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ゲイバーアンビシャスへの再来前日譚4
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「はるくんは元気なのか?」
苦いレモンの味を舌の上で堪能しつつ、鼻腔に感じる清々しい香りに導かれるように、聞きたかったことがするっと喉から飛び出た。
さっきまでは躊躇っていた名前がスムーズに出たことに、高橋自身驚きを隠せずに目を見開き、そのまま固まった。
「なんて顔してんのよ。健吾らしくない……」
高橋の右手の中にあるタンブラーの中から、氷がカランと音を立てた。まるで動揺を示しているように聞こえたそれを誤魔化そうと、意味なくタンブラーを揺らして雑音を増やしてみる。
「アンタ、なにやってんのよ。無意味な行動は嫌いだったでしょ。馬鹿のやることだって、笑っていたじゃないの」
「無意味な行動じゃない。レモンの苦みを薄めようとしてるだけだ」
「まぁ素直じゃないのね。江藤ちんのことは知りたくないの?」
忍に核心を突かれたことで、高橋はタンブラーの動きを止め、目の前にあるみっともない顔を渋々見上げる。ちょっとだけ微笑みを湛える口に彩りを与える紅の色が鮮やかすぎて、目に毒だと思わずにはいられなかった。
「……はるくんは、この町にいるのか?」
「さぁね。アンタに紹介されたお客だけど、その後のプライベートをわざわざ教えるわけがないでしょ」
忌々しそうな表情を浮かべた忍の顔つきや、その他の微妙な様子で、青年の身の上を高橋は自然と悟ることができた。
「元気にこの町にいるのか。分かった」
「私はなにも言ってないし、教えてもいないでしょ。勝手にここにいることにしないでちょうだい!」
「足繁くとはいかなくても、この店に顔は出しているようだな」
「なんでそうなるのよ」
「忍なら、はるくんのいい相談相手になれると、俺が思ったから。俺様に見せかけてはいるが、見た目以上に繊細で傷つきやすい心を持っている。俺からの紹介で最初は警戒していた彼が、人当たりのいいおまえと仲良くしていることくらい、容易に想像できるさ」
残っているワード・エイトを飲み干し、タンブラーから手を放した途端に、別のグラスが隣に置かれた。
見るからに高級そうな極薄のタンブラーに、高橋の注文したハイボールが作られていたが、グラスの中に絞った形跡のあるレモンの欠片が、ちゃっかり投入されていた。
「ワイド・エイトは、私の驕りにしてあげる」
「俺としては普通のハイボールが飲みたかったのに、どうして余計なものを入れたんだ」
文句を言いつつも自分が注文した手前、しょうがなくそれを口にしてみる。ウイスキーの旨味とレモンの酸味が合わさって、絶妙な爽やかさが口の中に染み込んでいく気がした。
だがここで美味いと言えば忍が喜ぶだろうと考え、高橋は顔に感情が出ないように気を付けて、石のように押し黙る。
「素直な男じゃないわね。アンタがそんなんだから、どんな反応でも引き出してやろうと、こっちは頑張っちゃうのよ。分かってる?」
「そんなものは頼んでない。このレモンと一緒じゃないか」
高橋はタンブラーの底にあるレモンを指さし、忍にくどくど小言を告げた。
「本当はレモンピール(レモンの皮)を隠し味程度に入れるのがいいところを、健吾の味覚に合わせて、それを入れてあげたの。アンタの初恋の味でしょ?」
「初恋……。どうしてそう思うんだ?」
高橋の乾ききった声が店内に響いた。
「江藤ちんと別れたあの日。酷い顔をしてたって、さっき言ったでしょ。心底好きだった男の表情の違いが分からない、元彼じゃないのよ私は」
顔はにっこりと微笑んでいるのに、悲しげに揺れる瞳を宿した忍の声が、高橋の耳には悲痛な叫びのように聞こえた。
「そうか」
