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少年
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山の中腹に、洞穴があった。
それはもう長い事、ここでずっと一人、寝たり起きたり、時折食べたりしていた。
話し相手もなく、最後に自分以外の人の声を聞いたのは、もういつだったのかわからなかった。
自分が生きているのかどうかも。
なぜまだ自分が死なないのかも、わからないままだった。
そこへ、人の声が聞こえた気がした。
気のせいだろうと思った。
あまりに人恋しくて、居もしない人の声が聞こえることは、良くある事だった。
「アリやモグラ、羽虫や鳥のように、地中や空から急に現れる魔物を除けば、そうですね」
落ち着いた、男性の声。
「カワウソみたいなのが、川づたいに下りてきた事もあったな」
その声よりも、明るく優しげな男性の声。
「……あの時は、主人様が冷静さを欠いていて大変でした」
「その話はもういいよ……」
小さく笑うような声。
聞き取りづらいが、会話の合間に低い声の男性が何度か相槌を打っている。
和やかな雰囲気に惹かれて、ふらふらとそちらへ近付くと、そのうちの一人が気付いた。
途端、三人は武器を構えると、神経を研ぎ澄ます。
こちらを探ろうとする気配に、なぜか酷く裏切られたような気がして、心からどろりと闇が溢れ落ちた。
地に落ちたそれは滲んで広がり、付近にいた動物へ取り憑くように染み込むと、動物は魔物へと姿を変える。
一体、また一体と森の中へ魔物の巨体が立ち上がる。
「おい……何体出て来るんだ……?」
カースの声が掠れている。
「最初の気配は、魔物のものではありませんでしたが……」
ロッソにもじわりと冷や汗が滲んでいた。
「あれを見て!」
リンデルの指した先には、草陰から顔を出した野兎が、足元からどろりとした闇に囚われもがいていた。
それが完全に闇に包まれると、ボコボコと歪にその体が盛り上がる。
ただの野兎が見る間に凶暴な体躯へと変貌し、異様な気配を放ち出すまでを、三人は呆然と眺めた。
「話には聞いたが……聞くと見るんじゃ違うな……」
カースの言葉に、ロッソも
「この近くに、その者がいると言う事ですか……」
と気配を探る。
「さっきの気配がそうじゃないかな」
リンデルがさらりと答えてから、その声に後悔を滲ませる。
「……多分、俺達が怖がらせてしまったんだ」
魔物はまだ周囲のあちこちから、一体、また一体とその巨体を覗かせている。
兎、鳥、アリ……とその種類は様々だ。
波紋が広がるように発生する魔物達の姿は、その発生源がこの辺りだった事を窺わせた。
間近で魔物化した兎の魔物が飛びかかってくるのを、リンデルが一瞬眉を寄せて斬り伏せる。
魔物と化す前の姿を見てしまったからだろうか。
「それよりこいつらどうすんだよ。全部倒せるのか?」
カースの低く呻くような声に、リンデルは答える。
「さっきの気配を追う。ただし、怖がらせないように。二人とも。できるね?」
「はい」
「やってみるか……」
二人の返事を得ると同時に、リンデルが駆け出す。
最初に気配を感じた方向へ。
一体、また一体と魔物を斬り伏せつつも速度を落とさず駆ける三人は、行手の視界が開けた先に、洞穴を認める。
その手前に、それは居た。
ハッとこちらに気付いたそれは、所々に闇を滲ませてはいたものの、一見まだ幼い少年のような姿をしていた。
後ろからまだ魔物は迫っていたが、先頭のリンデルが減速すると、二人も倣う。
「……お前らも、オレを殺しに来たのか?」
少年が、恐怖と悲しみにその表情を歪める。
その手足が、一瞬どろりと闇に溶けるように歪む。
「違うよ。私は君を助けに来たんだ」
リンデルが笑顔と共に告げると、少年は人の輪郭を取り戻しつつも、あからさまな動揺を浮かべた。
「主人様!」
叫びを上げて、ロッソが背後から迫る魔物へナイフを投げる。
しかし魔物は一体二体減ったところで差がないほどにその数を増やしていた。
「魔物は、君のことは攻撃しないね?」
リンデルが確認する。
「はっ、オレを人質に取ったって、こいつらはオレの言うことなんて聞か……」
「良かった。少しだけ待っていて」
リンデルはそれでも少年を背に庇うようにして、魔物達に向き合った。
