アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
三章 1
-
「ん……?」
柔らかな日差しの中。ニコライ・フォン・ヴィノクールの淡い青紫の双眸が開いた。
白い病室。目の前には白い服を着た妙齢の女の天使がいた。何か書類を書いていた彼女は開眼したニコライを見て、笑顔になった。
「ヴィノクール特務曹長……! 大丈夫ですか? 気分はいかがです?」
「…………っあ」
見開いたままの彼の両目は、焦点が合っていない。僅に開いた口からは何も言葉を発しない。
「ヴィノクール特務曹長?」
もう一度彼女が呼びかけるが、ニコライに反応はない。段々彼の呼吸が荒くなっていく。上下する胸。苦しそうな呼吸。
「ぅあ……う、ああっ…………」
過呼吸になっている。
看護師である彼女の顔が青くなった。
「大変……!先生(ドク)、来てください!」
看護師がドアの向こうに叫ぶと、暫くして軍医が駆けつけた。
「どうした?」
「過呼吸です! キュア……、いえ、ペーパーバッグを……」
「それじゃ駄目だ、安定剤を持ってくる」
そう言って軍医は慌ただしく病室を出ていく。
看護師はニコライに近づき、彼の手を握った。
「ヴィノクール特務曹長、落ち着いて……、息を吐いてください。フォン・ヴィノクール特務曹長!」
必死に看護師は呼びかけるが、ニコライにそれは聞こえていないようだった。普通の呼吸ができていない彼の頬が赤くなっていく。
軍医がトレーに乗せた注射器を持ってきた。
「君、手伝ってくれ」
「はいっ!」
看護師がニコライの腕に巻かれた包帯を外す。刃物で切られたような傷だらけのその腕を、暴れないように押さえつける。
彼の静脈を探った軍医。実はあまり注射を打つのは慣れておらず、慎重に針を刺す。
注射器を抜き、消毒をしてから暫く。ニコライの呼吸は徐々に安定していった。それを見た看護師と軍医の顔に安堵が浮かぶ。
「良かった……」
「ええ。注射器など久しぶりに使いましたよ」
「本当ですね」
話している二人に、ニコライの目が向いた。今度は正気を保っている瞳だ。
「私、は……?」
やや状況に戸惑い気味なニコライに、看護師。
「ヴィノクール特務曹長、大丈夫ですか?」
「ええ……」
ゆっくりと起き上がるニコライ。
「ここは天界、ですよね?」
「はい。レキア東方軍基地……戻ってお出でになったんですよ? 覚えていないのですか?」
「…………はい、全く」
「一体何が――」
更に質問を重ねようとした看護師の肩を叩く軍医。
「あまり私達が質問するのは好ましくない。あとは上に任せよう」
「あ、はい。そうですね……ごめんなさい」
彼女に頭を下げられたニコライは、僅に微笑む。
「いいえ。それより、何故キュアを使わないのです?」
全身に包帯が巻かれているのが分かったニコライは、そう尋ねた。
ニコライの全身には、ナイフによる切り傷があった。本来ならば、キュア――治癒の神通力で直ぐに治すことができる程度の傷だ。先ほどの過呼吸も、それで静められる。だから天界の医師は注射を打つのに慣れていない者が多いのだ。
軍医は彼の質問に答える。
「はい……キュアを使いたいのですが、使えないのです。ヴィノクール特務曹長の体には強力な魔力がかかっています」
「えっ……」
目を見開くニコライ。自分の掌で腕の切り傷を押さえた。
ニコライの治癒の神通力を扱う能力は、軍医に相当する。自分の体に治癒を施すことも可能だ。彼は自分でキュアを使ってみようと、その傷に意識を集中させた。
「…………?!」
途端、彼の目が見開かれた。
「あ、うああっ!」
悲鳴を上げたニコライの首に、光の輪が現れた。彼を束縛する首輪のように。苦しげにベッドに踞る彼。
看護師が慌てて彼の背中に手を回す。
「どうしましたか?! この輪は、一体……」
看護師が光の輪に手を振れようとすると、それは彼女を拒むように電気を発した。
「あっ」
彼女は慌てて手を引っ込める。
苦悶の表情でベッドに横たわるニコライ。
「ううっ! あぁ……、うぇっ……」
彼は空の胃から、胃液を吐き出す。シーツを握り締め、心を落ち着けようとすると、首に現れた光の輪は次第に消えていった。
体を苦しめるものが無くなったのか、彼は深く溜め息を吐いた。そして、その美貌を怒りに歪める。
「あの悪魔……! こんなところでも私を縛るのですか」
恨めしそうにそう呟いて、彼は看護師と軍医に目を向ける。
二人は、ベッドに座っている彼を心配そうに見下げていた。
「だ、大丈夫でしたか? さっきのは……」
「ええ。大丈夫ですが、水を頂けますか? 胃酸で喉が痛いんです」
「あ、はいっ! 今お持ちします。シーツも直ぐに代えますから」
看護師はそう言って病室を出ていった。
視線を軍医に移すニコライ。
「私の神通力は魔力によって封じられたようです。神通力を受けることもできません」
「ええ、そのようですね。それは、その……悪魔、ミハイルに……?」
「…………」
軍医の質問に、ニコライは下を向いて唇を閉ざしてしまった。握り締められた白い手は震え、筋が浮かび上がっている。情緒不安定で、いつまた過呼吸を起こしてもおかしくない状態のニコライに、軍医は溜め息を吐いてしまうのを堪えた。
「すみません、答えてくださらなくてかまわないんです」
そう言う軍医に、ニコライは無反応だった。
コップに入れた水を持ってくる看護師。
「どうぞ。他に何が必要なものはありますか?」
彼女から差し出された水を手に取って、ニコライ。
「……レオを、」
「えっ?」
「レオ・クルツ伍長に……会わせてください」
彼の突然の要望に、軍医と看護師は顔を見合わせる。
「レオ・クルツ伍長……? ここの兵士ですかな?」
「ええ、そうです」
「あの、黒髪で背の高い方ですよね?」
そう言ったのは看護師の方だった。
軍医から彼女に目を移すニコライ。
「レオを知っているんですね」
「まあ……有名ですから」
「……悪い意味で、ですか?」
「それは……」
言葉を詰まらせる看護師。ニコライも視線を自分の手元に下げた。
二人の会話の意味がわからない軍医は、首を傾げつつも言う。
「ふむ、わかりました。レオ・クルツ伍長のことは上に頼んでおきますよ」
「お願いします」
その兵士がどんな天使なのか、ニコライとどういった関係なのかは分からないが、取りあえず承諾した軍医。
「それでは、まずはゆっくり眠ってください。心を休ませるにはそれが一番ですから」
「はい」
そう言って、水を一口飲んだニコライ。俯いた彼の美貌は、長い銀髪に隠されて見えなくなった。
軍医と看護師は、静かに病室を後にした。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
15 / 70