アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
第四話
-
結斗の家には、ピアノがなかった。
マンションの三階の角部屋。上の階も下の階も人が住んでいて、小さな子供が好き勝手に楽器を演奏できない環境だったから。
そもそも、両親ともに音楽に興味がなかったし、弾きたいなら「純くんの家で弾けばいいじゃない」といつも言っていた。無論、それも、親としてどうかと思ったけど。
確かに、純の家には飛んでも跳ねても歌っても怒られない、楽器の演奏が出来る部屋があって、結斗が遊びに行けば純は喜んで、いつもピアノを弾かせてくれた。何か曲が弾けるわけでもないので、音を鳴らすだけだったが、結斗は綺麗な音が鳴る純の家のピアノが大好きだった。
実はそのピアノは宝石の値段くらい高い代物だったのだが、その驚愕の事実を知ったのは、つい最近だ。
――なぁ、そういえば昔、お前の家で遊んでたピアノってさ、どんくらいの値段だったの? 今使ってんのと違うだろ。
――今のはヤマハ。昔はスタインウェイ、あれは、いま知り合いの家にあるけど。
――何それ、ウェイ系?
――まぁ、値段聞いたら、お前、ウェイってなるかもな。
純は、にやりと笑っただけで、もったいぶって詳細な値段は教えてくれなかった。
あとでネットで検索してウェイどころか、オエッって吐きそうになった。
子供がオモチャにしていい楽器ではない。本気で音楽をやっていて、プロを目指していたのなら、由美子さんが純に買い与えるのは理解出来なくもない。ただ、それを結斗に触らせていたのはやっぱりどうかと思うし「純くんの家のピアノで遊べば?」とか言った親は事の重大さを認識した方がいい。
そもそも、結斗がピアノに興味を持った理由は、小学校のとき放課後に純と音楽室で一緒に遊べたからだった。
純は校庭でサッカーもドッヂボールもしないし、結斗が好きなゲームにも興味がなかった。共通の話題が音楽だけだったので、結果的に遊び方がそうなっただけ。
小学校の音楽室の鍵は壊れていて、勝手に忍び込んで自由に遊べた。たとえ見つかったとしても、小学校の先生も純が一緒だと怒らなかったし、純がピアノの練習をしていると言えば、偉いわねと褒めてくれた。結斗はピアノが弾けないから歌ってタンバリンとカスタネットを叩いていただけ。
結斗が歌えば、純は伴奏してくれたし、その時間が楽しかったから「音楽を何も知らない」のに歌うことだけは好きだった。
何かを始めるきっかけなんて人それぞれかもしれないが、結斗は単純だったから、純ともっと遊べるし、歌が好きなら、歌を習いに行こうと考えた。
母親もピアノを買うことは了承しなかったけれど、歌を習うことは反対しなかった。
たまたま市の合唱団の子供の部で募集があり、入団テストにまぐれで受かった結斗は小学校二年から「音楽」を始めた。
テストでは「元気でよろしい」と先生に褒められて天狗になってた結斗も、習い続けるにつれて、周りの様子がおかしいことがわかった。
今ならわかるが、おかしかったのは結斗の方だった。
元々、男の子で歌を習っている子が少なかった上に、数少ない同じ年の男の子は、ピアノやバイオリンをやっていて、結斗は入った時から、話が合わずに場違いだった。
同じピアノをやっていても、純は結斗のレベルに合わせて話をしてくれたけれど、そこにいる子たちは、当たり前にわかることが分からないと、結斗を笑ってバカにした。
何を言われたところで、歌うことが好きだから気にしていなかったし、徐々に積み重なっていく違和感を無視して、結斗は習い事を続けていた。
それに、習い事で友達が出来なくても、結斗は純と共通の話題が増えることがすごく嬉しかった。
ただ、結果として話題は増えたのに、楽しかった音楽室での二人だけの時間は、純のピアノ教室の宿題が増えるにつれ、残念ながら無くなってしまった。
* * *
毎日小学校で顔を合わせていたが、お互いの家に遊びに行く頻度は、四年生になる頃には、週一くらいだった。
