アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
<6> 五月六日 月曜日(2)
-
勝手口を出て、セバスチャンは裏庭にまわった。屏風岩の下部に当たる裏庭は奥がせり上がり、そこに、屏風岩に上る石段と墓地に下りる石段がついている。登ってゆくと、屏風岩のてっぺんの一部が小さな広場状になっていて、清水寺の舞台のような大きなバルコニーが崖の上に張り出した、ロッヂ風のアトリエが建っていた。
アトリエに来たことはなかったが、墓地からは太い鉄骨で支えられたバルコニーを見上げたことはあった。その時は危なっかしい建物だと感じただけだったが、実際来てみて、こんな崖の上にどうやって建築資材を運びあげたのだろうと改めて思った。陽樹の母親は素人画家だったと望月が言っていたけれども、娘のためにこんな場所にこんなものを作ってしまう昔からの金持ちの財力とは、いったいどれほどのものだったのだろうと考えずにいられない。
アトリエの内部はほぼワンルームで、バルコニーに向かってフランス窓が開いていた。奥に階段があることから、片流れ屋根の平屋に見えても、屋根裏部屋のような二階がついているようだ。窓が開いているにもかかわらず、室内にはテレビン油や油絵具の匂いがしていた。
陽樹にバスケットとポットを渡すと、セバスチャンは部屋を突っ切ってバルコニーに出た。
崖下に生えている木々の頭が足元に迫り、想像していたとおり、その下に墓地の向こう半分が見えていた。その先に礼拝堂の屋根や学院の建物、遥か彼方に中央アルプスまでが眺望できた。
「どうだ、初めてやって来た感想は」
アトリエに戻ると、サンドウィッチを頬張りながら陽樹が声をかけてきた。鷲鼻が目立つ細面の顔と痩せすぎな体型は、血の繋がりがないとは思えないほど校長に似ている。陽樹は校長の死んだ妻が最初の結婚でもうけた息子だった。校長も背が高いが、陽樹は一八八センチもあるそうだ。顎が尖った浅黒い顔は、いつも無精髭で飾られている。
「いい眺めですね」
「そうだろう」
陽樹は相好を崩した。
「陰気臭い納骨堂がなくなったんで、よけいスッキリした」
「納骨堂が見えてたの?」
「鐘楼だけな。緒方さんが死んだとき、ナントカという刑事が何か見なかったかとかなんとか訊いてきやがったが、あんな寒い晩にバルコニーに出るバカがどこにいる」
「一応、形式上ってことでしょ」
「まったく無能なやつらだ。仮にバルコニーにいたとしたって、夜中に何が見えるってんだ」
「そうですよね」
街中と違い、山の中の夜は本当に暗いのだ。
「ところでセバスチャン。あの件、どうだ」
アトリエなんぞという所が珍しくて、眺めまわしていたセバスチャンはうんざりした表情を返した。
「どうして」
「決まっているでしょう。裸なんて嫌ですよ」
「裸じゃなきゃ、いいのか」
「裸でなくてもイヤだ。モデルなんてガラじゃないしね」
「それを決めるのはおれだ」
事の起こりは去年の八月、夏休みを三日残して寮に戻ったセバスチャンが、同じように早めに帰寮していた友人たちとグラウンドでサッカーに興じていた時のことだった。ゲームが終わって、皆がひとかたまりになっていた。セバスチャンら何人かはシャツを脱いで、ショートパンツ姿だった。
そこへフラリと陽樹がやって来た。陽樹が帰国したばかりの有名画家だということは、セバスチャンもみんなも知っていた。が、夏休み中に帰国した陽樹の方は、シーザーの散歩係だったセバスチャンの顔を知らなかった。陽樹はつくづくセバスチャンを眺めて、言った。
「いい身体してるな。おまえ今度、おれのモデルにならないか」
セバスチャンは即座に断った。しかし、問題はその後だった。危惧したとおり、この一件は日を経ずして全生徒に知れ渡った。夏休みが明けると、友達や先輩がにじり寄ってきては言うのだった。
「いい身体してるな。おまえ今夜、おれの部屋でモデルにならないか」
「モデルにならないか」のフレーズはその後暫く学院の流行語になってしまい、セバスチャンはことあるごとにからかわれた。なかにはとても冗談とは思えないお誘いまであって、大いに驚かされたのだ。
「ずぇったいに、やりません!」
蘇った苦い思い出に、セバスチャンは力いっぱい拒否した。
「見事な肉付きしてんのに、惜しいよなあ」
サンドウィッチをパクついて、陽樹はケロリとしている。こっちの”その後”を知ってか知らずか、軽い調子が腹立たしい。人柄がよく話しやすい人物だというのはその後すぐに分かったのだが、何かにつけてモデルをさせようとするのが困りものだった。今日だって、望月の頼みだからやってきたようなものなのだ。失礼します、とセバスチャンはドアに向かった。
(何が肉付きだ! おれは食肉牛か!)
