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初恋結ぶ愛の花冠
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高いところで一つに結わえられた黒髪が激しい動きにたなびいている。
肩を怒らせ、石畳を走ってくる八歳の少年は眉を吊り上げ、鋭い声を放った。
「何をしているっ」
厳しい口調だ。しかしまだ少年期特有の甲高い声である。しかし悪さをしていた三人の少年たちは動揺を持ってその言葉を受け止めた。彼らは少し狼狽え、互いに気まずそうに、素早く視線を合わせた。
三人のうち、一際、豪奢な服装の少年が代表して口を開いた。眉を吊り上げたまま、サリネは鋭い目線をそちらへ向ける。
「サリネ兄様、これは……違うんです、俺たちは手伝おうとしていただけで」
この状況ではあまりにも苦しい言い訳であった。これ以上聞く価値がないと判断し、サリネは途中で言葉を遮る。
「うるさいっ、ならばなぜ咲いている花を引き千切り、その者へ投げているのかわけを述べよ、愚かな弟とその取り巻きたちめ」
三人はみな一様に口を噤む。
サリネには三人ほどの少年たちが、頭を抱えて地面に蹲る、豊かな金髪を持つ華奢な少女に向けて引き千切った花を投げつけているように見えている。
大方、弟の残酷でたわいも無いいじめだろう。だがそれを『皇子だから』と言って大めに見る、という選択肢はサリネにはない。
蹲っていた少女が顔をあげ、近寄るサリネを見上げた。
ここは中庭で、背の高い建物に囲まれているものの、日差しがよく入ってきている。花が散らされ、絡まった少女の金髪から雫が垂れ、それが髪色と同じく金色に反射する。
晴天の空からそのまま色を落とし込んだように美しい水色の瞳からはまだ涙が流れ、土や泥で汚れた頰を濡らしていた。癖のある長い髪には投げつけられた花びらの残骸が絡まり、白いシャツは砂や水で汚れている。きっと彼女は植物の世話がしやすいよう、普段から動きやすい格好をしているのだろう。ズボンは踝あたりで裾を丸めて、サスペンダーで吊っている。南国育ちのサリネから見れば、その服装は北方の国特有のものに見えた。サリネの国では一年中乾いた暑さが続くので、男女ともに緩く、風通しの良い服を着る。
サリネは駆け寄り、懐から出したハンカチで涙や、顔についた砂を拭ってやった。また身体が震えていたので、自分が着ていた上着を肩にかけてやる。
しかし少女は泣き止まない。新たに溢れてきた涙を見て、サリネはまたかっとなり、声を荒げた。
「誰かをいじめて泣かせるなど、それでもお前はメア・ドゥリースの皇族かっ、セラムっ」
セラム、と名指しで呼ばれた少年は顔を真っ赤にした。そして、しばらく経つと震える唇を開く。
「う、うるさいっ、サリネ兄様なんか、兄様なんか、オメガのくせに……」
「それがどうしたっ!」
今日一番の怒声が辺りに響き渡った。白亜の開放的な城の壁に言葉が反響している。サリネの大きな声に反応して、サリネ以外のこの場の全員が身体を一瞬びくつかせた。
「私がオメガだから何だと言うのだっ、他人の大切なものを踏みじり、泣かせるお前たちは最低だっ」
サリネは立ち上がり、セラムの方へ詰め寄っていく。そして胸ぐらを掴み、地面へと突き飛ばした。
「私がこれ以上お前たちに危害を加えないうちに立ち去れ、そして私の名の下、お前たちがここに近づくことを禁止する、ほらっ、行けっ!」
セラムは急いで立ち上がり、踵を返して逃げていく。取り巻きたちもなんだかんだと言いながらも、セラムを追いかけていき、すぐに姿が見えなくなった。
三人がいなくなり、サリネはまだ蹲っている少女へ再び近づく。
そして膝をつき、首を垂れ、謝罪した。
「私の愚弟たちが申し訳ないことをしてしまった。だが、彼らはここにはもう近づかないだろうし、貴方の大切な花たちにも手を出さないだろう。こんなことを言うのは烏滸がましいのかもしれないが、どうか寛大な心で許して欲しい。すまなかった」
「あ、頭を上げて……くださいっ」
その時、初めて少女が口を開いた。可愛らしく、線の細い声だが掠れている。メア・ドゥリース帝国は開かれた国風で、他国からの留学生が多い。この少女も何かの学問を修めに来たどこかの国の姫なのだろう。
サリネの頭を起こそうとしているが、サリネは動こうとしない。彼女が許すまで、頭を下げているつもりだ。
「ゆ、許しますっ、許しますからどうか頭を上げてください」
「ありがとうございます、貴方の砂漠のように広く、寛大な心に感謝します」
許しが出たので、サリネは立ち上がる。そして、少女越しに無残にも荒らされてしまった花壇を見た。
サリネは眉を顰めた。
「愚弟の失態は兄である私の責任だ、貴方の美しい花壇が元通りになるまで、私もお手伝いします」
「そこまでして頂かなくても」
「いえ、ぜひやらせてほしい。このままでは私の気持ちも済まない」
サリネはまだ困惑している少女の手を取り、淡い水色の瞳をじっと見つめた。
「私はメア・ドゥリース帝国、第五皇子のサリネと申します。これからよろしくお願いしますね」
少女は名乗るのも忘れて、あどけなく白い頬を薔薇色に染め、惚けたようにサリネを見つめている。不躾に女性に対して名前や年齢を聞いてはいけない、と母から教えられていた。なのでサリネはそれ以上は何も聞かず、彼女の美しい顔に笑いかけると、花壇の方へ促した。
荒らされた花壇はサリネの協力もあり、一週間ほどで元通りになった。枯れてしまった植物は新しいものを貰い、新たに植え直したり、柵を立てかけて、容易に人が中へ入り込まないように工夫をする。
花壇はサリネが母と住む後宮の一角からはほど近いところにある。なので毎日通い、サリネは少女と親交を深めていった。
そして互いに花や植物が好きという共通点もある。二人が仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
いつものようにサリネが例の花壇に向かう。すると少女が座り込んでいるのが見えた。
こちらからは後ろ姿しか見えないが、俯き、肩が震えている。
(まさか、またセラムたちが……っ)
小走りで駆け寄り、まず花壇を確認した。
荒らされたり、壊されたりしている様子は無い。やっと咲いたばかりの晴蘭花は昨日と同じように美しく、黄色く咲き誇っている。ちなみにこの晴蘭花はメア・ドゥリース帝国固有の種で、サリネの紋章にも使われているが、栽培はとても難しい。花を咲かせるとなると、それなりの技術が必要であるので、サリネはまさか他国の者が咲かせられるとは思ってもみなかったので驚いた。