その日、結斗は、合唱団からの練習課題を持って、純の家に行くと、由美子さんが何故か困った顔をしていた。
「こんにちは、純いますか?」
「あらー結斗くん、いらっしゃい。あの子、いま宿題で地下に篭ってるのよ」
「宿題?」
「あとで、ケーキ持っていくね」
自分の母親はケーキなんて焼かないし、家ではコンビニケーキくらいしか馴染みがなかったけれど「ケーキ食べたい欲」みたいなものは、大体純の家へ行けば満たされた。
おやつがケーキという言葉で、由美子さんが玄関で見せた、困った顔のことは、階段を降りているころにはすっかり頭の中から抜けていた。
部屋の前について中を覗くと、純はピアノの前でじっと楽譜を眺めていた。
――宿題って、ピアノか。
鉛筆で何かをメモしながら、弾いていく。
純が弾くピアノの音は、いつも楽しくて、隣にいるだけでわくわくする音だった。けれど、その音は悲しかった。いつもと違う真剣な純の眼差しに、結斗は部屋の中に足を踏み入れたものの声をかけれなかった。
けれど、そんな結斗の不安をよそに振り返った純は、入ってきた結斗の存在に気づくなり、ぱっと笑顔が華やいた。
「結斗いらっしゃい」
「ねぇ、邪魔だったら帰るよ」
「いいよ、遊ぼう遊ぼう、何する?」
「俺も宿題するから、歌の。だから純も宿題終わってからでいいよ」
そう言って、純の部屋の革張りのソファーに寝転がり、結斗は鉛筆を片手に持ってきた楽譜とにらめっこする。
さっきまで、純の周りの空気がピリピリしていたのに、結斗がソファーの上で宿題を始めると、鼻歌なんか歌いながらピアノを弾きだすから、あの怖い空気は勘違いだったのだろうかと結斗は思い始めた。そんな難しい宿題じゃなかったのかもしれないと、ちょっと安心した。
「ねー終わったけど。結斗の宿題は? 次、何歌うの?」
自分の宿題が終わったらしい純は、この前結斗が教えたアニソンを陽気に弾き出した。
「メンデルスゾーン」
「え?」
純のピアノを弾く手が止まる。BGMが突然とまってムッとなった。いい曲が途中で終わると、なんだか痒いところに手が届かないみたいな気分だ。
「だーかーら! メンデルスゾーン」
「結斗が? ちなみにそれは曲名じゃなくて作曲家の名前だけど」
「知ってる! 俺がメンデルスゾーンやってたら悪いか」
「悪くないけど、去年までアニメソングばっかりだったのに?」
「純だって、ショパンとかベートーヴェンやってるじゃん!」
「ふぅーん、じゃ、これだ」
突然、部屋のなかに結斗が知っている華やかな音が鳴り響いた。
「だれか結婚すんの?」
結婚行進曲。ジャジャジャジャーンって。ピアノ以外の楽器があるわけじゃないのに、純が弾くと他の楽器の音まで聴こえてくるようで不思議だった。
「結斗がメンデルスゾーンっていうから、あと春の歌が弾ける」
「それどうやって歌うんだよ。てか、それもメンデルスゾーンなの」
「そう。だって俺、合唱曲知らないし、何歌うの?」
「賛美歌? とかいってた。ら……うなんとかかんとか?」
「それ楽譜?」
純は、結斗が寝転んでいるソファーのところまでくると結斗の手元を覗き込んだ。楽譜は、結斗が教室で聴き取れた階名だけが書いている歯抜けの状態だ。絶賛解読中。
「純は読めるの?」
「うん」
音がなければ、楽譜をみたところで五線譜の下に書いている、カタカナの歌詞しか読めない。
次の練習の日までに、楽譜に階名を書いて歌える状態にしなければいけないけど、出来る気がしなかった。
この宿題が結斗にとってストレスだった。毎週、半端に終わらせて、周りの音を聴きながらその場で書き込んで乗り切っている。
そして、宿題が出来なかった結斗を周りの生徒たちは、白い目で見てくる。こんな、楽譜を読まなくても、一度聴けば歌えるのにと思っていた。
「なー、純、移動ド分かる?」
「……結斗の口から、移動ド。固定ドじゃなくて」
「だから、それ教えて、楽譜にドレミ書くのが俺の宿題なの」
「ソルフェージュ習うの?」
「ソル? 何?」
