
疲れた頭でさほど深く考えもせず、俺は男を盗み見ることにした。こちらを向くそぶりは感じられないし、少しだけ顔を拝んでみるか。そんな軽い気持ちで視線を投げる。
「・・・っ」
だが、少しだけという意思はすぐに崩れ去った。あまりの衝撃に思わず息を呑む。俺の目は、彼に文字通り釘づけとなった。
なんて―――、なんて綺麗な人なんだ。
綺麗に整えられた髪、ノンフレームの眼鏡、その奥にある鋭い目つき。端正な横顔に、高級そうなストールを首から下げた迫力のあるスーツ姿。装飾品まではよく見えないが、安月給のサラリーマンでないことは一目でわかる。
何でこんな人が、あんな老婆と話しているんだ?
その美しさに見惚れて呆然としてしまった思考回路を引き戻せば、今度は俺の頭が疑問符で埋め尽くされた。何となく自分と同じくたびれたサラリーマンを想像していたのに、間近で見ると全く違う。
「っ・・・」
思ったより長く見つめてしまったことに気づき慌てて目を逸らすと、俺は足早にその場を通り過ぎた。
早鐘を打つ心臓をスーツの上から押さえる。一瞬でも、ぼったくりに遭っているのではないかと心配した自分が馬鹿だった。彼は、俺のような他人に気の毒だと同情されるような弱い存在ではなかった。
「・・・はっ・・・」
それより心配なのは自分の鼓動だった。いまだに高鳴る胸を落ち着けようとするが、ほんの少し盗み見ただけの彼の姿が目に焼きついて離れない。火照る頬に冷たい手の甲を当てて冷静さを取り戻そうとするが、彼の残像がそれを許さない。
少しのミスも見逃さないような、神経質な性格を思わせる目。美形だが、どこか気難しそうな雰囲気。スーツの上からでもわかる、健康的に鍛えられた体。
「・・・っ」
ああ、なんて綺麗で、なんて可愛い人なんだ。彼のことが知りたい。彼と話してみたい。彼を―――抱いてみたい。
「う・・・」
頭がぼうっとする。想像の中で彼が裸体になっていく。興奮で息が荒くなる。体中の熱が下半身へと集まっていく。
三十四歳の夜。何の変哲もなかった帰り道。俺は、久しぶりに感じた獣のような強い性衝動に、かつて付き合っていた昔の男を思い出していた。
自分がゲイであると自覚したのは、当時同じクラスだった友人がきっかけだった。昼休みの終わり際に、同性同士のいかがわしい雑誌を手に入れたから一緒に鑑賞してみないかと持ち掛けられたのだ。
高校生という一番多感な時期だったこともあり、俺は二つ返事で承諾した。放課後のチャイムが鳴ると同時に下駄箱まで走り、そのまま友人宅に上がり込んだ。
部屋のドアの前にCDを積み上げて簡単なバリケードを作り、友人が例の雑誌をベッドの下から引っ張り出してくる。俺たちは互いにアイコンタクトを取ると、恐る恐るページを開いた。
覚悟していたはずなのに、初めて男だけの世界に足を踏み入れた俺たちはその迫力に圧倒された。ありふれた男女のアダルト雑誌の延長かと思っていたのに、目の前で繰り広げられた性の世界は全くの別物だった。
シチュエーションごとに役を割り振られ、モデルがコスプレまがいの衣装で淫行に耽っている。それは変わらないのに、男が男の性を受け止めている光景には妙な生々しさがあった。
すげえな、という独り言が耳を掠める。視線は雑誌から離さないまま、そうだなと相槌を打つ。ごくりと唾を飲み込んだが、その音が友人に聞こえてしまうと思うくらい部屋の中は静まり返っていた。
ふと、スムーズにページをめくっていた友人の指が止まる。彼の様子を窺うと、発情した顔で雑誌を見つめていた。視線の先を追うと、ネクタイを外してシャツをはだけさせたスーツ姿の男たちが舌を絡め合っている。派手な色の安っぽいテロップによると、これは部長による新入社員への夜の教育指導らしい。
お前、こういうシチュエーションが好きなの?
そう囁きながら友人を肘で小突く。俺にからかわれて怒るかと思ったが、彼は全く違うことを考えていたらしい。友人は小さく舌なめずりをすると、雑誌の中の男優を指先でなぞりながら的外れなことを呟いた。
―――この人、ちょっと弓削に似てるよな。お前のエロシーンを見てるみたいで、すげえ興奮するよ。
予想していなかった友人の発言に、俺の体は固まった。
誰が誰に似てるって? 誰が誰で興奮するって?