「ロッソ、虫の目を潰すんだ!」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、周囲の虫型の魔物へナイフが突き刺さる。
「ごめんカース、頼んでいい?」
「ちっ……しゃーねぇな……」
男がその瞳を紫へと変える。
その間も、ロッソが虫型の魔物を見つける度にその目を潰してゆく。
魔物達の瞳が、次々と男の放つ紫の光に魅入られる。
カースの息が苦しげなものに変わってゆくのが二人にも分かった。
見渡す限りの魔物が術にかかった事を確認すると、カースは魔物達にここへ近寄らないよう命じて術を完了させる。
「っ……!」
がくりと膝が崩れたカースの傾いだ肩を、リンデルが受け止めた。
「カース!」
「ぐっ……大丈夫、だ……」
カースが荒い息の隙間から返す。
しかしその表情は歪み、痛むのか、左眼を覆う手が震えている。
「ごめん……無理させて」
「いいから……話してこい……」
言われて、振り返ったリンデルは、少年が驚きを浮かべてカースを見ていることに気付く。
「……それ、アイラが使ってたやつだ……」
少年の呟きに、リンデルは城の隠し資料庫で見た極秘資料を思い浮かべる。
確か、あの実験の生き残りの中に、そんな名前の子が居たはずだ。
「お前、その力はどこで手に入れた」
少年の質問に、カースが苦しげに答える。
「……知るかよ、生まれた時から、こうだったんだ……」
「お前はアイラの子なのか……?」
「……っ、何の、話だ……」
カースの額に浮かんだ汗が、ぽたりと地に落ちる。
リンデルは思わずカースを抱き上げた。
「おわっ」
驚きの声をあげる男を、リンデルは大切そうに胸元に寄せる。
「カースはひとまず休んだ方がいいよ」
主人の言葉に、ロッソが素早く荷を解く。
「君はあの洞穴に住んでいるの?」
「あ。ああ……」
少年が思わず頷くと、リンデルがさらに尋ねた。
「私達も、この辺で休ませてもらっていいかい?」
ふわりと微笑まれて、少年がたじろぐように後退る。
「い、いい……けど……」
「そうか、ありがとう!」
嬉しげに目を細めるリンデルに、少年がほんの少し顔を赤くする。
それを、残る二人はなんとも言えない面持ちで見た。
ロッソが洞穴前に布を敷くと、そこへリンデルは男を寝かせる。
「ロッソ、頼むよ」
「はい。ですが……」
従者は、黒い瞳を心配そうに揺らして主人を見上げた。
「大丈夫。目の届く範囲で話すから」
にこりと微笑んで、リンデルはロッソの頭を撫でる。
「気を、付けろよ……」
カースが、痛みを堪えながらもリンデルを気遣う。
そんな男の愛にリンデルが心震わせた時、背後でぞわりと魔物の気配がした。
そこには少年がいたはずだった。
殺気を放たぬよう慎重に振り返ると、そこには魔物ではなく虚な表情を浮かべた少年が立っていた。
リンデルは気を引き締め直す。
幼い少年の姿に、どこか気が緩んでいたのかも知れない。
「そいつ、アイラの子孫……なのか?」
まだそればかりが気になる様子の少年の前に、リンデルは膝を付くと視線を合わせる。
資料には実験体の子孫の追跡もいくつか残っていたが、それも長くて百年ほどだった。何しろ、二百年も前の話だ。
「……そうかも知れないね」
リンデルは、はっきりと答えを返せないながらも、そう微笑んだ。
「そう……か……」
どこかに想いを馳せるように俯いた少年の輪郭が、また少しだけ闇に滲む。
「挨拶が遅れてすまない。私は……」
勇者時代にすっかり身に付いた口上を述べそうになって、リンデルは一度口を閉じる。
「いや、俺はリンデル。呼び捨ててくれたらいいよ」
知らず引き締めていた表情を、ふわりと和らげて微笑む。
気は引き締めても、態度は穏やかでなくてはいけない。
相手はこちらを敵だと思っているのだから。
「リンデル……」
久々に紹介された他人の名を、少年は思わず繰り返した。
「君の話を、聞かせてもらってもいいかい?」
なるべく優しい声で尋ねるリンデルに、
「オレの話なんか聞いて……どうする気だ」
と少年は、淡い緑の瞳に警戒を浮かべて聞き返した。
リンデルは金色の瞳を柔らかく細めて、少年の姿を見る。
ツリ目は生まれつきなのか、環境のせいか。
赤い髪は目にも襟にもまばらにかかっているが、自分で切ったのか、それともこれ以上伸びないのだろうか。
