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睡蓮(2)
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目的地は、高原の中の泉だった。
駐車場で車を停め、俺たちは高原へ出た。さわやかな空気の匂い。
緑が多いところ特有の匂いがした。
それに、睡蓮が強く匂っている。ここなら、俺は自分が発するΩの匂いを感づかれずに済むだろう。
俺は、今までこういうところに来たことがなかった。
キャンプ場などは恐ろしい考えの奴もいて、Ωが一人で人気のないところへ行くと、待ち構えていた人さらいに捕まって他惑星に売り飛ばされてしまうという噂があった。
だから、宇治原がいると心強い。
宇治原は、俺にまたも赤い帽子を被せ、自分もまた、キャップを被った。
「陽射しが強いからね。」と、彼は言う。
確かに、夏の初めの陽射しは強くて、なんだかアイスクリームのように、俺たちは溶けてなくなれそうな気がした。
暑い。熱い。
蜃気楼さえ立ち上るその森の中で、泉がきらめいている。
美しい泉だった。睡蓮の間を、大きな美しい朱色や金色の魚が泳ぎ回っている。モネという何世紀も前の画家が描いた睡蓮の池を再現したものなのだと、宇治原は教えてくれた。
「あの魚はなんというのですか。」
と聞くと、宇治原は俺の知的好奇心が嬉しいというように目を細め、答えた。
「あれは錦鯉。鯉を知っているだろう?鯉を美しい色彩に品種改良したものが錦鯉だ。」
僕たちのご先祖様が作ったのだよ、と、宇治原は子供に教えるように錦鯉を指差した。
俺たちの共通の先祖、と言うと、地球で日本と呼ばれたところに住んでいた人達のことだろうか。
宇治原は、名前からしても、そのモスグリーンの瞳の色からしても、混血だ。髪は金がかった茶色である。しかし、顔立ちは俺と似ているところもあって、東洋人らしかった。
「二ホンの人たちは美しい生き物を作ったのですね。」と、俺は言った。目を奪われるほどに美しい魚を、まだ目の端に映したまま。
錦鯉たちは日の下で、ゆったりと泳いでいる。
「俺は、あれになりたいです。…」思わず、変なことを言ってしまう。
いいな、と思ったのだ、心から。錦鯉たちは、どの柄に生まれたとかで差別しあっている様子はなかったから。
「君は時々面白いことを言うね。」と、宇治原が少し笑う。
「どうして錦鯉になりたいんだい?」
「錦鯉たちにはαもΩもないから。…」
思ったままを言ってしまったのは、暑さのせだろうか。
「カンパネルラは自分がΩなのが嫌なのかい?」
宇治原が訊いてくる。
「いやです。」と俺は、素直に答えてしまう。
「どうして」と無邪気に聞いてくる宇治原は、間違いなく弱者として差別など受けたことがないのだと、俺は確信した。
「だって、Ωは色々と不利じゃないですか。」
俺は苦笑する。
人権を保障してくれてるとは言え、宇治原は自分のことを買ったαなのだ。身柄を物みたいに買われる気持ちが、宇治原には永遠にわからないのだろう。
宇治原は、痛いところを突かれた、という表情をした。
「そうだね。…そういうところは、耳に痛くても聞かなくちゃと思うよ、君を理解するために。」
宇治原の素直な態度に、俺は少し戸惑った。
胸を打たれた、という感じが、より近い表現かも知れない。
宇治原の弱弱しい態度を、初めて見た。
「まぁ、宇治原さんは優しいし、俺は、宇治原さんと一緒にいて息が詰まるようなことはないんですけどね。」
ちょっとだけ、慰めたいという気持ちがあって、俺はそんな風に言った。
「でも、宇治原さんみたいなαには決してわからないような経験を、気持ちを、味わうようなことがΩにはあるんですよ。」
付け足しは忘れない。どの程度本気か知らないが、宇治原は、俺を理解したがっているのだ。俺は、試すように、少しづつ本心を語る。
「宇治原さんって、危ない目に遭ったこと、ないでしょう。いいなあ。
俺は、よく防犯グッズとか持ち歩いてます。…Ωって、すごく不自由な性なんですよ。本人の意思と関係なく、いろんなことが起きるんです。 世の中弱肉強食なんだな、って、そういう時、俺たちは思い知るんですけど、宇治原さんって、思い知ったこと、なさそうですよね。」
「いや、知ってるよ。そういうむなしさ、知ってる。」
いきなり、じっと聞いていた宇治原がそう言うので、俺は面食らってしまった。
「知ってるのですか。」
「人間って、自分が立場の弱い側ではなくても、傍にそういう立場の人間がいれば、世の中は力で回っていることを、思い知るんだよ。…まぁ、僕の場合、最近傲慢になっていたのかな。忘れていたのかもしれない。…」
宇治原は緩く頭を振りながらそう言う。俺は、宇治原の心中が察せなかった。宇治原は、何か、強烈な経験に囚われているようにも見えた。それでも、ひとの過去などそう簡単にわかるはずもなく、俺は曖昧な返事をしたまま、じっと宇治原を見ているしかできなかった。
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