もう一言、言ってやろうとして振りかえった目が、陽樹の背後に立っていたイーゼルに引き寄せられた。一枚の絵が載っていた。やって来た時掛かっていた白布を風が床に落としていた。
若い女の肖像画だった。女の顔を正面から描いてあった。白いブラウスの襟元まで描かれているのだが、何故かこちらを見つめている女の目しか描かれていないような印象を受けた。
そして、あたかもそこにキャンバスの形に異次元の窓が開いて、むこう側から彼女がこちらを見つけているような気がした。
「気に入ったか?」
気づいた陽樹が会心の笑みを浮かべた。
「これ、新作?」
吸い寄せられるように、セバスチャンは絵の前に歩み寄っていた。
「二十歳の時に描いた絵だ。ちょっとデフォルメがきつすぎるな。今ならこんなふうには描かない。実物もこんな女性じゃなかったろう」
「なかったろうって、モデルを知らないの」
「写真を見て描いたからな。次の個展にイタリアに行く前の作品も出してはどうだってんで奥から出してみたんだが、これは今回はやめておこう」
「なんで? いい絵じゃない」
陽樹の作品の中でも、とりわけ人物画は高い評価を得ていた。
「お前の絵ならもっと良くなるぞ」
と、抜け目なく陽樹が猫撫で声で囁いた。
「まあ、この色使いは悪くないけどね」
乞われる側のセバスチャンはわざと上から目線で言った。しかし、本心だった。
「そうだろう?」
わずかながらも氷が溶け始めたのを感じとった陽樹は、そんなことは歯牙にもかけない。
ドッカとソファに座りこんで、残りのサンドウィッチを口にほうりこんだ。その様子がセバスチャンにはシャクにさわる。ちょっと気持ちが揺れただけなのに、まるで承諾を得たみたいにわざとらしくハンカチで唇なんぞを拭いているではないか。ハンカチの角にはY・Iと刺繍がしてあった。
「イニシャルを刺繍したハンカチなんてオジン臭いよ、陽樹」
「おっ母さんに言ってくれ。なんにでもイニシャルを入れちまうの知ってんだろ」
言われてみれば、校長のハンカチにもあった。バザーに出品する作品も、望月のは刺繍のものばかりだ。
「せめてパンツに入れるのだけは、勘弁してほしいんだよな」
エキゾチックな容貌の陽樹は、それこそモデルとしても注目されて、何度もファッション誌を飾っていた。その陽樹が望月が刺繍を入れたパンツを穿いているというのがなんともおかしい。
「だったら、望月さんにそう言えば」
「親父だって言えないのに、おれが言えると思うか」
絶対言えないだろう。小柄でちょっとふっくらした望月は、家族に尽くすことを無上の喜びとしているニッポンのお母さんそのものだ。ありがたいオフクロの愛情に誰が文句など言えるだろう。バチが当たる。が、それはさておき、校長のパンツにも刺繍が入っているってことなのか?