彼女の花や植物に関する知識は本物なのだ。
「姫、どうかされましたか?」
サリネは横に座り、優しく声をかけた。どうやらサリネが近づいてきたことに気がつかなかったらしい。大袈裟に少女の肩が跳ね、その勢いで顔を上げた。
「サリネ様……」
泣きすぎたのか、目が赤く腫れている。グスグスと鼻を鳴らしており、サリネは少女が口を開くまで辛抱強く待った。
「明日、国に……シャルパンティエに帰らねばならないのです」
可愛らしい声がしゃがれて、低くなっている。おそらく泣き過ぎて、喉を痛めたのだろう。
シャルパンティエといえば北方にある冬が長い雪国である。こことは正反対の気候の場所だと聞いたことがあった。
「急にまた、どうして」
「兄がオメガであることがわかり、ぼ……わ、私はすぐに帰国しろ、とお父様とお母様が……」
この世界には男女の性の他にアルファ、ベータ、オメガというバース性がある。
アルファは支配階級の性で、サリネの兄弟はサリネ以外は全員アルファだ。男性のアルファは女性や男性オメガを孕ませることができる。
ベータは被支配者階級の性で、一番人口が多い。
オメガは男性であっても孕むことのできる性だ。
また、どこの国でもオメガに王位継承権はない。それはオメガの発情期が関係している。三ヶ月に一度、人によっては一ヶ月に一度、期間は一週間くらい、発情期と呼ばれるものがやってくる。その間、仕事どころか日常生活さえままならなくなってしまうため、男性だろうと、女性だろうとオメガには基本的に王位継承権は与えられないのだ。
もちろんオメガのサリネにも王位継承権はなかった。なので、兄や弟たちが名乗っている姓も与えられていない。いづれ名家のアルファの元へ婿養子もしくは嫁入りすることが決まっているからだ。
サリネにも一応、親が決めた許嫁がいる。五歳年上のエレアザールという大貴族の貴公子だ。だが、サリネはどうしてもエレアザールが好きになれず、大人になってから断ろうと考えていた。
「失礼ですが、姫、貴方のバース性は?」
「ア、アルファ、です」
それならば女王として立てられるのかもしれない。それでも自分の望まない、親が決めた相手と結婚をしなければならないだろう。
「私は、国には帰りたくありません……、もっと花や植物の研究をして、大学で学問を修め、いずれは研究者として名を馳せたいと思っていました。昨日やっと栽培が難しい晴蘭花を貴方と一緒に咲かせることができたのに、国に帰ればそれも全て意味がなくなってしまうっ、帰りたくない、国なんか継ぎたくないっ」
とりつく島がないほど泣き始めた。膝に顔を埋め、大声を上げている。
流石のサリネも困り果ててしまった。
ふと、少女から視線を外し、花壇を見やる。
晴蘭花だけでなく、二人で工夫して育てた様々な花や植物が灼けつくような日差しを照り返し、力強く咲き誇っている。その逞しく、生命力に溢れた様子と少女が泣いている様子を交互に見比べ、サリネは立ち上がった。
二人で育てた花を茎から長めにして千切る。そして何本か、それを手に握り、再び横に座るとそれらを交差させ、組み合わせて器用にも編み込み始めた。
黄色い花は彼女の髪を、青や緑色は彼女の瞳をそれぞれ表す。いつの間にか少女もサリネの手元をじっと見つめていた。
「よし」
最後に一輪、大きめの晴蘭花を差し込んだ。
そしてサリネはでき上がった花冠を少女の頭に恭しく、優しくのせた。
「聡明で、可愛らしい貴方に泣き顔は似合いません。どうかこの晴蘭花が咲いた時のように、花のように愛らしく、太陽のように眩しくずっと笑っていてほしい」
少女は頭を押さえた。指にサリネが捧げた花冠があたり、ハッとした顔になる。そして顔を赤らめた。何事か言おうと、何度か口を開くが、言葉になっていない。
その様子を見てサリネまで照れてくる。
そしてこの少女に国へ帰ってほしくない、という気持ちが出てきた。
これでさよならなんかしたくない。もっと一緒にいて、植物を育てたり、花の話をしたり、色々なことをしてみたい。
しかし、国の決定にまだ何の力もないサリネも少女も逆らえるわけがない。
初めから叶うわけがない思いだとわかり、自覚した思いを隠すようにサリネは言葉を続けた。
「国に帰り、望まない人生を歩まなければならないとしてもどうか悲観しないで。どうしてもダメだと思ったら私を呼んでください」
サリネは自分が緊張しているのを感じた。誰かにこんなことを言うのも初めてだったからだ。
「私が貴方を拐いに行きます、そして砂漠のどこか、まだ誰にも見つかっていないオアシスで、二人きり、花を咲かせましょう」
金色の前髪を指で梳きながら左右に分ける。出てきた白い額に、サリネはそっと唇を押し当てた。
「断固拒否します、私は会ったこともないような見知らぬ王などとは結婚しない」
吐き捨てるように言うと、乱暴に扉を開け、部屋から退出する。
石造りの王宮の一室から背の高い美丈夫が出てきた。そのまま後ろも振り向かず、白亜の長い廊下をかつかつと足音を鳴らしながら歩いていく。
年は十八。この国ではもう成人として見做される年齢だ。髪は黒々としていて、頭の高いところで一つ結えられ、歩くたびに揺れている。根本に金色の髪留めをつけており、時折それが高窓から差し込む陽光に反射すると、白い壁に金色の影を作った。
サリネはわざと音を立てて歩いている。子供っぽい仕草だと分かっていながらも、直そうとは思わなかった。
それを追いかけるようにして、部屋から小柄な男性が慌てて出てきた。男性はサリネの母親だ。そしてサリネと同じオメガ男性である。
「待って、サリネちゃん」
「いくら母上からの要望とはいえ、私にも我慢できることとできないこととある」
「僕じゃないっ、陛下からなのっ」
サリネの長い上着の裾を追いかけてきた母が掴んだ。
後ろから引っ張られたサリネは足を止めた。だが反抗心から、すぐに振り返ることはしない。
「シャルパンティエの国王は若いし、優しいし、かっこいいって有名だよ? それにアルファだし、国も豊かだし、お金もあるから……」
「そういう問題ではありません」
「エレアザールくんとの婚約も破談にしちゃったし……、サリネちゃんはどうしたいの? 誰か好きな人でもいるのかな?」
横目で外を見ると、整備された庭には色とりどりの花が咲き乱れている。ちくりと心に痛みを感じ、それを隠すようにしてサリネは否定の言葉を放った。