「楽譜のお勉強。移動ドは、長調の場合には主音をドにして、短調の場合は主音をラにするんだけど」
「……純、日本語しゃべって」
「日本語だけど……じゃあ、いっぱいシャープがあったら一番右にあるやつをシにする、いっぱいフラットがあったら、一番右のフラットをファにする」
純は結斗が言った通り「日本語」で話してくれた。みんな最初からそう言えばいいのにって思った。別に楽譜の勉強がしたいわけじゃなかった。歌うために必要だったから、仕方なくやっているだけ。
「俺は歌えたらいいや」
「まぁ、結斗は、そうだよね」
「なんだよ、それ、俺、すげー頑張ってんだけど!」
楽譜が正しく読めず周りからは「お前なんでいるの?」って嫌味言われて、ムカムカするけど、歌うことが好きだと思っているから習い事を続けている。
「うん。ちゃんと頑張ってる。結斗偉いじゃん、楽譜読めなくても、聴き取れた音は書けてるし、書いているとこはちゃんとあってたよ」
周りからは、楽譜は読めて当たり前だって言われる。両親は結斗の頑張りは分かってくれていても、音楽が分からないから、本質的には結斗のことを「理解」は出来ない。
純は出来て当たり前だって言わないから、いつだって一緒にいて居心地がいいんだと思った。一緒に音楽を楽しんでくれるのが嬉しかった。
結斗がどれくらい苦労して目の前の課題と向き合っているのか、純がいつもやっているように正確に譜読みするように知ってくれていたから、ふいに涙がこぼれそうになって慌てて目を擦った。
「どうしたの」
「目にゴミ入った」
「だったら、こすったらダメだよ」
「……うるさいなぁ」
「結斗、早く宿題やって遊ぼう。俺、弾くから、右手が結斗の宿題の音」
純はそういうと、ピアノの前に座る。
――魔法だと思った。
楽譜を見ただけで、結斗が知りたかった音が鳴りだす。ピアノなのに、この前、発表会で歌いに行った教会のオルガンのような音だった。一人で音楽をしているときはどんどん暗く淀んでいく心が、純が隣でピアノを弾くと不思議と澄んでいく。
ずっと、ざわざわとして落ち着かなかったのに、知りたい音だけが正しく聴こえた。
「出来た!」
ピアノの伴奏で歌いながら、楽譜の上に鉛筆を走らせて、純に見せると正解といって笑ってくれた。
「俺は結斗の声、好きだよ」
突然褒められて、褒められ慣れていない結斗は、一瞬で顔が赤くなった。合唱団の入団テストのときに「元気でよろしい」と言われたときよりもはるかに、舞い上がっていた。
それを知られたくなくて子供のくせに「ケンソン」をした。
「歌が上手いやつなら、団にもっといっぱいいるよ」
「もっと自信持ったらいいのに、結斗は将来は歌手かなぁ」
そんな、ありえないバカみたいなことをいって笑う純を見て結斗は心がふわふわと浮かれていた。
自分が歌手なら、きっと純は将来ピアニストになるのだと思った。
それがどんな大変な仕事か知りもしないのに、漠然と純の未来を想像していた。
その日は、お互いの宿題が終わったら、音楽に関係ないくだらない話をして笑いあっていた。一年くらい前はアニメやゲームの話ばかりしていた結斗に首を傾げていた純は、いつの間にか結斗の好きなことも知るようになっていた。
歌とピアノでジャンルが違っても、音楽くらいしか話すことがなかったのに、本棚に新しい本をさしていくように、年を経るごとにお互いの好きなことを知るようになった。
それが、結斗と一緒にいることで得られた効果なのか、正常な子供の成長なのかは分からないけれど、それでも、自分と一緒にいるときに純の笑顔が増えることが結斗は嬉しかった。
夕方になって、結斗が家に帰る時、玄関まで見送ってくれた由美子さんが、何故か「今日は、ありがとうね」と言った理由が、あの時は分からなかったけれど、今なら分かる。
純はあの部屋に一人で寂しかった。
相手もなく一人で奏でる音楽は寂しくて、どんなに好きでも、時々誰かに隣で聴いて欲しくなるから。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
4 / 21