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Vermilion
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背徳の全てが終わった。達が訪れた時は昼間だったのに、もう夜明けが近い。ずっと二人で絡み合っていた。ただただ、肉欲のまま……まるで分かれたものが元に戻ろうとするみたいに。
「朝焼けだ……ねえ、竣ちゃん。今、どれくらい見えるの?」
「……実は、もうぼんやりとしか見えないんだ。達の顔も、ほとんど見えない」
「じゃあこの朝焼けも見えないね……すごく、綺麗だよ」
「そうだな、にじんだようにしか見えない……でも、なぜかは分からないけど描きたいな」
竣はほとんど見えない目で、窓の外を見た。不思議と脳内に浮かぶ光景がある。
燃えるような朝焼けの湖。一面の朱色。遠くに見える緋色の稜線。湖畔に咲くレンゲツツジ・ヤマトユキザサ・イワカガミ。六月の風で花が揺れる所。それを描きたいと思った。
そっと窓の外を見る達に後ろから抱きついた。達は優しく竣の肩をつかんで、少し離したあと……前からぎゅ、と抱きしめた。外に吹く風のような小さな声で囁く。
「これが最初で最後だ。君の奥さんの事を思うと……とんでもない事をしてしまった。これは、墓場まで持って行く秘密だ」
「…………そっか…………」
「でも、竣ちゃんを助けたい。僕は君の目になりたい」
それから達は竣の身の回りの世話をし、竣の妻子を呼び戻した。金銭の援助をし、力仕事や家事をし、やんちゃざかりの三歳の坊やの遊び相手をし……絵の手伝いをした。
日に日に失われていく竣の視力。それを補佐するようにして絵の具を混ぜ、筆を一緒に持ち、根気強く絵に取り組んだ。
竣の視覚は端から欠けていき、どんどん狭まる。それでも、レンゲツツジの鮮やかな橙の花を、ヤマトユキザサの青々とした葉を、イワカガミの桃色の花を……燃えるような血液色の茎を描いた。湖を描き、山のふもとを描き、ぼんやりとした目で必死に絵筆を握った。
そうして、朝焼けの絵が描きあがった。それは人間の体内に流れる赤い血潮のような湖畔の風景。見る者の心を揺さぶる、朱色。竣の頭の中にだけある幻想の湖。題名は「Vermilion」。
季節が巡り、冬。
一九四〇年十二月八日、月曜日の未明。
放射冷却で星空がはっきり見える晩に、竣は安らかに眠ったまま二度と目を覚まさなかった。享年三十歳三ヶ月。
死因は頭蓋咽頭腫。脳下垂体という部位に発生する良性の腫瘍で、竣が胎児の頃から頭の中でゆっくりと大きく育ってきた爆弾だった。
現代の日本では手術で取り除くことができ、術後の生存率も高い。だが頭蓋咽頭腫は脳の最深部に位置し、他の部位と癒着している。そのため、手術には高度な医療技術を必要とする。腫瘍を全て摘出したとしても再発したり合併症を引き起こすことも多い。現代医学をもってしても、治癒が困難な病気。
昭和初期、それも戦時中の医療体制では竣の腫瘍を取り除き完治させることはほぼ不可能。
死の一か月前には、腫瘍の増大と脳浮腫に伴う頭蓋内圧亢進により竣は意識障害に陥っていた。痛みや苦しみを感じる事もなく……代わりに、妻子や達の声が届くこともなく……ただ、夢の中でひとり安らかに絵を描いていた。
そこは達とあやまちを犯した日に見た風景。極楽浄土。花も木も風も、全てが煌めく夢の世界だった。
その後、達は竣の妻子の生活の面倒を見たり、竣の作品を仲介して画廊に売ったり、展覧会を開いたりした。しかし過労と心労がたたり、肺結核に罹患。
止まらない咳、黒みを帯びた濃厚な血糊で汚される床。それはまるで夜の闇。そこに電灯の明かりがきらきらと映り込んで星空のようだった。
毎日血を吐き、胸部にモルヒネを打ち、痰をコップに並々と吐いた。日に日に肉体は衰弱していった。
秋風にたなびく雲のたえ間から、漏れてくる月の光の澄み切った美しさといったらどうだろう……百人一首七十九番の句のような月夜の晩。初めて竣と結ばれた日のような月明かりの中で、達は真っ赤な血を吐いた。
まるでそれは竣の遺作。しかしその血はヴァーミリオンより赤く濁った色をしていた。
達は夜明けまでもがき苦しんだ後、絶命した。享年三十六歳七ヶ月。
解剖で開かれた胸部の、真っ黒な穴だらけの肺……その空洞に電灯の光が煌めいて、まるで満天の星空。
最期に達が見たのは光。まばゆいばかりの朝焼け。人の身体に流れる血潮のような、一面のヴァーミリオンの、朝焼けだった。
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