「そのような人はおりません、だが私の人生だ、伴侶ぐらい私に選ばせてもらいたい」
一息に言い終えるとサリネはようやく振り返った。母のサロメは長身のサリネよりも十センチ以上背が低い。典型的なオメガの体つきで、小さく丸く、庇護欲をそそられるような雰囲気だ。
それに対して、息子のサリネはオメガにしては長身で、体つきも母ほどは小さくはなく、堂々とした態度と相まり、どこか攻撃的な印象を受ける。
顔を俯かせ、目線を合わせると、サリネと同じ黒い瞳が泣きそうに揺れていた。
「なるべくなら、そうしてあげたいけれど……」
母であるサロメは元は準妃の後宮官、食事係だった。当時は皇太子であった父に見初められたものの、大した後ろ盾もなく、また身分が低いため、後宮にあげられても位すら与えられていない愛妾の立場に甘んじてきた。だが、それに文句を言うことなく、後宮の一角で細々とサリネを育ててきたのだ。なので、サリネには乳母がいない。
後宮で身分の低い母が苦労していたことは知っている。なるべくなら母に苦労や心配はさせたくない。だが、オメガに生まれたからと言って、国同士の利権や思惑に巻き込まれ、政権の道具にはなりたくなかった。
シャルパンティエ王国とサリネの祖国であるメア・ドゥリース帝国は現在、友好的な関係を結んでいる。
シャルパンティエ王国は国土の七割ほどが山岳地帯で冬が長く厳しい。だがその山岳地帯には多くのレアメタルと化石燃料が眠っており、それらの輸出で国が潤っていた。
逆にメア・ドゥリース帝国は一年中真夏と言っても過言ではないくらい暖かい気候で、過ごしやすいものの、化石燃料などの資源に乏しい。よってそのほとんどをシャルパンティエ王国からの輸入に頼っている。
隣国で、世界を揺るがしかねない戦争が始まろうとしており、依然、世界情勢はきな臭い匂いを漂わせている。
メア・ドゥリース帝国としては資源の輸入国であるシャルパンティエ王国と友好な関係を結んでおきたいのだろう。
もし両国間の関係が悪くなれば、資源の輸出がストップするかもしれない。それはメア・ドゥリース帝国にとっては避けたいことだ。
そこで今回の婚姻の話が出た。
その見えすいた国同士の露骨な思惑が気に食わないと思ってしまう一因であった。
現在、サリネの兄弟は九人いるが、サリネ以外全員アルファだ。サリネは五男で、上に四人と下に四人といる。
シャルパンティエ王国のニコラス国王は四歳年上のアルファだと聞いている。アルファ同士で結婚できなくもないが、今回は消去法でオメガのサリネが選ばれただけだろう。
特に望まれてもいないのだ。
サリネは唇を噛み締める。再び踵を返し、立ち去ろうとした。
「自室に帰ります、読みたい本がありますので」
「あっ、待って、待っててばっ、あぁっ」
「こらサリネ、サロメをあまり悲しませるな」
眉を顰めた。今、一番会いたくない人物が後ろにいることがわかり、少し躊躇った。だが無視することはできない。
「父上」
意を決して振り返る。視線の先には転けた母を支え、腰に手を回す、焦げた赤茶色の髪の男がいる。
「陛下っ……」
母はもう父の顔しか見ていない。うっとりと見上げ、その手に身を任せていた。
それを見てカッとなった。母が寂しい思いをしてきたほとんどの原因はこの男だ。なのに母は父、メア・ドゥリース帝国の皇帝のことをずっと一途に愛し続けている。
頭に血が昇る。子をたくさん為すのは皇帝の役割とわかってはいるものの、愛人や妃を多く取る父のことはあまり好きにはなれなかった。
「父上、この際だからはっきりと申しておきましょう。私は資源確保のための道具ではない。よって会ったこともない国王の妻になどなりません」
私は男だぞ、という気持ちもサリネにはある。男の身でどうして男の妻になどならなければならない。オメガだとしても、だ。だがそれは母を前にしては決して言えないことであった。
「先方がお前を指名してきたんだ、ぜひ妻として、正妃として迎えたい、と」
「正妃っ⁉︎」
驚きの声をあげたのは母だった。オメガが正妃として迎えられるなんてなかなかあることではない。
「そんなことを言われても私の気持ちは変わりません。私は知らない男の妻にも妃にもならない、なりたくない」
「ったく、この激しい気性は誰に似たんだ。サロメはこんなにも大人しくて、聞き分けも良いのに」
ぎり、と奥歯を噛む。母はそうしないと生きていけなかったから、大人しく、聞き分けが良いだけだ。
アルファ特有の無知さが更にサリネを苛立たせる。元婚約者のエレアザールも同じだ。
アルファ、特にアルファの男は自分の性別にあぐらをかき、他の者たちがどんな風に感じているのかを考えもしない。
「何を言われても、私の気持ちは変わりません。失礼します」
これ以上、話をしても無駄だと思い、サリネは自室に帰ろうとした。
「ああ、帰る場所はないぞ」
「は?」
サリネは父の言葉に動きを止めた。
「駄々を捏ねるのはわかっていたことだ、先手を打って、お前がいない間に荷物は全て運び出してまとめておいた、今日はサロメの屋敷の母屋で寝ろ」
まさか、と思い、母を睨みつけると、気まずそうに目を逸らしている。母と父はおそらくグルだ。
「謀ったな……っ」
最早、敬語を使うことすら忘れ、相手が父とはいえ、メア・ドゥリース帝国の皇帝であることも頭から抜け落ちている。
サリネが眉を吊り上げ、怒りに肩を震わせたときだった。
「サリネ、俺たちは皇族だ、今は国同士の話をしている。そこに皇族で、俺の血を引くお前の気持ちが介在する余地はあると思うのか?」
父の言葉に声が詰まり、何も言えなかった。父は、サリネは私人としてではなく、公人としてシャルパンティエ王国へ行くのだ、と言っている。常日頃、皇族としての役割を果たせ、と弟たちにサリネが言い含めていることと同じことだった。
この場合、皇族としての役割を果たさず、駄々をこねているのはサリネということになる。
残念ながら、父の言うことは正しかった。
「出発は明後日だ、先方にも既に連絡してある」
「そんな、早すぎませんか陛下っ」
「サロメ」
流石に抗議の声を上げた母に対して、父が何か耳打ちしている。それを聞き、母はうんうん、と頷いていた。
「サリネ、大丈夫だ、俺が選んだ男だ」
父の言葉にサリネは思い切り眉を顰めた。
(何が、『俺が選んだ』だっ、さっき先方が私を指名してきた、と言ったばかりだろうっ)
父のこういう適当なところも好かない。だが部屋を片付けられ、もう行くと返事をしてしまったのだから、サリネはシャルパンティエ王国に行くしかない。
