アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
75
-
そういえば忍は、斎場の控室でこんなことを言っていた。
「ね、歩さん。」
「ん?」
冷たく冷えた仕出し弁当を突きながら、疲れ切った顔で笑って言った。
「どうして、氷が浮くか知ってる?」
「氷?」
目の前のグラスには、氷が沈んでいる。
「浮いてないぞ?」
「うん、これはね。」
ポカンとした顔で、忍を見つめた。
「冬場、バケツの表面に氷が張ってるのって見たことない?」
「・・・ああ、ある。」
凍りついたそれは、子どものころはキラキラ輝いて見えた。
「そういや、流氷とかも浮いてるな。あれは海水だからか?」
「なら、湖の氷は?」
ああ、浮いている。
北欧だと、凍った湖をスケートリンクに見立てて遊んでいたりする。
「浮いてるな・・・。」
忍はグラスを手に取った。
「水って氷になると膨らむの、知ってるよね。」
「ああ、必ず盛り上がるな。」
水をすり切りいっぱい凍らせると、すり切ったはずの部分が盛り上がる。
それは、凍る時に分子の配列が隙間の多い分子配列に変化するかららしい。
「水って変わってるの。普通は液体が固体になると、もっとみっちり分子がくっつくはずなのに、水だけは違う。同じ体積の水と氷を用意するとしたら、氷が膨らんだ分の体積を削らないといけない。・・・もちろん、その削った分だけ溶けると減ってるわけだから、氷って、同じ体積で比べたら軽いってことになる。」
100mlの水と氷。
同じ体積にするなら、膨らんだ部分の氷を削る必要がある。
その氷が溶けると、もうそれは100mlの水には戻らない。
「へぇ・・・面白いな。」
「でしょう?・・・ぼくが科学に興味を持ったきっかけ。」
水は摂氏4度がいちばん比重が重くなるらしい。
冬の凍てついた湖の表面こそ氷点である0度だが、湖の底は凍り付かない。
これは、摂氏4度の比重の重い水が湖の底に溜まっているからという。
「物質の変化。もとは同じものなのに変わってしまう。分子配列も変わり、性質も異なっていく。・・・変わることが出来るのが、ぼくには美しく見えた。」
つまり、忍は変わりたいのだ。
「俺には忍が輝いて見えるよ。」
そう言うと、忍は真っ赤になって背中を向けた。
「ばっかじゃないの!・・・ちょっとおばあちゃん見てくる。」
箸を置いて走って消えた忍の後ろ姿を見ながら、俺は決めたんだ。
忍の変化をサポートしようと。
忍は、変わりたがっている。
環境や、自分自身を変えたくて、必死に手を伸ばしているのだ。
きっと今の忍は、さながら凍てついた氷の下に沈む水なんだろう。
引き上げてあげたかった。
だから、お参りに来た不動産屋の親父さんをつかまえて、話をして、結果巻き込んだ。
大きな声をあげて笑う忍は、かなり浮上できたと思っていたのに・・・。
時限爆弾で、また忍は水の底に沈んでしまった。
「恐れ入ります、工学部はどちらになりますでしょうか。」
爆弾本人と、サシで話をする。
「ありがとうございます。」
研究室の入った工学部校舎は、北側。
学生のいないキャンパスを歩きながら、大久保さんの電話での様子を思い出した。
「単刀直入に申し上げます。奥田忍に関わることです。」
『・・・どういったお話でしょうか。』
「彼の祖母が亡くなりました。」
声を詰まらせた大久保さんは、そのまま黙り込んだ。
「遺言に、あなたのことが書かれています。確認に伺います。」
返事は無かった。
無いのが、関係がある証拠だ。
「今日これから伺います。研究室にお邪魔しても?」
『・・・はい。』
くぐもった電話の声は、何となく悲しみを湛えているような気がした。
そして今、目の前には、工学部校舎がそびえ立っている。
忍が通ったであろう校舎は、いまは静かに、ひっそりと息を潜めていた。
・・・一階奥。
研究室が並ぶ一角に、その研究室はあった。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
75 / 201