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雨情
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芒種の季節のことである。佳平(かへい)は、雨の中を家路に就いて歩いていた。
不意に顔を上げれば、鄙びた中にも、どこか雅やかな趣の家が見えた。
(宮様の家だ…)そう考え、佳平は思わず足を止める。
ひと月前、この地に流されてきた宮様、つまりは、帝の血筋の人である。
本当の名を、下賤の身である佳平などが知る由もなく、ただ、正当な血筋にありながら、母親の身分卑しきによって朝廷の中には後ろ盾はなく、母が亡くなり、元服するとほぼ同時にこの僻地へ、まるで追いやられるようにしてやって来たのだと、村の年寄りが哀れむように慈しむように話していたのを、佳平は聞いたのみであった。
「あのように姿やさしきは、やはり上臈である故かね」などと、隣の小母さんも言っていたげな、おらと、年のころ変わらんらしいげな、一遍姿を拝んでみてぇものだな、などと、佳平は思いながら、扇の君と呼ばれるその人の家を眺めていた。
すると、その遠くの家から、微かな笛の音が、聞える。物悲しいような、奥ゆかしいような、音いろであった。秋の鹿の、妻を恋い求めて啼く声にも、似ていた。
佳平は賤しき身ながらも感性の鋭い男で、
(本当に雅びやかな芸事は、自然を真似てその自然そっくりに、自在に音を出すその中にあるのではないか)と、その笛の音を聞きながら感じていた。
雨は降りしきり、ついには、稲妻が空に轟き出した。
その中にあって、貴人の吹く竜笛は、畦道に佇む佳平の耳まで、その澄んだ、柔らかな音を、微かに響かせていた。
その音色はたをやかながら、空にあり雨降らす竜神に捧げる祈りとも似ていた。また、稲妻走らせる雷神に挑むような、一種の気高さがあった。
その音色を聞くと、何か、佳平はいてもいられなくなるような感じがした。
現代の言葉に訳せたなら、郷愁、とでも言おうか、憂愁、とでも言おうか。
生き生きしながらも、どこか物憂げな、悲しげな色を帯びたその音いろは、流行り病で家族を失い、年端もいかぬうちから孤独と寡黙のうちに生きていた佳平の琴線にふれ、激しくそれをかき鳴らすようなものがあった。
(…宮様は、悲しいのだろう。このような地に、身寄りもなくただあって、寂しいのではないか。きっと、そうだ。宮様にお会いしてみたいものだ、いや、きっと、会う。近いうちお会いして、自分は、宮様の寂しさをお慰めせねば。)
そう、佳平に決意させるには、その音色は十分に美しく、また、悲しげであったのだ。
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