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月見で一杯
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ちょっとお金が貯まったので、遠出をしよう。
そうルカに言ったのが、旅行のきっかけだった。
ルカが、色々と旅のプランを考えてくれて、今、俺たちは貧乏旅行をしているというわけだ。
新幹線で、県外へ出た。関東から初めて出るのは、新鮮な体験だった。徐々に、見慣れた会社の名前や、関東らしい風景は消えて、山を穿ったトンネルを抜けたら、その先は、完全に別天地が広がっていた。茶畑を眺めたのを、覚えている。ここは別世界だ、と、そう思った。
駅弁を食べて、新幹線を降り、ローカル線を乗り継ぐとき、熱い空気に、ぶわっと汗が出た。
好きな人と、美しい景色を眺めている。
それだけで、胸がいっぱいになる。言葉は、いらないと思った。
もう、窓の外の空は青くて、その水色から群青のグラデーションを眺めているだけで、幸せだ。
途中、編集部からのメールが来たけれど、返事はホテルへチェックインしてからでいい。すべてを後回しにして、ルカと二人で空を眺めていた。
それぐらいに、圧倒的な解放感が、この旅の始まりを覆っていた。
夕暮れが近くなって、俺たちはホテルへ着いた。貧乏なので、旅館とかではなく、ビジネスホテルだ。そこでまず、これからしばらく暮らすために荷物を広げる。俺は、先ほど届いたメールをチェックする。
小説を仕事にできたことは、間違いなく幸せなことだ。でも、この仕事にはプライベートにも仕事が入り込んでくるという、重大な欠陥がある、少なくとも、俺にとってはある。
メールを見ると、先週に送った原稿のダメ出しが書いてあった。それをチェックしながら、横目でルカの様子を伺うと、ルカはベッドに体を預けて、旅行雑誌を読んでいた。
まだまだプランを練り足りないみたいだ。
「大浴場、行かないか。」
俺が誘うと、
「いいよ、露天風呂が一応、あるからね、ここは。」
と、ルカはアメニティの浴衣を二人分持って、外へ出ようとしている。俺の分まで持っていてくれているらしい。
「ルカ、露天風呂好きだったっけ?」
「いや、好きとかではないけど。でも、あると入りたくならない?」
分からなくもない、と思った。
大浴場へ行くと、そこは吹き抜けの気持ちのいい空間で、そこで服を脱いで湯に浸かる。最高だ。誰もいないのをいいことに、ちょっとふざけ気分で背中を流し合った。
「ハル、僕、先に露天風呂行くね」と言ったルカは、多分いろんな意味でのぼせてしまったんだろう。ルカは、根っからのゲイだ。俺は、そうでもないが、ルカは男の人の体を見てると、普通女性の体を見てるときみたいな反応になってくる。そういう気持ちを鎮めようとしてか、俺から離れた。
俺も、一人でサウナに入った。熱いけれど、それも気持ちがいい。知らない土地に来ただけで、体の底から力が湧いてくる。力が湧いて、有り余る。なんだか、感性がいつもの倍くらい鋭敏に働いて、何をしても何を見ても何を見ても、気持ちがいい。
ホテルにチェックインする前のことを思い出していた。
ローカル線を降りると、そこは駅で、しばらく歩くと、小川が流れていた。
小川は、きれいに舗装されていて、でも、一部、わざと自然を残してあった。地元の小学校か何かが放流した小魚が泳いでいて、透明度の高い、きれいな小川だった。
しばらく行くと、小川は次第に流れが緩やかになって、水の量も増した。その辺りで、パン屋でパンを買って食べた。
小川には、真っ黒な、美しい鯉が泳いでいて、ルカは、その鯉たちにパンをちぎって与えていた。
鯉は、ゆったりと泳ぐ。ルカが投げてやるパンにおっとりと近づいて、パンを丸呑みした。ルカは、そんな鯉を可愛いとでも思ったのか延々とパンを投げてやっていた。
…この地域の第一印象は、「水が奇麗」だ。
鯉の、鱗の一つ一つまで、くっきりと見えるほどに、小川の水は澄んでいた。そんな川の印象が、この場所の初めての印象だ。
なんて考えていたら、すっかり汗をかいてしまった。
水風呂で熱をとってから、ルカのいる露天風呂へ出た。
夏なので、蒸し暑い。そのうだるような気候の中で、ルカは壺湯に入って、暗くなりかけた空を眺めていた。
「お邪魔しまーす」とおどけて、壺湯へ入っていく。
膝が触れ合うくらい狭い壺湯の中で、二人で空を眺めた。
「今日は満月。」と、ルカがいう。
指さした先にあるのは、黄金色をした月だ。
群青の空に、ひときわ明るい。
俺たちは、段々と風が涼しくなっていく夕暮れを、肌で感じていた。
「月が奇麗ですね」と言ってみると、元文芸部のルカは意味が分かるらしく、「わたし、死んだっていいわ、」と、おどけて返してきた。
一説によれば、これが夏目漱石流の「アイ・ラブ・ユー」の訳語らしい。
「いや、そのままの意味でしかないから」と、あえて突き放すように言うと、
「ひどいハルさん、思わせぶりなことばっかり言って。」と、軽く体当たりしてくる。その肌が滑らかに滑って、なんだか心が安らぐ。
「…上がったら、ビールでも飲みたい夕暮れだな。」と俺が言うと、
「月を肴に、って?」と、ルカはお酒を飲むジェスチャーをする。
それを見ながら、一緒に来て、本当によかったと思った。
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