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ずっと好きだった
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最初はただの頭痛だった。薬を飲めば治る、しかし次第に薬が効かなくなってきた。量が増える。効かない。竣は床に臥せることが多くなって……しまいには、どんどん目が霞むようになってきた。
目をこらしてよく見てみても、物がぼやける。線が曲がる。視界が狭まる。絵どころではない、日常生活にすら困るようになった。
神から祝福されたはずの天才が、自分の力ではどうしようもない出来事で簡単に潰れていく。
竣は荒れた。酒を飲み、暴れ、泣きながら絵を破る。絵が描けなくなった画家は死んだ方が良い。そう言いながら筆を折る。でも、死ぬ度胸なんて、ないのだった。
妻子が心配して声をかけるが、竣の心には届かない。良妻は子どもを守るために涙ながらに実家に帰り、竣は荒れた家の中で一人になった。そこに達がやってきた。
「ねえ、竣ちゃん! しっかりしてよ……どうして、どうしてこんな事するの……」
「うるさい! もう俺は絵が描けないんだ……絵が描けなくなった画家は死んだ方が良い……」
いつも真面目で煙草も酒も女遊びもやらなかった竣が、酒浸りになって布団に横になっていた。
飲めない酒に溺れた竣に、初めて会った時の儚げな面影はもうない。伸びた髭、ぼさぼさの髪、不潔な衣服、死んだ魚のように濁った眼。思わず駆け寄って、達は竣の肩を抱いて揺さぶる。寝巻がはだけて鎖骨が見えた。青白い肌、胸元の薄桃色の突起。慌てて目をそらす。
「びょ、病気なんだよね……お医者様は何て……?」
「脳に腫瘍があるんじゃないかと、言われた。手術を受けろ、と……でも、難しい部位で、成功率が低いから……もう、目は諦めろって……!」
一見何も異常がなさそうな目から涙があふれる。達は竣が泣くところを初めて見た。親に怒られた時も、大事にしていた絵が水に濡れた時も、小さな妹が亡くなった時も、絶対に泣かなかった竣。心の中はどうあれ、今まで泣けなかった竣が、涙をぽろぽろとこぼして泣いている。
自己を表現する手段を奪われる……言葉を失うようなものだった。誰にももう、自分の心の中を伝えることができない。それはどんなにか悲しい事なのか。ただ伝わってくるのは、絶望。どん、と布団にこぶしが叩きつけられる。画家にとっての命、手を乱暴に扱う竣。
「だめだ、そんな事しちゃだめ……! ねえ、竣ちゃん……お願いだよ」
思わず達は竣を抱きしめていた。もうお互いに二十八歳になっていた。小さかった達はすくすくと伸びて今や珍しいほどの長身。頭一つ低い竣を抱きしめると、痩せた身体がすっぽりと腕の中に包まれる。
竣は泣きながら達の心臓の音を聞いていた。それは幼い日に真っ暗なアトリエに忍び込んだ時に聞いたものと同じ音だった。もう二十年近く経っているのに、全然変わらなかった。涙があふれる。二人で父親の絵を見て、将来に夢を馳せていたあの頃。
「…………はは…………」
乾いた笑いが出た。手のひらを見つめる。もう、ぼんやりとした輪郭しか見えなかった。絵に描くどころか、それを手のひらであると認識する事すら難しい。達の腕から抜け出して顔をじっと見た。達の顔も、手のひらと同じようにぼやけていた。それは涙が出ているからではない。もう、見えないんだ。困ったように笑う、おっとりとした君の顔が。
「なあ、達。君の眼には今、何が見える? 俺に見えるのは地獄だ」
ぽつりと呟いた。頭の中には色彩鮮やかで繊細な筆致の絵が見えている。まるで極楽浄土。花も木も風も、全てが煌めく夢の世界。それをもう二度と形にできない。
達は何も言わなかった。竣はがっくりとうなだれて……汚れた寝巻のまま立ち上がった。昨日から酒と水しか口にしていない。食欲が全然ない。そのくせ喉だけがやけに乾く。飲んでも飲んでも満たされない。季節は五月末なのに、寒い。温かい風呂に入りたかった。さっき達が沸かしてくれていたのを思い出す。
「竣ちゃん、どこにいくの」
「風呂に入るだけだ……」
画家として成功した竣は家を建てて、当時としてはぜいたくなタイル張りの浴室を作った。風呂釜を据え置きして、煙突を屋外まで伸ばして煙を逃しやすくした作り。大きな窓からはさんさんと日光が入り、明るい。寝巻を脱ぎ捨てて石鹸・剃刀(かみそり)・白色ワセリンが配合されたクリームを持ち込む。
もうぼんやりとしか見えない目で浴室を見る。湯気と、熱気と、日の光。まるで真っ白なツツジの花が咲いているようだった。小さな頃、達とよく学校帰りに吸った蜜の味を思い出す。
風呂に浸かった。まだ温かかった。冷え切った身体を少しでも温めようと肩までつかる。何で達は俺に良くしてくれるんだろう。ふと、そう思った。
浴槽から上がって、クリームを指にひとすくい。それから頬を撫でて鏡を見る……前ならば何も考えずにそのまま髭が剃れた。今や髭剃りどころか、どこに剃刀が置いてあるのかすら分からない。ぷるぷると手が震えた。手探りで剃刀を握り、首元に寄せる。冷たい刃が喉ぼとけに当たった。
このまま、掻き切ったらどれほど楽になるだろう。
最近読んだ『高瀬舟』という小説を思い出した。病を苦にして首に剃刀を刺すも、自殺に失敗して苦しむ弟。早く楽にしてほしいと懇願する弟の首の剃刀を、やむを得ず抜いて殺した兄。兄を罪人として護送する同心の話。
もし俺がこのまま首を切って死んでも死にきれずにいたら、達は俺を殺してくれるだろうか?
優しい顔で、優しい手で、俺を本当の地獄に送ってくれるのかな?
涙がぽとぽとと垂れて、剃刀を濡らす。優しく穏やかで賢い妻、可愛い盛りの子ども。そして達の事を考える。色が白くて背も伸びなくなった自分をよそに、若木のように健康的に育っていった達。おっとりとして、いつも自由で、のんびり気まま。
結婚の話はずっと昔から決まっていた。妻に何も不満はない。子を愛している。ただ、ふと考える。もし結婚しなかったら……もしあのまま狭くて埃っぽい貸家で達と一緒に暮らしていたら、今はどうなっていたんだろう?
『人生には寄り道がいっぱいあっていいんだよぉ。まっすぐな道でできた人生なんか、つまらないじゃない』
真面目な人生を少しだけ寄り道して、自分の気持ちに正直な道を選んでいたら……どうなっていたのかな。風に薄荷が混じる頃に出逢った、ふわふわの柔らかい髪の毛の子。明るくてのんびり屋で……芯が強くて優しくて、きらきらと眩しい。
夜空に輝く満天の星のような人だった。でも、手を伸ばしても、星には絶対手が届かない。君は光、ずっと昔に爆発して消えてしまった星の最期のような、光。
「竣ちゃん! 何してるの!」
浴室の扉が開いた。振り返るとぼんやりと達が見えた。慌てているようだった。右手首が強い力で掴まれて、剃刀が床に落ちた。竣は涙が止まらなかった。
伸びた背、強くなった力、伸びやかな若木のような健康的な青年。何もかもが眩しい。
好き。ずっと、君が好きだった。
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