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六章 6
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ミハイルは、空を見ていた。
煉瓦作りの家の前、白い雪の絨毯の上。そこに佇む豊麗なる悪魔。
この地域では久しぶりに見る蒼天だった。若菜色の瞳は、その美しい青空を映していた。
冷え切った世界で、冷え切った表情で、彼は唯、空を見上げた。
「この空の向こうに神や天使がいると、ヒトは思うのか」
この空に近づけばあるのは宇宙だと知っていながら。
天界があるのは空ではなく別世界。天界と魔界は間界(かんかい)を挟んで繋がっているが、人間界は他のどの世界とも繋がっていない。
「この空に憧れるのか、ヒトは」
ヒトは翼を持ったことはない。天使と悪魔は、遠い昔に翼を失った。ヒトと同様に地を這う存在。神通力や魔力を使わなけれは宙を舞うことはできない。宙に浮くのは高次の技であり、できる者はごくわずかだ。
「結局、天使も悪魔も空に憧れるんだ」
どこまでも美しく、無限の空に。
この世界を見下ろす空に。
不意にミハイルは空から目を離した。 少し険しい顔をして家を取り囲む森林に視線を向ける。そこにあるのは木々と暗闇だけ。
自分の右の掌に目を落とすミハイル。その掌から、直径十センチメートルほどの水の球を浮かび上がらせた。水と光の魔力。他の空間の一部の様子を水の球の中に映像として映すのだ。かなりレベルの高い技である。
その球の中には、三人の男性が映っていた。二十代半ばの男性が二人、三十代半ばの男性が一人。全員真剣な表情だ。
三人がいるのはミハイルの家がある山の麓。しかし山道に入る前で止まって何か話している。
その三人の青年の姿に目を細めるミハイル。
「もう見つけるなんて、思ったより早いじゃない」
球の中で、一人の青年の顔がアップになる。二十代半ばの鋭い目つきをした青年。短くカットされたウェーブした黒い髪と、白い肌のコントラストが印象的だ。
その時、彼の黒い瞳とミハイルの翡翠の瞳が、数秒交わった。彼をミハイルが魔力で見ていることは、彼が知るはずもないのに。
「俺が見えるのかい? レオ君」
そう言って笑みを作る悪魔。
「君が探しているコーリャはもういない。君はそれでもここにくるかい?」
水の球を掌の上から消した。
「まあ、ここまで来れるかどうかって話だけれどね」
そして悪魔、ミハイルは踵を返す。家のドアへと歩いていく。中にはまだ本を読んでいる天使、ニコライがいるはずだ。
腕に抱きたい。あの愛おしく思えて堪らない、脆い男を。
私は、何故ここにいるのだろう。
天使である私が何故悪魔の家にいる? あの強大な力を持つ悪魔の魔力で、神通力も使えず何の抵抗もできずに。何故、私はあの悪魔に服従し、あの悪魔を受け入れているのだろう。
————愛しているからだ。
あの悪魔を?
————そう、ミハイル……ミーシャを。
私の名は?
————ニコライ・フォン・ヴィノクール。
職業は?
————天界軍の軍人だったが、ミーシャのために辞めた。
歳は?
————二十四歳。
家族は?
————いない。孤児だった。
そう、私は独りだった。ミハイルほど私を求める者はいなかった。
そして私が、いや、天使の誰もが知る限り、ミハイルほど強大な力を持つ悪魔はいない。天界軍で、私は恐らく優秀な方だったと思う。所属した基地に私以上の神通力の使い手はいないと言われたこともあった。周りの者に尊敬の眼差しで見られたが、私は孤独だった。私が心を開ける者はいなかった。
————いや、そんなことはない。
誰だ? 私の記憶に見え隠れするあの男は。
思い出せない。唯、必死に私の方を見ていて、私に手を伸ばしている。その姿だけが、私の記憶の奥深くにある。
ウェーブした黒髪で、濃紺の軍服を着た男。しかし顔も名前も思い出せない。でも彼は忘れてはいけない男だったような気がする。
彼のことは、一体いつの記憶だ?
いや、私はいつからこの悪魔の家にいる? 私は何故ミハイルと出会った?
『コーリャ』以外に私の愛称は無かったか?
私は何故、彼を愛している?
私はいつ彼を愛するようになった?
私は……
私は————……
ニコライは、目を覚ました。
目の前には分厚い本。どうやら本を読んでいたら机に突っ伏して寝てしまったらしい。体を起こしたニコライ。その時、後ろから誰かに抱きつかれた。
「…………?!」
「起きたんだね、コーリャ」
それは聞き慣れたミハイルの声だった。
ニコライは頭を少し傾ける。
「驚くじゃありませんか」
「ふふ、ごめん。よく寝てたね、何か夢を見ていた?」
「………‥ええ、まあ」
夢の中で過ぎった数々の疑問を、ニコライは口に出さなかった。何となく言ってはいけない気がしたのだ。
彼の首筋に口付けするミハイル。
「ねぇ、愛してるよ。コーリャ」
「はい……、私もあなたを愛しています」
振り返りながらそう返答したニコライの唇を、ミハイルが唇で塞ぐ。その時、芳ばしいような香りがニコライの嗅覚を刺激した。
「……珈琲、ですか?」
「ん? ああ、さっき飲んだ」
そう言ってニコライから離した自分の唇に舌を滑らせるミハイル。
「そっか、コーリャは苦いの好きじゃなかったね」
「ブラックの珈琲が飲めるあなたは理解に苦しみます」
「ふふ、可愛い」
子供みたいだ、と付け足してミハイルは椅子に座ったままの彼の頭を撫でる。
「でも君が俺を理解できないと思うのは味覚だけじゃないでしょ?」
そう言われて目を見開くニコライ。どういう意味だろうか。急にミハイルへの恐怖が心に芽生えた。全てを見透かすような目の前の悪魔の双眸に、背筋が寒くなった。
そうだ、理解できない。この男の思考も感覚も、何もかも。
固まったニコライに、ミハイルの手が伸びる。その白い頬に掌を付けた。
「俺が怖い?」
「……や、」
身体を震わせ、逃げるように立ち上がったニコライ。何故この悪魔がこんなにも怖いのだろう。愛しているのに。愛しているはずなのに。
ミハイルは怯えた顔の天使に、両手を広げる。
「大丈夫、愛してるよ。ねえ、愛してるでしょ? 俺のこと」
「ミー、シャ……」
真後ろの机に手を付くニコライ。そうだ、愛している。この悪魔に好かれたい。受け入れられたい。逆らおうなんて気はない。それを分かって貰わなくては————この悪魔に。
ニコライは、腕を広げたミハイルに抱きついた。
「愛して、います」
体は震えていた。怖い。この悪魔が。
震える彼の体を抱きしめるミハイル。
「うん。絶対離さないよ、コーリャ」
そして体を離し、ニコライの薄い青紫色の双眸を見上げるミハイル。幽玄な笑みを見せる。
「そろそろ夕飯作ろうか?」
「はい」
窓の外は群青が広がろうとしていた。
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