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「……お母さんの、とこ…誰かいる…?」
信じられない事だった。
俺の知っている母は、一向に戻らない父を求めては心身ともに弱り切り
誰一人として破る事の敵わない強固な殻に閉じこもっているはずだったのだ。
それが…遠い昔の記憶に微かに残る
あの優し気な声色で、時折笑いを交えた温かさを帯びて。
一瞬、父が見舞いにでも来ているのかと疑った。
だが、母のそれと混ざる男の声は
俺の耳には馴染みの無いものだ。
そこに居るのは誰だ。
担当医師…いや、彼とは数回話した事はあるが
もう少し高齢特有の掠れた声だった気がする。
それなら……新しく配属された看護師だろうか。
どちらにせよ、母がここまで心を許しているのは大変珍しく
何か特別な関係性でもない限りあり得ない。
心拍の乱れを落ち着けようと、半歩後ろで様子をうかがう番の手を握る。
元から彼の体温が高いだけなのかもしれないが
自ら重ねたその手の温度差に驚いた。
緊張と動揺。
二つが入り混じって完全に冷えてしまった手のひらには、あまり気持ちよくも無い汗がじわりと滲む。
澄晴は、何も言わないまま
握る手に力を込めた。
それは俺を大丈夫だと勇気づけ
また、彼自身の覚悟を示しているようにも感じられて。
空いていた片手が、淡い色のカーテンに触れる。
布一枚を隔てて交わされていた会話が止んだ。
「……どなた?
先生?それとも……来碧?」
煙草の後味を残した唾液を飲み込み
極めて冷静さを保ちつつ、カーテンを引いた。
「お母さん…おはよう。」
「おはよう、来碧。ひさしぶりだね。」
母の顔色は最後に見た日に比べ、格段に良くなっており
その表情もまた、柔らかな微笑みを帯びている。
そして、母の枕元に椅子を置いていた見知らぬ男は
シャツの襟元を正すとスッと立ち上がり、俺を見た。
「どうも、初めまして。君が来碧くんですか。
よく話には聞いています。」
見たところ30代後半から40代といったところだろうか。
若くして俺を産んだ母と、恐らく同世代か少し下くらい。
何処にでもいるような、特に大きな特徴も無い中年の男だ。
「初めまして…。あの、あなたは…?」
こちらの方が後から来ておいて
先客に問う言葉としては適していないのかもしれない。
だが、どうにも不思議でたまらない。
シャツにジーンズ、どこからどう見ても病院関係者とは言い難いラフな服装。
もうずっと病院内に閉じ込められていた母と仲睦まじそうに話す彼との繋がりがまるで想像できないのだ。
男は自身の鞄から名刺ケースを取り出すと
そこから2枚の白い紙を引き抜いた。
「名乗るのが遅くなってすまないね。僕はこういう者です。」
名刺の受け渡しには慣れているようで
俺と、それから澄晴に1枚ずつ名前と企業名の記された名刺を手渡す。
反射的に懐を漁り、申し訳なさそうに肩を落とす澄晴を横目に捉えたが
そもそも前夜に休みを取らせた上に突然病院に付き合わせたのだから、仕事用の名刺を所持していなかったところで誰も責めはしないと思うのだが…。
受け取ったそれのやり場に困っていると
くすりと吐息をこぼして沈黙を断ち切ったのは、他でもない俺の母だ。
「来碧が、大切な人を紹介してくれるだなんて言うから
お母さんも来てもらったんだ。
彼は、お母さんの大切な人です。」
「、なっ……え?」
信じられない言葉に、適した返答が即座に見つからないのは仕方のない事だろう。
番に捨てられたΩの母が、自らそう言ったのだ。
隣に立つ、少し緊張した面持ちを見せるこの男を指して。
αにありがちなギラつきや横柄な態度など、一つも見当たらない彼はβで間違いない。
勿論、先ほど挙げた事に関して澄晴は例外とするが。
と、すれば…この男は生まれながらに約束された平和で普通の生活を捨ててまで
母を選ぶとでも言うのだろうか。
そんなおかしな事があるのだろうか。
母は、俺達には聞き取ることのできない小さな声で
男に耳打ちをした。
そして
「…随分と、びっくりしてるみたいだし
よかったら2人で話して来たら?お母さんも、来碧の番の方と少しお話してみたいな。」
皮肉めいたそれでもない、ただ単に俺の反応を面白がっているように笑う無邪気な母は
未だ細すぎる指で俺の胸元を指した。
ポケットから少しはみ出ている煙草の箱。
ちらりと男の方を見れば、彼もまた右手に箱を持っている。
……二人仲良く一服でもして来いってか。
本来気を落ち着けるために吸う煙だ。
むしろ気を張るその状況で、不味くなったらどうしてくれるんだよ。
今の時代、この箱1つも高いんだからな。
とまぁ俺のつまらない不満はさて置いて
既に薄手のアウターを羽織る男が出ていこうとするものだから、それを慌てて追いかけた。
カーテンを閉める間際、この数分間全くと言っていい程声を聞いていない番に目を向けてみたが
案の定、緊張のし過ぎで今にも泣きだしそうな顔をしていて、つい吹き出してしまう。
「じゃ、お母さんの事よろしく。」
「え、ぇえっ!まっ、ちょ…ええっ!!!」
アイツの事だ。
どうせ、頼る人間が居なくなれば上手くやるさ。
なんたって、この俺が惚れた男なんだから。
扉の向こうへ消えかけた背中を追い
小走りで部屋を後にした。
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