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第一章 1-1
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二〇二一年二月三日
「すみません」
「はい。いかがなさいましたか?」
通り過ぎようとしたテーブルに座る白髪の女性に声をかけられ、俊太郎(しゅんたろう)は足を止めて応答する。
貼り付けた笑顔の裏には冷や汗が伝う。それでも極めて落ち着いた丁寧な話し方を心がけた。
「お手洗いはどちらかしら」
声を潜めてそう聞かれ、大した内容ではなかったことをホッとする。
「ご案内いたします」
おそらくこのくらいなら大丈夫だろう。案内一つでこの〈大きくズレ続ける世界〉にさらに大きなズレを齎すとは思えない。怪しまれないようにすることが今与えられている指示だったはずだ。
「あら、ありがとう」
上品な女性は周りの人達に、「少し席を外します」と声をかけて立ち上がった。俊太郎はスッと女性が座っていた席を元に戻した。
「ご案内いたします。こちらです」
俊太郎はヒールを履いた女性に合わせたゆったりとした歩みで、トイレへの案内を始めた。
左耳に入ったワイヤレスイヤホンはまだ静かなままだ。
◇◇◇
『そろそろだ』
女性をトイレに案内し終え、またホールに戻ろうとした時、ようやくイヤホンから声がした。俊太郎はイヤホンの角度を直すふりをしてイヤホンに付いている小さなボタンを押した。
『シュン、聞こえた。……ケンも聞こえた。準備に取り掛かるように』
俊太郎は案内した女子トイレの隣にある男子トイレのドアを開け中に入った。掃除用具入れから〈清掃中〉の札を取り出すと、男子トイレの入り口のドアを少し開け、そのドアノブにサッとかける。
すぐにまたドアを閉め、男子トイレの様子を伺う。――事前情報通りだ。そこには男性用小便器が三つと個室が二つ。個室のドアは隙間が少ない構造で、トイレに窓はなく換気扇が回っているだけだ。
俊太郎は開け放ってある掃除用具入れから、あらかじめ置いておいたガムテープを取り出した。そして内開きで空室時に開いているタイプの個室のドアを、鍵のところを指先で掴んで閉めると、ガムテープで止めた。手を離しても開かないことを確認すると、隣の個室も同じようにした。
使い終わったガムテープは入り口近くの床に置く。念のためだが、換気扇は止めた。
しっかりと閉じている個室を確認して、俊太郎は入り口のドアを少し開けた。入り口のドアノブを掴んだまま、足を伸ばして掃除用具入れを閉める。掃除用具入れが閉まったのを見ると、入り口のドアを通れるサイズまで開けてトイレから出た。
辺りをざっと見回したが、俊太郎を不審に思っている人は居ない。ホッと小さく息を吐く。
ホールに向かってゆっくりと歩きながら、またさりげなくイヤホンのボタンを押す。今度は二回、カチカチと。
『シュン完了、了解。……ケン了解。二人とも持ち場に着いたら知らせてくれ。計算をする』
イヤホンが邪魔だというような素振りをしながら、俊太郎はイヤホンのボタンを一回押す。
『ケン了解、シュン了解』
ホールに向かう前にキッチンに寄って、キッチンの戸棚に隠しておいたお盆を持って行かなければならないことを思い出し、進行方向を変える。持参した物は可能な限り全て回収しなければならない。
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