「……わかりました、母上の屋敷でしばらくお世話になります」
今度こそ踵を返し、二人に背を向け、廊下を歩いていく。
「夜、本屋敷の方へは近づくなよ、今夜どうだ? サロメ」
「サリネちゃんの前でやめてくださいっ、陛下っ」
この後に及んで、両親の色ボケた会話なんか聞きたくない。
更なる怒りと苛立ちを募らせ、サリネは小走りでその場を去った。
出発の日は嘘のように晴れていた。メア・ドゥリース帝国の気候のいいところを全て凝縮したような天気で、からりと晴れ、湿度が低く、風が優しくそよいでいる。
それとは裏腹にサリネの気持ちはどんよりと曇っている。
「そんな不貞腐れていたら美しい容姿が台無しだぞ、サリネ」
「黙れ、エレアザール」
なぜこんな日に元婚約者であるお前が見送りに来るのだ、という気持ちを隠そうともせず、サリネは更に不機嫌そうな表情をした。
「だけど、よく考えたら美人の不機嫌な顔っていうのは、一種のご褒美みたいなもんだな」
「お車にお乗りください、サリネ様」
エレアザールを遮るように従者のラヴィがサリネを車両に促す。エレアザールを無視し、前部にメア・ドゥリース帝国の帝章とシャルパンティエ王国の国章がついている車両にサリネは乗り込む。
後部座席に座ると、外からエレアザールに車窓をコツン、と叩かれた。ガラス越しに目が合う。エレアザールはジェスチャーで窓を開けてくれ、と示している。無視しようと思ったのだが、もう会えるのは最後かもしれないと思い、サリネは窓を開けた。
「サリネ、ニコラスはいい奴だ、だから大丈夫だ、お前のことを幸せにしてくれる絶対に」
「はあ、わかった」
エレアザールはなぜシャルパンティエ王国の国王で、サリネの夫となるニコラスのことを知っているのだろう。
それにサリネは幼い頃、留学で来ていたシャルパンティエ王国の姫と共に花や植物を育てていたことがある。
思えばあれはサリネの初恋だった。美しい金髪の姫君が帰国した後、どうなったのかは知らない。みんなそんな姫などいなかった、と言っており、煙に包まれたかのような気持ちだった。
どうやらエレアザールはシャルパンティエの国王と知り合いらしいし、もしかしたら姫についても知っているかもしれない。
国王のことや金髪の姫のことを尋ねようとした時、ラヴィが車の窓を閉めた。サリネが困っていると思ったのだろう。
ラヴィはサリネ付きの従者だ。シャルパンティエ王国へ一人だけ連れていっても良い、と言われ、サリネはラヴィを選び、ラヴィも快諾してくれた。
この車両の運転手もラヴィが努める。
無理に開けてもらう必要もない、と思い、サリネもラヴィに何も指示をしなかった。
母と父、兄や弟たち、仕えてくれた侍女たち、そしてエレアザールが旅立っていくサリネに向けて手を振っている。本当は首都の大通りをパレードのようにしながら行く予定だったが、サリネは拒否した。
一人息子との別れが悲しくて、立っていられないのか、時折よろけそうになっている母を父が支えているのを目ざとく見つけた。
サリネはそれを若干冷ややかな視線をで見ていた。
母のことは尊敬しているし、感謝している。だが、母のようにアルファに縋らなければ生きていけないようにはなりたくない。
やがて歓声が過ぎ去り、静かな道を車は進む。
「ラヴィ、私は到着するまで休んでいる」
「かしこまりました」
背もたれに頭までつけ、目を閉じた。車両の振動が気持ちよく、いい具合に眠気を誘ってくる。
サリネは不安な気持ちを押し隠すようにして、目を閉じ、微睡に身を任せようとした。
車両を変え、鉄道も使い、サリネがようやく辿り着いたのは日もすっかり暮れ、晩に差し掛かった頃であった。
長時間の移動ですっかり疲れてしまったが、夫であるニコラスとの会食が入っている。そこで初めて本物のニコラスと対面をする。
シャルパンティエ王国には一度も来たことがない。知識としてどのような国かは知ってはいたものの、やはり初めて足を踏み入れ、祖国とのギャップには驚かざるえなかった。
まず城の造りが全く違った。メア・ドゥリース帝国では風通しを良くするため、開放的な造りで、部屋の窓も大きかったのだが、シャルパンティエ王国の王宮はとても閉鎖的だ。堅固な要塞と言った雰囲気が出ており、室内はとても暗い。
もう一つはとても寒いことだった。冬が長く厳しいと聞いていたが、今は夏である。なのに日が落ちかけてくると、長袖の上にもう一つ何か羽織らないと寒くて仕方ない。
毛足の長い絨毯の敷かれた廊下を歩きながら、サリネは顔を顰める。
何もかもが違う場所で、誰にも頼れず、サリネは一人生きていかねばならない。
ここに上手く順応できるのか、不安で仕方なかった。
しかし、案内された屋敷をサリネは意外にもとても気に入った。
「ここが寝室ですわ」
侍女の一人が戸を開けてくれたので、礼を言ってからサリネは中へ入る。使用人が先回りして準備をしておくのが当たり前だ、と思っている兄弟もいたが、サリネはきちんとお礼を言うようにしていた。それも母の影響が大きい。
南向きの部屋で大きな窓が設置されている。今はまだ暗いが、日が出れば暖かい日差しが部屋の中へ降り注ぐだろう。
また部屋の中は適温に保たれており、廊下や外にいる時ほど寒い思いはしなかった。
侍女たちがサリネの着替えやシャワーを手伝おうとしてくれたが、それを断った。時間になったら呼びに来てほしい、と言い含め、早々に部屋から追い出す。困惑している侍女たちの顔を見て、罪悪感が少し募ったものの、単純に疲れていた。一人になりたかったのだ。
軽くシャワーを浴び、着替える。
事前にラヴィが用意してくれていた白色のジャケットとズボンのセットアップを着用する。七部丈のズボンからは白い足首が見えていた。
そして黒く長い髪を一つに結わえる髪留めは淡い紫色にした。紫色はシャルパンティエ王国の国章の色だからだ。
寒いと思い、黒色の上着を羽織ったものの、上着だけ浮いているように思えてしまい、すぐに脱いでしまった。
代わりに自分の紋章である晴蘭花のブローチをジャケットの胸元につけた。
部屋に立てかけられた姿見の前で自分の姿をチェックする。
変に着飾るのも良くないと思い、シンプルな出立ちにした。すっきりとしていて、良く似合っている。
ちなみにラヴィはベータ男性であるので、サリネの屋敷へは入ることができない。
それもサリネの不安を加速させる原因の一つだった。だがシャルパンティエ王国にはシャルパンティエ王国のやり方がある。
準備が終わり、大きめのベッドに座り、ぼうっと外を眺めた。黒々とした山が遠くに見えた。あの山を越えてやってきた。サリネの祖国はその山のずっと向こうにある。
