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一九十六年、夏の出会い
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絵が描けなくなった画家なんて死んだも同然だ。
君の眼には今、何が見える?
俺に見えるのは地獄だ。色も形も何もない、暗闇の世界だ。
それは、燃えるような朝焼けの絵だった。
湖は鮮やかな朱色。遠くに見える稜線もまた緋に染まっている。湖畔には様々な花が咲き乱れていた。レンゲツツジ・ヤマトユキザサ・イワカガミ。六月の風に花が揺れ、葉が震え、さざめきを生み出す。
その一面のヴァーミリオンの色は、まるで人間の血潮。脈打つような命の輝き、色彩が溢れた絵だった。
絵を描いたのは病で両眼を失明した青年。次第に見えなくなっていく目で、必死に絵筆を動かした夭逝の画家。
一九十六年の夏。季節が秋へと移り変わり、風に薄荷が混じりだす時に、達(たつる)は竣と出会った。
隣に引っ越してきた世帯にはもうすぐ尋常小学校に入学する、同い年の子どもがいるという。母親に連れられてやってきた子どもに、達はにこやかに話しかけた。
「あ、あの……よろしくね……えっと、名前、なんて言うの?」
「しゅん」
「へー、男の子みたいな名前なんだねぇ」
「ふざけるなよ、俺は男だ!」
「ええー! そんなに可愛いのに!?」
ぽかりと殴られた。長めの黒髪に儚げな風貌の、女性的な顔をした男の子。名前は竣。しかし話すと意外と気が強かった。この時軽口をたたいた相手が……のちに生涯の友人となるとは、達も竣も思いもしていなかった。
それから二人は一緒に遊ぶようになった。小学校の帰りに茱萸(ぐみ)を口に含み、ツツジの蜜を吸って、手を繋いで歩いた。おっとりとした達と、気が強いが真面目な竣は思いのほか気が合い、何だかんだと良い友人関係を築いていた。
今日は暗闇の中、探検だ。竣の家の離れにこっそりと忍び込む。当時の一般家庭の照明は日暮れから深夜までしか電気が届かない半夜燈方式。昼間は電気がつかないので、窓から差し込む光で部屋の中を確認する。
そこはアトリエ。竣の父親は画家だ。大切な作品があるために、普段は立ち入りを禁じられていた。
焼き物の釉薬から作られた水干絵の具の独特な香り、膠(にかわ)のついた筆、たくさんの紙、絹。そして竣の父親が描いた様々な作品。苦しみや悲しみのなか生きる庶民の、ささやかな日常を描いた絵だった。
「すごーい! 竣ちゃん、絵ってすごいねえ!」
「俺もいつかは父さんみたいな画家になりたい。描きたい絵があるんだ」
竣は画家を志し、小学校二年生から県立中学校に入学するまでの間に父親から絵を習っていた。そして中学校卒業と同時に上京。その一年後に達が進学のために追いかけるまでの間で様々な絵を描いていた。
竣は美術学校に入学し、本格的に絵を展覧会などに出品し始めるようになった。達は文学の道を志しており、経費節約のために竣の貸家に転がり込んで同居しながら、作品を執筆していた。
「たつるー、お前いつになったら出て行くんだよ。定職に就いてきちんと働きながら文学をやればいいだろう」
「もう、竣ちゃんは真面目だなぁ。人生には寄り道がいっぱいあっていいんだよぉ。まっすぐな道でできた人生なんか、つまらないじゃない」
大人になっても達はおっとりのんびり自由気ままだった。竣は少し神経質ながらも真面目で相変わらず気が強かった。何だかんだと二人はずっと友達だった。達は初めて会った時からずっと竣のことが好きだった。
しかしその気持ちを伝える前に、竣は女性と結婚して姓を変えた。
狭くて埃っぽい家での同居も解消された。手紙でのやりとりがずっと続いた。たまに会っては飲みに行った。竣の奥さんは優しくて賢い人で、何も文句がつけられない素敵な人。そのうちに赤ん坊が生まれて竣が父親になった。
達の中の竣は初めて会った時や、暗闇のアトリエに忍び込んだ時のまま。好きな人にはもう思いが絶対届かない。それでも、君は僕の大切な人。
一九三六年、竣と達・二十六歳の春。二人は月刊誌を発行した。当時の画家・詩人・作家……得意分野の隔てなく、誰もが不安定な世相に自由に物申せる雑誌だった。
二・二六事件。帝国国防方針の改定。日独防共協定締結。次第に軍国主義に傾斜していく世相。
武力を持たぬ表現者たちが激動の時代をどうやって生きていくのか……その問題提起を行った。
一年後に廃刊するも、竣も達も様々な人と出会い、多様な発言や内容から自己の立ち位置を見出していく。雑誌編纂(へんさん)での経験が竣の画才をより磨いた。
竣はその才能を持ってして様々な展覧会に作品を出品してそのどれもで入賞。少しずつ画家としての地位を確立させていった。
生まれつき神様から与えられた箱を、竣が開いた。そこに詰まっていた素晴らしい贈り物を心の箱の中から出して、絵という媒体を通して自分の思いを人に伝える。
そんな幸せの絶頂……竣の体調に異変が起きた。
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