「何、ニヤついてんだよ」
横目で陽樹が睨んだ。
「いえ、別に」
顔が緩んでしまうのを隠そうとして、セバスチャンは横にあったスケッチブックを手に取って開けた。そしてドキンとした。現れたのは、生々しいヌードのデッサンだった。
後を向いた若者がシャワーを浴びているところを描いたもので、出っ張った臀や太い腿の描写が入念に描かれていた。我知らずセバスチャンは頬が熱くなるのを感じた。
「今度はどれがお目にとまった?」
と、陽樹がやってきて覗き込んだ。
「オオ、目が高い」
ポンポンと陽樹はセバスチャンの後頭部を軽くたたいた。
「こいつもおれの好きな身体つきだ。筋肉が程よく発達していて、身体の各部分部分がはっきりと分かれている」
(結局それかよ!)
セバスチャンはうんざりして、スケッチブックを元に戻した。
「それなら、高野さんみたいなビルダーをモデルにすればいいじゃない」
高野雅行はボディビルがシュミの馬術部のコーチだ。
「描きたいのはおまえだ。ビルダーとでは筋肉のつき方が違う。今回はあそこまで行く必要はない」
「こいつくらいで?」
セバスチャンはスケッチブックを顎で示した。
「そのとおりだ」
陽樹は大マジメだった。スケッチブックを広げて、先ほどのデッサンを指でなぞりながら説明しだした。
「こいつの臀は天下一品だぞ。形といい盛り上がり方といい、まさに理想的だ。臀の形というのは腰巾と腿の太さで変わってくる。腰巾は狭く、腿の付け根が太いのがいい。腰巾が狭いと臀が横に広がらずに、後ろに突き出すように筋肉がついてくる。そして腿が太いと、こいつのように下に向かうにつれて、腿の外側に引っ張られるようなカーブを描くわけだ。英語の筆記体のx形にな。だけど、それでも完璧じゃない。太腿の一番太い部分が、臀より二、三センチ下になってなきゃいかん。こんなふうにな」
いきなり陽樹が、横にいたセバスチャンの臀を鷲づかみにした。
「ウワオ!」
びっくりしたセバスチャンは、声をあげて跳び退いた。
「何すんですか!」
しかし陽樹は、まったく意に介さない。
「うん、やっぱり思ってたとおりの形だ。弾力も申し分ない。よく鍛えてある。おまえとこいつを並べて見比べてみたいもんだ」
「ビョーインへ行け」
「そう怒るな。ちょっと確かめただけだろう」
「今度やったら反撃しますよ」
「もうしない。その代わり、おまえを描かせろ」
セバスチャンはあきれかえった。何がその代わり、だ。あつかましいにも程がある。その代わりの根拠はなんなんだ? まったく懲りない男だ。
「ご免だって言ったでしょ。そっちのケツが描かせてくれたんだから、それでいいじゃないですか」
「いや、こいつにも断られちまったんだ」
「ちゃんと描いてあるじゃない」
「これは違うんだ」
陽樹の趣味は将棋で、海外ではチェスで我慢していたという。目下の好敵手は学生寮四号棟の管理人だ。気分転換にちょくちょく指しに行っているらしい。
三週間ばかり前のある日、対戦を終えた後で、寮の一階にある風呂に入った。寮の各室にはシャワーがついたユニットバスがついているが、各寮には二〇人は入れる風呂もある。風呂はかけ流しの温泉だ。まだ昼前で、誰も寮にはいないはずだった。
それなのに、先客がいた。授業をサボっていた山田夏久だった。山田は湯舟につかって火照った身体をシャワーで冷ましていたのだ。
「その時の記憶で描いたものさ」
「だからそう言ってんだろう」
「タトゥーですよ。臀だか内腿だかに入れてるって」
「ああ、アレか」
「やっぱ、入れてんだ。ほんとにハート形?」
「何だっていいだろう。だいいちアレはタトゥーじゃない。ただの痣だ」