視線だけで疑問をぶつけると、友人は部長役の若い男を指差した。そして、この人が弓削に似てるって言ったんだよと続ける。
俺は自分の耳を疑ったが、友人は冗談を言っているようには見えなかった。無意識にマジかよと呟くと、冗談で勃つわけねえだろと返される。彼の言葉通り、友人の体はわかりやすく欲情していた。
彼の考えていることがわからず、俺はただ黙っていた。こういう時、俺はどうすればいいんだ。友人として笑い飛ばし、この怪しげな雰囲気を無かったことにするべきなのか。それとも雑誌の中の男のように、向けられた欲を受け入れるべきなのか。
―――なんだ、弓削も勃ってんじゃん。それなら抜き合いしようぜ。ほら、お前も早く脱げよ。
気づけば、制服を着崩した友人が目の前に膝立ちしていた。答えを絞り出そうとしていた俺の努力を無下にするかのように薄く笑っている。
彼の言葉に導かれて視線を落とすと、人のことを言えないくらい自身が張りつめていた。どこかぼんやりとしながらも、欲情するというのはこういうことかと妙に納得する。ファスナーにかかる友人の白い指をみて、こいつの手は意外と綺麗なんだなと思った。
その日、俺たちは男優が絡み合うページを開いたまま互いの欲望を発散させた。好きだとか付き合うだとか、そういう甘い関係とは無縁の抜き合いだ。俺と友人は互いの低い喘ぎ声にすら発情して、ひたすら男の体に没頭していた。
限界を知らない性欲は止まらず、少しの休憩を挟んではまた淫靡な雰囲気に呑まれていく。友人は攻めるより攻められる方が好きらしく、いつの間にか受け身になった彼を俺が組み敷く体勢が多くなっていた。
―――弓削の体、マジで俺のタイプだわ。なあ、お前ってタチとネコどっちなんだよ?
聞き慣れない言葉に反応が遅くなる。友人は俺の戸惑いを察したのか、息を整えながら再び口を開いた。
―――弓削は、男に入れたい? それとも入れられたい?
急にそんなことを言われても困る。俺の正直な気持ちはこの一言に尽きた。友人は自分の性癖を知ったうえで今日のような不埒な遊戯に臨んでいるのだろうが、俺は初めて男の体に欲情することを知ったばかりだ。
友人が急かすように俺の体を蹴ってきたが、答えはいつまで経っても出てこない。すると黙りこくる俺に痺れを切らし、友人が乱暴にあの雑誌を手渡してきた。
―――この中から好みの男を探してみろよ。そうすれば答えがわかるだろ。
彼の狙いはよくわからなかったが、とりあえず雑誌を受け取りパラパラとページをめくる。友人はもう俺がゲイであると確信していたようだ。自分の体にかけられた濡れた欲望をすくいながら、タチだといいなあと笑っている。
好みの男って言われてもなあ。俺は裸体の男たちを眺めながら呟いた。正直どのモデルも魅力的であり、どんなシチュエーションでも興奮できる。逆に言えば、どれも同じだった。
だが、のんびりとページをめくっていた俺の指は、ある男を見たときにピタリと止まった。散々抜き合いをしてもう尽き果てたと思っていたのに、俺の欲望はまた硬く勃ち上がってくる。すると、いち早く俺の異変に気づいた友人が嬉しそうに声をかけてきた。
―――お、決まったかよ。
俺の視界を遮り、友人が興味津々で雑誌を覗き込んでくる。だが、どこか楽しげだった彼の表情は拗ねるようなものに変わった。俺を怪訝な顔で見上げ、不服そうに文句をぶつけてくる。
―――何だよ、さっきと同じページじゃねえか。適当に決めるなよ。
彼の言う通り、俺が目を留めたのは新入社員の夜の教育指導をうたったページだった。部長役の男が俺に似ていると言って友人が恥じらいもなく発情した、曰く付きのページだ。
つらつらと文句を言ってくる彼に構わず、俺はある男優を指差した。先ほどは部長役と新入社員役の男しか見ていなかったが、どうやらこの企画は上層部に犯されるというものらしい。
俺の指先が触れたのは、社長役の男だった。男優たちの年齢はさほど変わらないようで、衣装や小道具を除いてしまえばどの役の男も二十代前半くらいにしか見えない。だが、目に留まった男の姿は俺の性癖に深く突き刺さった。
―――弓削のタイプって、これ?