「そうよ。アンタと出逢ったことで、江藤ちんも私と同じくらいつらい思いをしたけど、その分だけ今はきっと幸せになっているでしょうね」
忍は高橋から視線を外し、小窓に移る景色を眺める。
「はるくんは……。アイツはいいヤツだからきっと恋人ができて、うまいことやってるだろうな」
忍の告げた幸せという言葉を使って、具体的に表現してみた。自分が不幸せな分だけ、青年には幸せになってほしいと心から願う。
「どうかしらね、暫く店に顔を出していないし。仕事が忙しいことしか聞いていないけど」
短いやり取りの中から高橋の心情を聞いた忍が、青年のプライベートを思わず漏らして、ハッとした顔になった。
「やっぱり変わらないな。詰めの甘さが端々に出てる。その化粧と同じだ」
「ガードが固いままじゃ、口説く男が大変でしょ。中には物好きもいるものよ」
「それって俺のことか?」
高橋が吹き出しながら指摘すると、忍は肩をすぼめて首を横に振る。
「過去の男なんて知らないわ。これから口説いてくれる男について語ってみたのに」
「目の前にいるバケモノを、俺は口説いた記憶はないけど」
「健吾みたいな男に引っかかったことは、私の中で黒歴史になってるんだからね。出逢いたくはなかったわよ!」
「夢なら良かった?」
「そうね、だって夢なんだもの。目が覚めたらそれでお終いなんだから」
忍の言葉にゆっくりと目を閉じて、青年との日々を思い出した。
ただ弄ぶためだけに彼を騙した挙句の果てに、写真を撮って脅した。高橋の与える苦痛と快感を躰に教え込ませるべく、嫌がる青年との濃厚な行為は、脳裏に刻まれる強い記憶だったはず。それなのに今はすべてが夢の中の出来事のように、儚いものに変わっていた。
牧野からのプレッシャーや恐喝が、高橋の中にある悦びを色褪せたものへと変化させた。
「確かにそうだな。夢ならこんな思いをせずに済んだはずなのに――」
「珍しく意見が一致したわね」
「ああ……」
高橋はタンブラーの中身を、一気に飲み干した。ハイボールの旨味とともに、レモンの酸味も瞬く間に消えてなくなった。
閉じていた瞳を開けて、空になっているタンブラーをじっと見つめる。何かの衝撃ですぐに壊れそうな薄造りされたグラスが、今の自分の心のように見えた。
「健吾、お代わりは?」
「もういい。帰ることにする」
カウンター席から立ち上がって地に足をつけたら、ふらりと一瞬だけぐらつく。
いつもよりピッチが速かったのと、日頃の疲れがあるせいか、したたかに酔っていることに高橋は情けなさを感じ、内心舌打ちした。
「そう。聞きたかった江藤ちんの身の上話も聞けたし、それで満足したのかしら?」
「おまえのみっともない顔を見続けることに、心底苦痛を感じてるだけだ。出してくれる酒が美味いだけに、残念としか言えない。これ、釣りはいらない」
長財布から万券を差し出した高橋の手元から、忍は勢いよくそれを抜き取って、ひらひらと見せつけた。
「毎度あり。ちょっとした情報提供料も含まれている関係で、チップを弾んでくれたの?」
「そんなつもりはない。手切れ金の一部だと思ってくれたほうが、俺としては気が楽かな」
「言うわね。ここの開店資金にしろって手切れ金を渡したくせに、まだ払い足りないのかしら?」
どこか寂しげな笑みを浮かべて嫌味を言った元恋人に向かって、高橋は頬の上に描いたような笑みを漂わせた。
「払い足りていないだろ。俺に本気で恋した痛手を、あれくらいのはした金で補えてるとは思えない。その証拠が、見るに堪えないみっともない顔だろ?」
「イジワルを言うときの狡猾そうな表情は、全然変わらないのね。健吾のそういうところが大嫌いよ!」
「知ってる。俺も自分のこの顔が嫌いだ」
高橋の薄い笑みが、柔らかいものへと変わっていった。
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