「アザ?」
「変わった形をしちゃあいるけど、正真正銘ただの痣。なんでそれがタトゥーになっちまうんだ。それもハート形とは」
「一年の時何人か見たやつがいて、噂になったんです。それ以来、山田は大風呂に入らなくなっちゃったらしいけど。なんにせよ美少年てのは、何事につけ騒がれるもんでしょう」
「美少年ねえ……」
懐疑的なイントネーションだった。
「まあ、そう言われるのは理解らなくもないが、顔立ち自体はどっちかというと平凡だぞ」
「あの顔が平凡?」
辛い評価に驚いた。
「造形的な美しさというより、あいつの内面の魅力が造形以上に美しくしてるいい例だな。人間の顔ってのは面白くてな。その人の性格や人間性がほぼ全部出ちまう。造形的にはきれいなのにどこかくすんで、パッとしない顔もありゃ、どっちかといえば不細工に近くても、ヤケに輝いて美しく見える顔もある。
人は見かけによらないって言うが、実は見かけによってんだよな。注意してよく見りゃ、ちゃんと見えてるもんなんだ。見る側が気づけてないだけなのさ。
あいつはその意味で、正に美少年。内面にとんでもなくキラキラしたものを持ってるんだろうな。どっか超越したようなところもあるしな。だから痣ぐらいで騒がれてうんざりしたんだろ。ガキはつまらんことで大騒ぎしすぎる。おおいう頭のいい洗練されてるやつにとっちゃ、うっとうしいだけのはずだ。おまえ、この山田とは仲いいのか?」
「喋ったこともない。おれを嫌ってるみたいです」
「なんでだ。おまえを嫌うやつなんかいないだろう」
「でもそう思う。山田は山脇意織と仲が良いってことがあるのかもしれないけど」
「あのバーバリアンみたいのと、どういう関係があるんだ」
「ウーン、ちょっと説明しにくいんだけど、一年の頃から意織に敬遠されている気がしてるんですよ。山田って意織の元ルームメイトで、いつもベッタリって間柄だから、その影響もあるのかなって……」
「なんだ、そんなことか。ヨシ、おまえこいつと友だちになれ」
「なんですか、それ」
初めて会った時がそうだったように、陽樹には時々面食らわせられていた。そういう時は自分の中で、勝手に突っ走っているケースである。今回もそのようだった。
「一人じゃ嫌なら、こいつと二人でモデルになればいい。双子座にしよう。カストルとポルックス。うん、いい絵になるぞ」
突然閃いたアイデアに取り憑かれて、陽樹の頭には絵の構図まで浮かんでいた。
(セバスチャンがポルックスだな。白皙長身。鼻梁が高く、見惚れてしまうほどの大きな目。造形面でもここまでの顔はそういない。凛として大人びていながら、厚みのある唇なんぞ官能的と言ってもいいくらいだ。上品だが、こいつは自分の欲望にはがむしゃらに忠実だぞ。神聖で淫蕩。神の血を引く息子の顔だ)
画家の夢想は、ポルックスの声で中断された。
「一人だって嫌なのに、二人じゃその二乗になるだけだよ。そもそも発想にムリがある。顔が違えば、誰も双子になんか見てくれない」
「違っているのは、あいつの顔が平面的な極東人種の顔ってとこだけだ。身長も体型もほぼ同じ。ここまで近きゃ、美しいという共通点だけで双子で通る」
「そんなワケないでしょう」
「『千夜一夜物語』にあるんだぞ。イヤァ、ありゃ恋人どうしの話だったっけ? 互いに憧れあうから似てくるっていうのは。マ、どっちでもいい。ポルックスはゼウス、カストルはスパルタ王、つまり人間の子として生まれてくるんだから、少し違ってていいんだ」
「幻の作品になるでしょう」
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
6 / 19