歳は二百を超えているはずだが、見た目は八つか九つほど……、資料にあった、実験後は体の成長が止まっているという表記の通りに見えた。
「どうすれば君を助けられるのか、考えたい」
少年は息をのんだ。
真っ直ぐに自分を見つめてくる金色の瞳。
こんな風に正面から、悪意なく見られたことが、今までどれだけあっただろうか。
けれど、話したところで、きっと何も変わらない。
いや、話せば、こいつはオレを殺すしかないと思うかも知れない。
でも話を聞きたいと言われたことが、助けたいと言われたことが、堪らなく嬉しくて、それに飛びつきそうになる。
躊躇いと切望が、じりじりと少年の輪郭を崩す。
暗い闇が少年の周りで渦巻くと、少し離れた場所にアリ型の魔物が姿を現した。
リンデルが背後に素早く視線を投げると、ロッソが頷きを返す。
リンデルは焦りを表に出さないよう細心の注意を払いながら、少年に囁いた。
「君に、触れてもいいかい?」
その言葉に、少年は驚きと戸惑いを浮かべる。
拘束される? いや、それならわざわざ尋ねたりしないはずだ。
少年は、意図を読めないまま、金色の光に誘われるように頷いた。
リンデルは少年をそっと抱き寄せる。少年に人らしい体温は無かった。
それでも、手に触れる感触は人のようで、リンデルは小さな肩を壊れないように包んだ。
向こうでは三体目のアリをロッソが沈めている。
カースが起きあがろうとしているが、まだ難しいようだ。
揺らいでいた少年の輪郭が、人らしい形に戻ると、それ以上魔物は発生しなくなった。
リンデルは少し考えてから「ちょっと待ってね」と少年に告げ、甲冑を脱ぎ始めた。
勇者時代のそれとは違い、今は一般隊員が身につける軽くて動きやすい小型のものを身につけていたが、それでも、少年を抱き締めるには邪魔な気がした。
「主人様……」
ロッソの心配そうな声が聞こえたが、リンデルが笑顔を返すと小柄な従者は黙って主人の甲冑を外す手伝いを始めた。
少年は、リンデルが鎧を外すのを不思議そうに眺めている。
その瞳に僅かながらも期待の色が滲んでいるのを、リンデルは光栄に思いながら、応えるように微笑んでみせた。
途端、少年は顔を赤くして視線を逸らす。
「君の名前を、教えてくれる?」
尋ねられ、少年はびくりと肩を揺らした。
「…………ケルト……」
「ケルトか。いい名前だね」
リンデルは資料通りの名であることを確認しながらも、そう答えた。
従者は外し終えた甲冑をまとめると、リンデルのそばに敷物を敷いて下がった。
リンデルは「ありがとう」と礼を告げて、そこへ座ると少年を呼んだ。
「おいで」
「!?」
リンデルの手は、自身の横ではなく、膝の上を示している。
「なっ、だっ……え!?」
予測出来ない出来事に固まってしまった少年へ、リンデルは首を傾げてしょんぼりと尋ねる。
「あ……、嫌だったかな……?」
しゅんと寂しそうに揺れる金色の瞳に、少年が動揺する。
「っ!! べ、べ……つに、嫌じゃ、ない、けど……」
段々と消え入りそうになる少年の言葉に、ロッソとカースは必死で声を殺している。
「ほんと? よかった」
リンデルが嬉しそうに微笑むと、少年は完全に真っ赤になった。
少年の小さな手を、リンデルがそっと握って引き寄せる。
ストンと膝の上に乗せられて、少年はドギマギと視線を彷徨わせた。
リンデルも、決して無意味に接触しているわけではない。
先程の様子を見る限り、この先話を聞くにあたって、なるべく早急にこの少年を慰められるようにしておかなければ、魔物の発生数がとんでもないことになりかねないと判断したからだ。
けれど、恥ずかしそうに、でもどこか嬉しそうに膝におさまるこの少年を、リンデルは見せかけではなく、本当に大切にしたいと思う。
リンデルは少年の赤い髪を優しく撫でた。
一瞬びくりと肩を揺らした少年は、けれどそのまま大人しくリンデルに撫でられている。
少年は今、青年の右膝に腰掛ける形で横向きに抱かれていた。
「ケルトの事を、教えてほしい……」
頭上から降ってくる言葉は、少年の中に直接染み込んでくるような気がした。
少年は、記憶を辿りながら、ぽつりぽつりと話し始める。
ずっと昔の、二百年も前の、自分がまだ本当に人だった頃の話を……。
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