アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
第七話
-
* *
結斗は音楽を辞めてしまったけれど、純は中学に入ってもピアノを続けていた。
変わらず週に一回くらいはお互いの家に遊びに行っていたし、コンクールに出たとか、こんな曲をやっているといった話もしていたので、結斗が音楽の習い事を辞めても、自分たちの関係は何も変わっていなかった。
強いて変わったところをあげるとすれば、昔みたいに一緒に音楽の宿題をしなくなったとか、お互い以外にも学校で友達が出来たくらい。
中学一年生は同じクラスだったけれど、二年生は別のクラスで、少しだけ離れた。
結斗は寂しいけど、この先ゆっくりと、自分と純の時間は減っていくのだと感じた。
それでも、結斗には純がいて、純には結斗がいる。物心つく前から、そばにいたから近くにいるのが当たり前で、どんなに一緒にいる時間が少なくなっても、ゼロになる未来は少しも想像出来なかった。
それが兄離れや弟離れが出来ないみたいなことじゃないと気づいたのは「純がおかしくなった」ことがきっかけだった。
その日、純の家にいくと、由美子さんはちょうど出かけるところで遊びに来た結斗と玄関で入れ違いになった。
だから家にいたのは純だけ。
地下にある純の部屋にいくと、いつもは、ピアノの防音のためと、きっちりとしまっている純の部屋の扉が少し開いていた。
床の上には楽譜が散乱していて、純は床の上に座り込んで色のない顔をしていた。
「……純?」
けれど、結斗が呼ぶとすぐに、いつも通りに笑おうとした。けれど、その笑顔は口角が上がったに過ぎず、いびつなものだった。
結斗は本能的に、やばい、と思った。
純がつらい時にひとりぼっちにしたことに気づき、結斗は後悔した。
小学生のとき、ちゃんと純のそばにいて、自分が純を笑顔にしようと決めていたのに、勝手に純は一人でも大丈夫なんだと思って安心していたことが許せなかった。
結斗が苦しかったときに、純はそばにいて手を握ってくれたのに、自分はそれが出来なかった。
「結斗、ごめん。今日は帰って」
純は、結斗に背を向けて落ちた楽譜を拾い始めた。
反射的に、結斗は純の背中に抱きついていた。昔、結斗が泣いていた時に隣でいてくれたように、やり方は違うけど、結斗も同じようにした。もう小学生でもないし、体も大きくなっている。
けど、子供でも大人でも純だけは関係ないと思った。周りに純の友達がいたら、こんな小さな子供みたいなことはしなかった。
けれど、今は結斗と純しかいなかった。
「帰らない」
純はお腹にあった結斗の手の甲を指でトントンと叩いてきた。
「ゆーい。今日はピアノの勉強がしたいんだよ」
「嫌だ」
「何、赤ちゃん返り? 重い、つかなんで、お前泣いてんの」
「分かれよ」
「王様かよ、横暴だなぁ」
泣くつもりは無かった。けれど、純の背中に抱きついていたら、背中から純の感情が流れこんでくるみたいで、勝手に涙があふれてきた。
「……いいよ」
「だから、なに」
「ピアノ、やめていいよ」
「……なんで、結斗が俺に許可するんだよ」
純は結斗の拘束を解かずに、あの時と同じように好きにさせてくれた。自分が純を元気付けるつもりだったのに、逆になぐさめられている。
「だって、純つらいんだろ、俺は純のピアノ大好きだよ。純がピアノ弾かなくなったら寂しいけど、でもピアノの宿題もコンクールもやめろよ、俺の前だけで弾いてよ、好きならどこでだってピアノは弾けるじゃん」
「結斗……」
純は結斗の手をぎゅっと握った。その手の冷たさが胸に刺さるように痛かった。
「……結斗、俺のピアノ、誰にも届かないんだ、全然駄目だってさ」
結斗は、過去に自分が教室や舞台袖で聴いた怖い音を覚えていた。張りつめた教室に響く怒声、本番前の通し稽古で泣き叫ぶ小さな子供の声。
そんなところに純がいるんだと思うと耐えられなかった。
今まで一度だって、純の音が駄目だったことなんてなかった。純の音楽は、結斗にとってなくてはならないものだった。
ピアノが嫌いになるくらいなら、練習もコンクールも辞めた方がいい。それが正解と疑ってもいなかった。
「他の誰が聴かなくても俺が全部聴くよ、どんな音だって俺は好きだから。純が嫌だって言ってもずっと聴くから、だから」
どれくらいそうしていただろうか。ふっと純の背から結斗の胸に伝わる音が変わった気がした。
小さな子供みたいに、純に甘えていた。同じ年でも、結局のところ純が兄で、結斗が弟みたいなものだった。
「――そうだよな、うん。ピアノが好きだからって、別に演奏家になる必要はないか」
「うん、そうだよ」
「結斗、教えてくれてありがとう」
結斗は別に純に感謝されるようなことは、何ひとつしていなかった。
文字通り、赤ちゃんのようにぐずって、純がつらいのが嫌だと言っていただけ。
純は、背中に引っ付いていた結斗を引き離して振り返り、結斗の顔を真正面から見た。
純はもういつもと同じように笑っていた。
「やっぱり泣いてるし、泣くなよ、お前いくつだよ」
「……純と同じ」
「だよなぁ」
純はそう言って、なんだかばつのわるいような顔したあと、なんの前触れもなく、涙で濡れていた結斗の頬に唇を押し当てた。
「じゅ、純?」
その唇の温度は握り返されていた純の手のひらと同じ温度だった。
けれど、そのことに気づいたあとに、自分の頬の方が熱くなって、純の唇の温度は分からなくなった。
「涙止まった?」
驚いて涙が引っ込んでいた。
「ば、バカだろ、何やってんの」
「びっくりすれば、涙止まるだろ」
実際止まったから、言われるままに頷いていたし、怒るのも変な気がして「そうかよ」と返した。純にキスをされたことより、中学生にもなって幼馴染の前でボロ泣きしたことの方が恥ずかしかった。
純の前では、たくさん恥ずかしい自分を晒していた。幼稚園のときは、漏らしたこともあったし、クリスマスの件で服に吐いたこともあったし、恥ずかしい姿なら数えきれないくらい純に見せていて、今更、キス一つ追加された位で大騒ぎするほどじゃなかった。
純に関して、結斗は自他の境界が曖昧だった。半分が純だった。
純が悲しいと悲しいし、嬉しいと嬉しかった。
そんな出来事があってしばらくたった頃。
本当に純がピアノ教室を辞めたと聞いて、結斗は、急に冷静になって自分がした過ちに気がついた。「つらいならやめればいい」なんて、本気で音楽をやっている人間に他人が口出していいことじゃなかった。
結斗は純が苦しそうに一人でピアノを弾いている姿をみたくなかった。
ただそれだけの理由で、結斗のわがままで純の未来を奪ったことを、いつか純に責められる気がして、多分その時が純と離れるときなんだと薄々感じていた。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
7 / 21