「随分、遠くまで来てしまったものだ」
ため息をつくと、こんこんと戸を叩かれた。時計を確認すると、言われていた時間だった。 侍女の一人が呼びに来たのだ。
「奥様、お時間ですわ……、まあ素晴らしい。キリッとしていらっしゃる奥様にタイトな白のセットアップは似合っていますわね、髪飾りもとても綺麗。これなら陛下もきっと気に入ってくださるはず」
中年のこの侍女はきっとおしゃべりなのだろう。
容姿を褒められるのには慣れているが、やはり何度言われても悪い気はしない。だがニコラスが気にいるかどうかはサリネにとってはどうでも良かった。
「ありがとう、案内してくれ」
サリネは一度、深呼吸をしてから立ち上がった。
シャルパンティエ王国の寒さを舐めていた、としか言いようがなかった。
サリネは黒い上着を着てこなかったことを早くも後悔し始めた。寒くて仕方なかった。だが身を縮こまらせ、腕で自分の身体を抱きながら移動するなんてみっともないことはできない。
無理矢理背筋を伸ばし、痩せ我慢をしている。侍女に上着を取ってきて欲しい、と言えば良かったのだが、なかなかそれも言いづらい。先ほどのおしゃべりな侍女は交代してしまった。こんな時に限って、ラヴィはいない。運ばれてきたサリネの荷物の片付けをしている。
(寒いっ、なんだこの国はっ)
暖かい気候で育ってきたサリネは自分が寒さに弱いことを初めて知った。移動しながら廊下で聞き耳を立てていると、今日は暖かいなんて会話が聞こえてきて、思わず驚愕する。シャルパンティエ王国の人間はどうやら寒さにかなり強いらしい。
「どうぞ、陛下がお待ちです」
侍女たちは部屋の中には入らないらしい。大きな扉を両側から開けてくれる。
「ありがとう」
サリネは部屋の中に足を踏み入れた。緊張して、感じていた寒さを一瞬だけ忘れた。この部屋にはサリネの夫となる男性がいるのだ。
おそらく客間の一つであろう部屋の真ん中には男性が立っていた。美しい金色の髪は短く整えられ、見る者に清潔感を与える。少しうねった前髪が一房、額にはみ出ているが、だらしない感じはせず、妙な色気を与えていた。
背の高い金髪の美丈夫は、黒色のタキシードを着用しており、サリネを見て、薄い水色の瞳を心底嬉しいとでも言うように細めた。
「ようこそ、やっとおいでくださいましたねサリネ様」
「初めまして、私はメア・ドゥリース帝国第五皇子のサリネ=サロメです」
初めまして、と言ったとき、男性の表情が僅かに揺れたような気がする。一瞬だけ、表情が強張ったように見えた。
だが気のせいだろう。男性とサリネは初対面だ。会ったことはない。
幼い頃出会った、あの金髪の少女しかシャルパンティエ王国に知り合いはいない。
「……僕はシャルパンティエ王国第十五代国王のニコラス・ジョルジュ・シャルパンティエです。お疲れでしょう、どうぞお座りください」
表情は元に戻っている。
促され、サリネは席についた。緊張でぎこちない動きになってしまったが、ニコラスはにこにことサリネを見ている。サリネの正面に座り、機嫌が良さそうに目を細めていた。
「何を飲みますか? お酒にされますか?」
「いいえ……、お酒はやめておきます。何か暖かいものが飲みたい。とにかくこの国は寒くて仕方ないので」
「ならホットティーにしましょう。ゼスター、ホットティーを頼むよ、僕も飲むからね」
「かしこまりました」
ゼスターと呼ばれた男性の使用人はすぐにポットとティーカップを二つ運んでくる。
ニコラスは立ち上がり、それらを受け取った。
「いいよ、僕が淹れる。トレーごと貸してくれないか?」
「かしこまりました」
ゼスターはニコラスにトレーごと渡すと、すぐに下がった。
そしてニコラス自らティーカップをサリネの右側に置き、ポットからお茶を注ぎ始めた。
それを見て、サリネははっとする。
「あ、陛下、わ、私がいれます」
国王陛下にお茶を淹れさせるなんて、メア・ドゥリース帝国から来た皇子は何と礼儀知らずなのだろう、と悪口を言われてしまうかもしれない。サリネは慌てて立ち上がろうとした。
「いいえ、座っていてください。僕がしたくてしているだけですよ、気にする必要はありません」
優しい言葉で諭されると、それ以上動けなくなってしまう。使用人も何も言わないので、もしかしたらこれは日常なのかもしれない。
だが、サリネはしおしおと身体を縮こまらせてしまった。
初対面のアルファの一挙一動に気分が上がり下がりするなど、自分らしくない。
「さあどうぞ飲んで、温かいうちに」
促され、ティーカップを口元へ持っていく。香りはとてもいい。口に含むと、独特の苦味と共にじんわりと暖かさが身体に染み渡った。
「美味しい」
「お口に合って良かった、僕も頂きます」
紅茶のおかげで緊張が少しほぐれる。
「ブローチ、晴蘭花でしょう? 貴方の紋章にもなっている。とても美しい花だ」
「知っているのですか?」
「ええ、昔、少年だった頃に少しの間、メアへ留学していたのですよ、その頃の夢は植物学者でした。国王になってしまったので、その夢は諦めましたが、今も趣味程度で花を育てています」
メア・ドゥリース帝国には他国からたくさんの留学生が来ていた。ニコラスもその内の一人だったのだろう。
晴蘭花もその時に見たに違いない。
何となく、あの少女とニコラスは兄妹なのかもしれないと思った。姉なのかもしれないが。
髪の色や目の色があの時の少女と同じだ。それに植物を研究したい、という夢も同じである。
「サリネ様は花がお好きでしたよね? また落ち着きましたら、僕の温室にいらしてください」
「お気遣い、ありがとうございます」
短い食事の時間だけでは、二人の間に流れるぎこちない空気感は終始拭うことはできなかった。
食事が運ばれてきても、緊張で味のことは記憶にない。美味しかったのかどうかもサリネは思い出せなかった。ただ疲れていて、早く横になりたい、と思っていたが、それを態度に出すことは意地でも絶対にしなかった。
送っていく、と言うニコラスの申し出を断り、食事後サリネは侍女と共に自室へと帰った。
長時間の移動と気疲れで、とても体調が悪い。部屋に帰ると、気絶するようにしてサリネは眠ってしまった。
身体中に香油を塗られ、ベタベタしていて気持ち悪い。自分からする人工的な甘ったるい香りが嫌で仕方ない。
部屋の中をうろうろとしている。髪はおろしていたものの、またいつものように一つに括ってしまった。
初夜だと言われ、落ち着いていられるはずがない。