俺の意図を汲んで顔を寄せてきた友人が聞いてくる。窺うような彼の視線に、俺は頷くことだけで答える。
―――こんな冷たそうなタチが好きってことは、お前ネコかよ。あーあ、残念。
勝手に自己完結して雑誌を閉じようとする友人を引き留める。何だよ、と視線だけで反論されたので、俺は自身に指を絡めながら息を吐いた。突然自慰を始めた俺を、友人が少し驚いた表情で見つめる。
違う。俺、この男に突っ込みたい。このプライド高そうなエリートに乱暴に突っ込んで、ぐずぐずになるまで犯してみたい。俺は初めて抱いた衝動的な欲望を告白した。
友人は一瞬呆然としていたが、すぐに俺の言葉の意味を理解した。そして自身をしごく俺の指を外し、代わりに自分の指を絡める。
―――弓削。お前はとんだ物好きだな。まさかタチを食いたいって言い出すとは思わなかった。最高だよ、弓削。期待以上にエロくて、最高だ。
友人は俺の出した答えが気に入ったのか、濡れた指で愛撫を続けている。そして、小さく息を吐いてから喘ぐように呟いた。
―――いつか、お前のコレを俺に入れてくれよ。俺はお前がタイプなんだからさ。
彼が複雑な表情で笑う。常々何を考えているのかよくわからない友人が珍しく見せた、感情的な一面だと思った。
それから俺たちはまた体を重ねた。セックスとは言えない、ただ性を吐き出すだけの未熟な行為。簡素なバリケードで封鎖された小さい部屋で、会話もないままひたすら互いの体に夢中になった。
結局その日は抜き合いだけで終わったのだが、俺たちは時間と場所を見つけては秘密の触れ合いに耽るようになった。やがて俺は友人の想いに気づいたが、このまま名もない関係が続くことを望んだ。
男への性欲を自覚してから、俺は全く違う目で同性を見るようになった。しかし、友人以外の同性愛者を見つけることはできなかった。ゲイだとわかってから都合よく新しい相手が見つかるとは思っていなかったが、それにしても出会いがなさすぎる。
俺の焦りは、結局友人を傷つけることになった。高校の卒業式、友人が俺に想いを寄せていることだけを理由にして、彼と付き合い始めたのだ。その当日にセックスも済ませ、俺は男の体を手近に置いておけることに安堵していた。
友人が好きかと聞かれれば、好きだと即答できた。だが、彼が好きなのか彼の体が好きなのかは自分でもよくわからなかった。そんな俺の気持ちを黙認することに疲れたのだろう、俺たちの関係は一年足らずで終わった。幕を下ろしたのは、友人の方だった。
抜き合いから始まった友人との関係は、本当にあっけなく終わりを告げた。彼を失うとわかってから、俺は自分がどれだけ酷い仕打ちをしてきたかを思い知った。友人はそんな俺を見て悲しそうに笑いながら、俺のすべてを許していた。
―――弓削、お前だけが悪いんじゃないよ。俺だって、ずるい方法でお前を手に入れようとした。その罰が当たったんだよ。
友人の優しさに触れ、俺は初めて彼を一人の人間として愛しく思った。けれど俺たちの決意は変わらない。もう終わりだ。これでお別れなのだ。悲しくも、俺たちの意思が一致した瞬間だった。
一人になった俺は、人肌恋しくなるたびに彼を傷つけた原因を考えた。自分の未熟な立ち振る舞い、性欲だけを優先した幼稚さ。いくつもの理由が俺を責めたが、それでも初めて友人の部屋で淫行に没頭した日のことは忘れられなかった。
そうか。俺は異性に対する恋心よりも早く、異性に対する性欲を覚えてしまったのか。俺はようやく友人が言っていた「ずるい方法」がどういうものなのかを知ったが、もはや手遅れだった。
だが、もう相手を傷つけるような恋愛はしたくない。体だけを求めるような過ちは犯したくない。俺は苦しみながらも、暴力にも似た性欲を封印しようと決めた。友人を追い詰めてしまった罪悪感は、俺の欲望を律するのに十分すぎるほどだった。
環境が変わるたびに訪れる新しい出会いは、何度か恋愛関係へと発展していった。歴代の恋人たちはみな俺より華奢で可愛らしく、正直俺の好みではなかった。だが、健気に俺を慕ってくれる彼らに精一杯の愛情を注いで大切にした。
