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5月終わりの土曜日の午後、小出は爽の家に初めて訪れた。
いつかでいいから行ってみたいとは伝えてあった。
しかし、負担にはなりたくないので可能だと思ったらでいい、そう言い添えていた。
多分、だいぶ先だろう。小出はそう踏んでいた。
それが予想外に早く実現したものだから驚いたし、正直舞い上がった。
ゴールデンウィークの連日デートで距離が縮まったと感じられた。
このまま恋人未満からランクアップできるのではないか。期待に胸が躍った。
小出が聡凪に話す内容も明るいものが増えた。
聡凪の耳に入る小出の声は弾んでいるし、自信のない発言はかなり減った。
聡凪からも「結婚式には呼んでよ」とか、「友人代表でスピーチしようか?」などとからかうセリフが出るようになった。
小出も自分のウェディングドレス姿を妄想しては心の内でジタバタしたり、ひとりで赤面したりすることが増えた。
ふと鏡を見るとにやけていることに気付いて慌てることもあった。
だから、爽の家に招かれたのは、それが小出ひとりの妄想ではなく現実的なもので、そして爽にとっても選択肢の上位になっているのだろうと思って嬉しくなった。
「お邪魔します」
緊張しながら玄関で靴を脱ぐ。
「どうぞ」
通されたリビングは片付いているというより殺風景に見える。
温かみのある色でまとめられた室内はソファにローテーブル、テレビにウッドラックとありきたりな家具が配置されている。
モデルルームのように生活感が無いわけではない。
しかし、何かが足りないような、ちぐはぐなような印象を受ける。
「何飲む? 紅茶とコーヒーしかないけど」
「海音さんと同じものをお願いします」
「OK」
爽がお湯を沸かしている間、小出はラックの中を眺めていた。
全てタイトルが見えないように、ディスクが反対向きにしまわれている。
何も入っていない段もあった。
カウンターの向こうで飲み物を用意する爽のほうへ視線を移すと手前にあるテーブルが目に入る。
テーブルを挟んで椅子が2脚。
1脚の上には本や雑誌が積まれ、新聞が一番上に載っている。
「ティーバッグだけど」
爽が小出の前にティーカップとソーサーを置いた。
「ありがとうございます。いただきます」
白磁の緩やかな曲線が上品なティーカップには控えめな色遣いでハーブの絵柄があしらわれている。
「おしゃれなカップですね」
そんなとりとめのない会話をした後、小出はラックの中のディスクが反対向きなのはどうして、と聞いた。
「おまじないか何かですか?」
笑いながら聞く彼女に、爽はラックに目をやってからカップに視線を戻し、寂しそうに笑って答えた。
「あれは妻…、…智花のだから」
「! ごめんなさい」
「いいよ。自分でも馬鹿馬鹿しいと思ってる。箱にでも仕舞って物入に入れるか、彼女のご両親に送るか、何なら売ってしまうとか捨てしまうとかすればいいんだけどさ、手元に置いておきたくて、でも、見る度に思い出してしまって、それであんな置き方になってる。おかしいだろ?」
「いえ、そんなことは―」
小出は何と返して良いか分からず言葉に詰まる。
「智花と撮った写真、彼女が好きだった絵葉書、飾ってあったものはみんなしまっちゃったんだ」
だからラックが所々抜けたようになっているのか。
小出は理由が分かり、胸が痛くなった。
そして、2脚の椅子が向かい合わせに置かれているのに、片方が本で埋まっている理由も察してしまった。
きっと、妻だった人が座っていた椅子なのだろう。
爽の正面には彼女がいたのだ。
しかし、彼女が亡くなり、誰も座らない椅子だけが残った。
空っぽの椅子を見ながらの食事は、味気なかった、いや、辛かったのではないだろうか。
彼女が戻ってこないことを思い知らされる日常の一コマが、毎日あるのはたまらない。
だからその空間を本で、雑誌で埋めた。
存在意義を失った椅子に、存在理由を与えて、目的を与えた。
きっとディスクと同じ理由で処分できなかったのだろう。
捨てたい、捨てたくない、そのどちらの思いをも選べず、出した折衷案がこれだったのだ。
小出は爽の辛さ、苦しさ、毎日ここで暮らす苦悩に思い至り言葉を失った。
「小出が泣くことないだろ」
知らぬ間に涙をこぼしていたらしい。
小出は慌てて目元を拭った。
「俺はね、全然予想がつかないんだ。自分が将来、智花を忘れるのか、忘れないのか。そもそも今、現時点での気持ちすらわかってない。忘れたいと願ってるのか、忘れたくないと思ってるのか」
それ以上は言わないが、小出にはこう聞こえた。
“こんなふらふらした気持ちの俺を小出は受け入れられるのか?”と。
覚悟はしていた。理解しているつもりだった。
しかし想定以上だった。
こうして妻の匂いの残る家に足を踏み入れて、自分が予測していたのは小さすぎると思い知らされた。
爽が抱えるものはとても大きくて、深い。
回復しているとはいえ内包していることに変わりはない。
爽は自分自身の弱さを隠すタイプだ。
ましてや相手の負担になりそうだと思えば、余計に隠す性格だ。
隠し事は無い方がいい。
でも、全てさらけ出されたら耐えられるか?
では、自分が弱くなければいいのか?
強くあろうとすることはできるが、常にそうあり続けることは無理だ。
人間である以上、時には弱くなる。頼りたくなる時だってある。
それは彼には負担だろうか?
では、強い自分を演じ続けるか?
それは隠しごとと同じではないのか?
爽が好きだ。支えたいのも嘘ではない。
彼の誠実さは尊敬に値すると思っている。
話していて楽しいし、飽きない。
もっと一緒に過ごしたいと思った。
もっともっと一緒にいたいと思った。
だから付き合いたいと告げた。
一緒にいる時間が欲しいから結婚も夢想している。
しかし、それは甘いのか?
「小出」
ティッシュを渡され、数枚引き抜いて顔を覆う。
「泣いてくれるなんて優しいんだな」
この優しさに甘えていいのか?
爽はさらにティッシュを取って丸める小出の様子を見ながら考える。
つけこんで頼っていいのか?
それは小出を圧し潰すことにならないか?
それは避けたい。
でも手加減できるのか?
落ち込んだ時、思い切り寄りかからないようにできるか?
そんなこと考えずに全部を預けてしまえるのは―。
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