今夜、サリネはニコラスに抱かれるのだ。
シャルパンティエ王国に来て二週間。ようやく婚儀を終え、ニコラスとサリネは夫婦となった。サリネはニコラスの正妃となる。以前は姓を持たなかったが、これからサリネはシャルパンティエ姓を名乗ることになる。
婚儀は祖国から母とすぐ下の弟であるセラムが来ていた。日程の関係で夜まではいられないものの、二人と久しぶりに言葉を交わすことができ、とても嬉しかった。
婚儀の次は貴賓を集めた会食、パーティに参加した。実質、今日がサリネのお披露目会となる。よって、挨拶にくる貴族やら国の有力者やら、何やらと笑顔で言葉を交わし、さばいた。
横にはニコラスがいて、何かと気使ってくれたが、弱みは見せられないと思い、無理をして笑っていた。
「あぁ、もう」
その時のことを思い出し、サリネは頭を掻き毟りたくなる。
(どいつもこいつも『妻』扱いしやがって、私は男だぞ)
当たり前の話であるのだが、皆、サリネに対して『ニコラスの妻』として接していた。それが妙に気に食わない。オメガであれば男性であっても子が産めるので、サリネが男性であることはあまり気にされていないように感じた。
だがオメガとはいえ、男性だ。やったことはないが、やろうと思えば女性を抱くことだってできる。なのになぜ同性に身を委ねなければならないのだろう。
答えは簡単だ。サリネがニコラスの正妃、妻だからである。
「あぁ怖いさ、認める。私は自分と同性である男性に抱かれるのが怖いんだ……」
エレアザールとの婚約を破棄したのもそういう原因が一枚噛んでいる。必死で自分の中のオメガという性を他人に意識させないように生きてきた。自分はアルファには支配されない、性別には支配されない、と懸命に頑張ってきたのに、結局はアルファに抱かれなければならない状況になっている。
発情期だって薬で抑えてきた。それなのにシャルパンティエ王国では薬は飲んでいない。侍女に尋ねたら、『お世継ぎはお作りにならないのですか?』と不思議そうな顔で聞き返され、それ以上何も言えなかった。
「私はメア・ドゥリース帝国の第五皇子だ、皇族なんだ、そしてシャルパンティエの国王の妻だ、子供を作るためにここにいるんだ」
声に出して言ってみたものの、その事実が重くのしかかっただけで、全く楽にもならず、この状況に対して、決心することもできなかった。
ならば、と思い、ニコラスのことは好きかどうか、考えてみたがわからない。まだ出会って二週間だ。ゆっくり話も出来ておらず、知らないことだらけなのに好意など持てるはずもない。
ただサリネのことを大切にしてくれているのはわかる。いつも体調や気分を気遣ってくれて、優しい言葉をかけてくれる。
この結婚はニコラスからだと聞いている。おそらくニコラスはサリネのことが好きなのだろう。
だが、サリネがその好意に応えられるかはわからなかった。
抱く側も抱かれる側も初めてだ。性行為の経験は一切無い。どうせ自分で相手を選べないのなら、せめてエレアザールに抱かれておけば良かったのかもしれない、とらしく無いことまで考え始め、自己嫌悪に陥る。
ニコラスはもうすぐやってくる。今夜部屋に行きます、と告げてきたニコラスは緊張しているように見えた。声をかけられた際、手を握られたが、若干震えていたのだ。
案外、お互いに同じような心持ちなのかもしれない。
戸が叩かれる音がやけに大きく響き、サリネは驚きで、身体を跳ねさせた。
「は、はいっ」
悲鳴をあげなかっただけマシだろう。サリネは立ち上がり、慌てて戸の側へ走っていく。 ニコラスが来てしまった。もう嫌だの何だのと拒むことは出来ない。
「こんばんは、もう休まれていましたか?」
「こんばんは陛下、いいえ、まだ起きておりました」
「部屋に入れて頂いてもよろしいですか?」
「……どうぞ」
部屋に入る許可を得たニコラスはサリネに微笑みかける。戸を閉めた後、サリネは備え付けの椅子にニコラスを促した。
今夜のニコラスは正装ではなかった。この二週間、儀式用の正装か、仕事着のスーツ姿しか見たことがなく、カジュアルな普段着という姿は初めて見る。
黒いケーブルニットの下に襟付きのシャツを着ており、そういうところからも育ちの良さが垣間見えている。。
対して、サリネは侍女が用意した服装だ。横を紐で止めているだけのゆったりしたワンピース型の寝巻き。寒いので上着を羽織っている。
何だかその落差にも間違えたのではないか、と不安になってしまう。サリネは下着さえ身につけていないのだ。
自分ばかり気が逸っているように思えて恥ずかしい。
「……お飲み物は?」
「いいえ、構いませんよ。貴方が何か飲みたいのなら、僕も同じものを頼みます」
初対面の時と同じようなことを言って、ニコラスが笑いかけている。
しかし、何か飲まないと、緊張で間が持たないかもしれない。
サリネは呼び鈴を鳴らし、宿直の侍女にハーブティーを頼む。出てきたそれをいつぞやのニコラスと同じようにトレーごと受け取り、今回はサリネがニコラスの分のハーブティーを入れた。
湯気と共にミントの香りが漂う。ニコラスの正面に腰を落ち着け、一口含んだ。
「ありがとう、いただきます」
ニコラスも同じように口をつけた。
「この二週間、とても良くして頂きありがとうございます。おかげさまで少しは慣れることができました」
怯えている、とは思われたくなかったので、サリネは真正面を向き、ニコラスを見据え、自分から話しかけた。
震えそうな右手をテーブルの下、ニコラスには見えないところで握り込む。
頭の中は『今からこの男に抱かれる』という恐怖心しか無い。けれどその恐怖心を全面に出すことは自分のプライドが許さなかった。
「そうですか、もう慣れて頂いたようで嬉しいです。メアとここでは気温がずいぶん違うでしょう、サリネ様がご不便な思いをなさらぬように王宮や後宮の中をいつもより暖かくするよう指示しております」
「えぇ、感謝いたします」
サリネはハーブティーを啜る。大好きな飲み物なのにちっとも気がおさまらない。
「可愛らしい上着ですね、刺繍が細やかで美しい。僕も欲しいな」
「これは、メアから持ってきたものです。母がシャルパンティエに嫁入りするのなら寒くないように、と作ってくださったもので」
「ああ、今日弟君と来て頂いていた方ですね、とても優しそうなお義母様でした」
「ええ、私と同じ男性のオメガです。身分が低かったので、位は与えられていませんが、後宮で苦労しながら私を育ててくれました」