しかし、努力して築いた関係もいつしか終わりを迎える。俺はいつも別れを告げられる立場で、誰と付き合っても一年以上は続かなかった。それでも、去っていく恋人が泣いていないことがせめてもの救いだった。
大丈夫だ。俺は上手くやれている。俺はもう不用意に人を傷つけたりはしない。そのためなら自分の性的嗜好なんてどうでもいい。理性に従う恋愛だけが、俺を俺たらしめてくれるのだから。
「・・・・・・」
そう思っていたはずなのに、と溜め息を吐く。三十四歳になった俺の背中を冷たい風が追いかけてくるが、熱をもった体は冷めることを知らない。俺はいまだ火照る頬を手で冷やしながら、数年ぶりに感じた強い性欲をたしなめて目を伏せた。
先ほどの男の姿を思い出す。禁欲的なノンフレームの眼鏡に、サラリーマンにしては鋭すぎる目つき。清潔感と高級感の漂うスーツと、それを見事に着こなした男らしい体。
好みだ。今まで見てきた誰よりも俺のタイプだ。外見だけで判断するなんて情けないと思いながらも、彼を思い出すだけで体の芯が熱くなる。
けれど、この熱は危険だ。この衝動的な欲は、友人と互いの体を貪りあったときの激情に似ている。男の体だけを貪欲に欲しがる、常軌を逸した性欲に似ている。
溺れてはいけない。彼にこんな欲望を抱いてはいけない。深く息を吐き、まだ早い鼓動を落ち着かせようと足を止める。俺は自分の性衝動を抑えることに必死だった。
―――だから。俺は、自分を追いかけてくる存在がいることに気づかなかった。
「失礼。少しお時間よろしいでしょうか?」
「え?」
突然かけられた声に体がビクリと反応する。
誰だ? 誰が誰に話しかけている?
疑問を抱えたまま条件反射で振り返る。すると、先ほどまで占い師の老婆と話していた男が堂々と俺を見据えていた。
「・・・っ」
声が出ない。体が動かない。一瞬にして心を奪っていった相手が突然目の前に現れ、俺は呼吸することも忘れて呆然とした。それなのに、鼓動だけは激しく興奮し体内を叩き始める。
何故、どうして彼が俺の前にいるんだ。混乱した頭は何も考えられず、驚いた体は一ミリも動かない。俺は彼から視線を外すことすらできず、ただその場で立ち竦んでいた。
無言で彼を凝視する俺に、彼は敵意はないとでもいうように軽く微笑んだ。単純に自分は怪しい者ではないと釈明しているようだ。
「突然すみません。どうしても貴方と話したくて、つい声をかけてしまいました」
驚かせてしまい申し訳ない、と彼が頭を下げる。綺麗な髪がさらりと額にかかり、俺は魅せられたように彼を見つめた。
俺と話したい? 初めて会ったこの男が? 何も言葉にはならず、疑問は俺の体を縛り拘束していく。
目の前の男は流れるような動作で眼鏡のブリッジに触れると、俺の反応を窺うようにじっと見つめてきた。その微妙な表情に、ずっと押し殺していた征服欲が顔をもたげてくる。絶好の獲物を見つけ、全身の細胞が歓喜に震えている。
「・・・っ」
駄目だ、抑えろ。欲望を捨てろ。衝動をこらえようと息を吐くが、興奮しきった本能はひたすら彼を求めてしまう。
だが、彼は俺の態度を不審がることもなく冷静に俺を観察していた。俺が慎重に相手を見極めていると思っているようだ。
「・・・実は、先ほど先見の明があるご婦人と話す機会がありまして。そこで、貴方のことを伺ったのです」
顔が、体が熱い。それでも彼の柔らかい口調だけは耳に届く。
「そのご婦人に伺ったのです。貴方が、私の運命の人であると」
すぐに彼の言葉を理解することはできなかった。見かけただけの男に見惚れ、わき目もふらず欲情してしまった背徳感は俺の正常な思考力を奪っていた。
だが、綺麗な低音を奏でる彼の睦言は俺に届いた。
彼は形のいい唇で俺に告げた。
俺が、彼の運命の人なのだと。
「・・・っ」
頭が熱に浮かされてくらくらする。理性と性欲がせめぎ合い、俺の正気を失わせていく。
いつもの帰り道。何の変哲もない平日の夜。突然訪れた出会いに眩暈すら覚えて目を細めると、狭くなった視界の中で強烈な色気を放つ男らしい彼が、少しだけ笑った気がした。
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