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睡蓮
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宇治原と食べるためのパンケーキを焼きながら、俺は歌を口ずさむ。
宇治原はちょっと今までに見たことのないタイプの人間だが、山に一緒にドライブできるくらいには安全な人間だと思う。
それに、嫌がってみたところで、どうせ、俺に逃げ場などないのだ。
親の借金のカタに、金持ちのペットとなるべく売られた際に、体にGPS機能の付いたチップを埋め込まれている。どこへ逃げようが、俺に自由なんかない。氏原は優しいが、俺は宇治原のペットなのだという自覚をなくすことはない。
少なくとも今まで、宇治原は、俺の嫌がることをしてきたことがない。ならば、相手の機嫌を損ねないためにも、逆らわずに、大人しくついていったほうが得策だという気も、してこなくはない。
このために大好きなアルバイトを休まなければいけないのは、経済的にも精神的にも辛いが、来てくれたらバイト代の数倍の金をくれるという、宇治原の提案にそれほど異議はない。よって、俺は今、宇治原に頼まれたパンケーキを作っているのであった。
甘い匂いは、俺の数少ない、いい思い出を思い出させてくれる。
そういえば、焼き肉屋の店長と初めて会った時も、甘い匂いがしていた。
その頃俺は、ハンバーガーショップで働いており、そこの店長に迫られ、仕事を辞めようかどうか悩んでいたのだった。
多分、バイト先の上司を拒否すれば、もう雇ってもらえなくなる。でも、正直上司のオモチャにはされたくなくて、泣きながら歩いていたのだ。そんな俺を、焼き肉屋の店長は――麦さんは、救ってくれた。
あの時、「とにかく付いてきなさい」と言われ、同じΩだという安心感で、俺は招かれるがままに、麦さんの部屋へ入った。そこで出された暖かいミルクとスポンジケーキの味は、きっと、一生忘れないだろう。
甘い匂いは、それと似ていて、優しい気持ちになる。
一口味見をすると、口の中に幸せな味が広がった。
弁当を抱え待ち合わせ場所へ行くと、宇治原はすでにそこにいた。
「待たせてしまいましたか」と聞くと、
「そんなには待っていないよ」と言うので、やはり待たせたのだな、と思う。
朝靄の中を、車は進んでいく。
宇治原は英語ができるらしく、社内には英語のDJが、落ち着いた低い声で話すラジオが流れていた。
宇治原の優しい雰囲気に、つい俺はどうでもいいようなことを喋ってしまう。
「―それで、麦さんが、こう言ったんです、ここは焼肉定食屋なんだから、弱肉強食で焼肉は食べられていくんだよって。」
「うん。」
「それ聞いた時、俺は笑っちゃいました。だって、麦さんは真面目な顔して、世界の真理を語る表情で、駄洒落を言ってるんです。そういう場合、笑う意外にどうしろって言うんですか。」
「ふーん。」
俺は、麦さんと店員数名で、店で焼肉をした時のことを話していた。氏原は、運転に注意を向けながら、俺の話に相槌を打っていた、
「君は、本当にバイト先が好きなんだね。」と、宇治原は言った。
そうだ。学校では、Ωという属性のせいで息をひそめざるを得なかった俺にとっては、焼き肉屋こそが青春の居場所だ。
「宇治原さんは、俺からプライベートを奪わなかったじゃないですか。そのことに、俺は本当に感謝してるんです。」
これは本音だ。親の借金のカタに売られる時には、自由など存在しないだろうことを覚悟したのだから。
「君から何かを奪いたくはなかったんだ。」と宇治原は言い、少し目を細めるようにして前を見た。
「まぁ、せいぜい僕から逃げたりしないなら、何をしても構わない。ただ、僕を好きでいてほしい。それ以外の束縛をする気はないよ。」
好きでいる、か。
それが、案外と難しいのではないかとは思う。それでも俺は、この優しくて穏やかな人を自分にとって特別だと思うのは、そんなに遠くない未来にあり得ると思い始めていた。あくまで、ありえる、と言う話だが。
人の気持ちとは、難しいものだ。無害で優しいので、必ずしも絶対的な好感が持てるわけでもないらしかった。
何と答えるべきかわからなくて、とりあえず「わかりました」と言い、俺は窓の外を見る。滑るように進む車の窓の外は美しくて、底には弱肉強食などと言うむごいルールと無縁の世界が広がっているかのように見えたが、現実は、そのルールから無縁な生き物などいない。そう、俺たちだって。
たまたま、俺は運がよかったのだと自分に言い聞かせる。そうして祈
る、この幸運が続くようにと。もしかしたら、宇治原の機嫌を損ねてしまえば、明日にだって別の人間に売り払われるかもしれないのだ。宇治原は、そんなことしそうには思えないが、人間の見かけは、信用できない。あの上司だってそうだったじゃないか。
深い呼吸と共に、俺は自分に、今日も失礼のないよう、落ち着いて過ごすように命じるのだった。
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