そうだ、母は正妃となったサリネを見て、泣き出さんばかりに喜んでいた。サリネちゃん、サリネちゃんと何度も名前を呼んで、手を握ってくれた後、はっとした顔で、ああもうシャルパンティエの正妃だから僕みたいな妾が触っちゃいけないのかも、と慌てている表情が面白くて思わず笑ってしまったのだ。
その時ばかりはこの状況も悪くない、と思えたのだ。
「良いお母様だ、羨ましい」
ニコラスはどこか遠い目をした。
「僕の母は既に亡くなっています、小さい頃から厳しく育てられて、怖いイメージしかなくて……、でも母の怖さが愛だったのだと今ではそう考えています」
「そうですか……」
逆にサリネは母に厳しくされた記憶はあまりなかった。怖いイメージもない。
サリネのやりたいことをやりたいだけ、素直にやらせてくれた。もしかしたら、いつの日かアルファに身を任せなければいけない時がやって来るから、それまでは好きに生きてほしい、と思っていたのかもしれない。
沈黙が流れる。サリネは緩くなったハーブティーを啜った。妙に母と祖国が恋しくなった。
「……サリネ様、お側に行ってもよろしいですか?」
「……はい」
ついに来た。
サリネも椅子から立ち上がり、側に来たニコラスの真正面に立つ。
「抱きしめても?」
「え、えぇ、お好きに、どうぞ」
声が震えた。もう体面を気にしてはいられず、サリネはぎゅと目を瞑った。
正面からニコラスに抱きしめられ、サリネの緊張はもう一段階上がった。
ニコラスは背が高く、身体もサリネより大きい。すっぽりと包まれてしまう。背中に回された手の温度がやけに熱く感じた。
「好きです、愛しています、貴方が僕の妻になってくれて本当に良かった」
何か言わなければ、と思うものの、何も言葉が出てこない。身体はガチガチに固まっている。
サリネは今、自分より身体の大きいアルファに抱きしめられている。
「サリネ様……いえ、サリネ」
どきんと心臓が跳ね上がった。初めて呼び捨てで名前を呼ばれた。掠れた低い声が経験のないサリネでも欲を孕んでいることはわかる。
側にはベッドがあり、サリネはそこへ優しく押し倒された。
「あっ」
体勢が変わり、サリネは目を開ける。興奮して、少し色の濃くなった青色の瞳が真っ直ぐにサリネの視線とかち合った。
ニコラスの顔が近づいてくる。口づけをしようとしているのだと、サリネは理解した。
この口づけを受けてしまえば、そのまま性行為へと発展していくだろう。
「い、嫌だっ」
緊張と恐怖心がなけなしの意地を凌駕した瞬間、サリネはニコラスを突き飛ばした。
ニコラスは驚いた顔をして、サリネの上から退く。その傷ついた表情を見て、サリネはしまった、と思ったが、もう後には引けない。
急いでブランケットをひっ掴み、その中に入り込む。
「か、帰ってください」
「あの……サリネ様」
ブランケット越しだが、身体に手が触れられた。
(剥ぎ取られるっ)
その瞬間、恐怖心がピークに達し、サリネは大きい声を出してしまった。
「帰ってくださいっ、触らないでっ!」
慌てて口を押さえたが、もう遅い。サリネはとんでもないことを言ってしまった、と思い、顔を青ざめさせた。
ガタガタと身体が震えてくる。欲情しているアルファをひどい方法で拒否してしまったことに対しての恐怖心が迫ってきた。どれだけ優しくてもアルファはアルファだ。意に沿わないオメガがいたら、埋められない力差で迫ってくるに決まっている。
ニコラスが実力行使に出たら、無理やり襲われ、悲惨な目に遭う可能性もあるのだ。
しばらく沈黙が流れた。ふぅ、とニコラスがため息をついたのがわかる。
ニコラスが何も言わない間、サリネは何をされてしまうのか怖くて仕方がなかった。
「無理にするつもりはありません、すみませんでした。出直します」
返事をしなければ、と思うが、言葉が出て来ない。
「今日は疲れたでしょう、おやすみなさい」
絨毯を踏みしめる音がして、戸の開閉音がする。
ニコラスが出ていき、たっぷり時間が経ってからサリネはブランケットから顔を出す。
まだ心臓がドキドキしている。軽く手が震えていた。
頰が濡れているのがわかり、サリネは自分が泣いていたことにようやく気がついた。
「あぁ」
項垂れ、声と共に息を吐く。
アルファに迫られただけで、ここまで怯えてしまった。どうしようもなく自分が男性であっても所詮はオメガなのだと突きつけられてしまった。ショックでぼんやりしている。
ただサリネが突き飛ばした時、ニコラスは心底傷ついたような表情をしていたので、それだけが気に掛かっている。
翌朝、サリネを起こしにきたのは侍女ではなく、サリネの屋敷には立ち入れないはずのラヴィだった。
「なぜお前がここに?」
「さあ? 国王陛下の指示だとか。これからはここでもサリネ様のお世話をするように、と言われました」
「そうか……、そうか」
ラヴィがいるのは心強い。見知った者が側にいてくれるだけで、安心感が格段に違う。
ニコラスがラヴィの出入りを許可したのは、昨晩のことがあったからだろう。
サリネは昨晩、部屋を訪れてきたニコラスを拒否し、部屋から追い出してしまった。
まだアルファに組み敷かれたショックがせべては抜け切ってはいない。ぼうっとしていると、洗顔やら着替えやらをラヴィに急かされる。
髪を梳いてもらっていると、侍女がやってきた。
「奥様、陛下から朝食のお誘いです」
「気分じゃない、断ってくれ」
「かしこまりました」
侍女が部屋から出ていくと、ラヴィは怪訝そうな声で尋ねた。
「良いのですか? 昨晩は初夜だったのでは?」
「あぁ、初夜のはずだった」
「というと?」
「怖くなって追い出した」
髪を結わえているラヴィの手がとまった。
「怖気付いた、ということですか?」
「質問が多いぞ、ラヴィ」
一から説明するのが嫌で、サリネはわざと不機嫌な声を出す。昨晩は完全に自分の失態だ。あまり口に出して言いたくはない。
「サリネ様」
「ああ、そうだ、オメガの私はアルファのニコラスに迫られ、怖くなって、突き飛ばしたんだ。帰れって怒鳴ったら、本当に帰っていった」
自棄になり、一息に説明する。わざとオメガという単語と、アルファという単語を強調した。ラヴィはもう髪を結い終えているが、サリネの後ろからは動かない。
「……愛想を尽かされますよ、貴方、容姿は美しいけれど、オメガにしては気性が激しすぎます」
「お前までそういうことを言うのか、私にオメガらしく、大人しく、アルファの言うことを聞けとっ!」
「サリネ様、俺は貴方のことを考えて言っているのですよ、ここへ来た以上、国王陛下には逆らっていいことはありますか? アルファの夫に刃向かい、得をするオメガの妻などいますか?」
オメガだの、妻だの、サリネが聞きたくないことばかりをラヴィは不躾に言い放ってくる。
生まれた時からずっといるからか、ラヴィは基本的にサリネに対して容赦しない。
「朝食だけでも、陛下とご一緒されたらどうですか?」
「う、うるさい、一人で食べるっ。今日は梃子でもここを動かないからなっ」
サリネはその言葉の通り、本日の予定を全てキャンセルして、部屋に閉じこもった。体調の悪い妻への見舞いと称してニコラスから贈られてきたものを断り、全て突き返す。
妻扱いされることにも納得がいかない。
世間はサリネに対して、『従順なオメガの妻』という役割を求めている。だが、それに対して徹底的に刃向かってやることを決意した。
体調が悪い、気分が優れない、と理由をつけて、部屋に閉じこもり、一週間が経つ。
その間、ニコラスからはひっきりなしにメッセージや贈り物が届くが、サリネは全て無視して、中身も見ずに送り返している。
終いにニコラスはラヴィに直接言伝を頼み始めた。
「サリネ様、陛下は本当に貴方のことを心配しているだけですよ」
「ふん、知るか。私は頼んでいない」
「そんなこと言って……、国に送り返されますよ」
「そうしてもらった方がありがたいぐらいだ」
「はあ」
ラヴィに盛大にため息を吐かれるのはこれで何度目だろう。だが、それぐらいでは言うことを聞く気にならない。
「私を簡単に物になんかできない、と知らしめてやる」
「もう十分みなさんわかっていると思います」
しかし部屋に閉じこもっているのも流石に飽きてくる。だがばったりどこかでニコラスと会ってしまったら、どんな顔をすれば良いのかわからないし、またひどいことを言ってしまうかもしれない。
サリネがぐるぐるとベッドの上で考えていると、侍女が部屋に入ってきた。
「奥様、陛下からですよっ、綺麗な花束です」
「ん、ありがとう」
花は好きだ。
今まで花の贈り物はなかった。興味を持ち、サリネはそれを受け取る。
侍女から渡された花束の中に晴蘭花が一本だけあった。メア・ドゥリース帝国でしか咲かすことができないほど、栽培は難しく、例え輸入してもすぐに萎れてしまうだろう。
なぜこんな美しく咲いている晴蘭花がここにあるのか不思議に思い、観察していると、メッセージカードを見つける。
いつもは中を見ないのに、サリネは興味を持ち、そのメッセージカードを開いてみた。
『麗しい砂漠の姫、愛しい妻サリネ様 美しい晴蘭花を貴方に送ります どうかご加減がよくなりますように ニコラス』
姫、妻、と言う文字を見て、サリネは眉を吊り上げた。
(私は女ではないっ、なのに姫だと、妻だとっ)
怒りで花束の根本を強く握りしめた。
「ラヴィ、私の着替えを用意しろ、陛下に会いにいく」
「あぁ、ようやくお会いになることにしたのですね」
「そうだ、文句を言いにいくんだ。金輪際、私のことを女扱いするな、と」
「……まあ何はともあれ、一度お会いになった方がよろしいでしょうね」
服装はシャルパンティエ王国のものではなく、メア・ドゥリース帝国で好んで着ていた服を選んだ。肩を大きく出し、足首が出ているズボンを履く。
シャルパンティエ王国は寒いので、肌を覆ってしまう服装が多い。『肌を見せない』という伝統は総じて奥ゆかしさ、と結びつき、正妃としての地位を持つサリネもその風習に合わせていたのだが、最早そんなことを考えるのも馬鹿らしくなってきた。
どこに行っても、私は私だ。
寒さ対策で、サリネはラヴィに毛皮のストールを持たせ、一週間ぶりにニコラスへ会いに行った。
ニコラスはサリネの屋敷の程近く、庭園の中に建てられた温室の一つにいた。
温室はすりガラスになっており、はっきりと中が見えるわけではないが、ニコラスらしき影が見え隠れしている。
サリネは開けっ放しの扉から中へと入った。「陛下っ!」
ニコラスは防水性の作業着を着て、ホースから木に水を撒いていた。
外とは違い、温室の中は蒸し暑く、サリネは羽織っていた毛皮のストールをラヴィに手渡す。
「サリネ様っ」
サリネの姿を見たニコラスの顔は信じられない、とでもいうように華やいだ。
端正で男らしい顔を嬉しさで歪め、初めて会った時のように水色の瞳を細めている。
サリネはその表情を見て、思わずたじろぐ。ニコラスには本当に、邪気がないように見えた。
「来て下さったのですねっ、その服はメアの伝統的な衣装ですね、健康的でサリネ様によく似合っていますっ! そろそろ昼時でしょう? ちょうど休憩にしようと思っていたところです、何か食べるものと飲み物を用意させましょう、ゼスター、サンドイッチと紅茶をっ、それと外にテーブルと椅子を運んでくれ」
「かしこまりました」
ニコラスに忠実な使用人はどこからともなく現れ、素早く主人の命令を遂行する。
ニコラスの勢いに負けてしまったが、サリネはニコラスと仲良くお茶をしにきたのではない。
ラヴィに助けを求めようとすると、ラヴィはゼスターたちの手伝いをしていた。
「お加減は大丈夫なのですか? やはり無理をされていたのですね。体調の悪さに気づかず申し訳ありませんでした」
「い、いえ……そんな、陛下が心配なさるほどでは」
優しく体調を心配され、サリネは目が泳ぐ。
完全にニコラスの調子に持っていかれているような気がしている。
早く言いたいことだけを言って、ここを立ち去りたい。しかし、ニコラスの嬉しそうな顔を見ていると、なかなか切り出すことができない。
もじもじしていると、温室の外から声がかけられた。
「陛下、奥様、ご用意ができました」
「ありがとうゼスター、それにラヴィも。さあさあサリネ様、先にお席についていてください。ここは蒸し暑いですからね」
ニコラスに言われがまま、サリネは椅子に座らされた。しばらくすると作業着を脱いだニコラスが温室から出てきた。ゼスターに手渡されたタオルで汗を拭った後、用意された席に着く。
清々しい陽光に清潔なクロスが照り映えている。テーブルの上にはサンドイッチと紅茶、お菓子が並べられており、真ん中にはピンク色のたくさんの花びらをつけた花が品のいい花瓶に飾られている。
「どうぞ、卵は食べられますか?」
「……好物です」
嘘だ。卵はあまり好きではない。メア・ドゥリース帝国のそれは味が薄いからだ。
ニコラスに勧められた卵のサンドイッチを手に取り、一口齧る。口に卵の味が広がった瞬間、サリネは驚いた。
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