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蝉
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蝉の音が止まん。
朝起きた時は、耳鳴りじゃと思った。が、顔洗っても歯ァ磨いても、いっこうに消えん。消えたと思ったら、それは慣れからの静けさで、よう考えたらやっぱりずうっと鳴っとる。ミンミンじゃのうでジャワジャワやかましいのんが。
蝉なんておるわけない。
ほやって今は十二月じゃ。
それも大都会の、防音のマンションでこんなに聞こえるわけが無うて、苛立ちに片耳トントンしよったら兄ちゃんが起きてきた。
「なんしよん」
「耳鳴り」
またアホな動画ァ、徹夜で観よったじゃろと、兄ちゃんは俺を馬鹿にして、冷蔵庫から牛乳を出す。うるせえな、ほんま。確かに音楽聴いたり動画観たり、聴覚は酷使しとうけども、ほんでも蝉っち耳に聞こえるかえ。ノイズじゃない。ああやっぱりこれは、蝉じゃ。
暑苦しい、息苦しい、田舎の蝉じゃ。
目も開けられんほどの眩しさと、蒸せかえるような夏草の匂いと、くたびれた神社じゃ。ようあそこで蝉採りしたなあ。
「熱でもあるん」
朝食の最中やった俺に、兄ちゃんは手を伸ばしてきて、安易に頬に触れてきよる。思わず払ったら、兄ちゃんのもう片手に持ってた牛乳パックから、中身がこぼれた。
「ああもう、ダボ」
「ハゼ」
「ハゼちゃうやん、コチやん」
コチコチのコチ。俺のターンで終る、二人にしか分からん、ガキの頃からの応酬はダルい。その間もずっと蝉が鳴いとう。腹立つ。
「うわー、きたな」
「ええやんけ今日洗うもん」
兄ちゃんが、着たまんまのパジャマで、膝んとこで床を拭う。ニートはええなあ。ほんで今日も家事掃除かい。ほぼゲームすんねやろ。優雅な生活だこって。
立ちあがるのも億劫なんか、兄ちゃんはそこに座り込んで、俺を見上げた。喉が渇いてもないのに、俺はごくりと唾を飲みこんだ。
席を立って、逃げる。
「あら、飯は」
「……もう要らん」
ほなら兄ちゃんが食うと、あいつは俺の囓りかけのパンを食いよった。汚い。
どこでなんしてたか、知らん。なんや連絡取れんくなって、別におらんくてもええわと生活してたら、ある日いきなり転がりこんできた。働きもせず弟の家に居候しちゅう。金なし職なしのあほんだらじゃ。
スーツにはもう着替えてあるんで、俺はさっさと鞄を持って玄関に行く。
「コート着いや。寒いやろ」
まだパンをくわえながら、兄ちゃんが追ってきた。ああそうか。今は夏じゃないのか。
「…………汗かいとうよ? 病院行きや」
兄ちゃんが小首をかしげる。こめかみを拭うと、確かに俺は汗をかいていた。
重たいコートの必要な季節やし、空はどんより曇っとる。
どう見ても冬やのに、ジャカジャカジワジワうるさいのが消えん。音楽で被せても余計気になる。あかんな。
仕事では電話もするけえ、これじゃ使いもんにならんやろと、職場に連絡を入れる。ジャコジャコ言っとう隙間から、上司の心配する声が聞こえた。
病院。この早朝に開いてそうなとこ。
ふと、向こうの通りに、診療所を見つけた。中から患者らしきもんが出てきて、通りを去っていく。
磨りガラス越しに、ぼんやりとオレンジ色の光。
なんとも古めかしい建物じゃ。白壁に緑色の木枠と扉。金色に光る真鍮を回すと、軽くするりと開いた。
中には誰もおらんかった。スリッパに履きかえんでもいいらしい。そのまま受付に声をかけたが、シンとしていて、奥の部屋から俺を呼ぶ声がした。
「どうぞ。こちらにお入りください」
部屋に入ると、そこには奇妙な医者がいた。
どこがどう奇妙とは言えん。
顔は分かるんに、目を反らすとどんな顔つきだったか思い出せん。白衣だった気もする。
俺より背が小さいんか、大きいんか、座っていたのか立っていたのか、見ているのに情報が読み取れん。
ほんでその読み取れんことにも、違和感を覚えんくらい、とにかく蝉の鳴き声が喧しい。
「ああ、蝉ですね」
と、その人は言った。上司との通話はあんなに聞こえんかったのに、何故か医者の声はすうっと脳に入ってきよった。
「何か、心当たりはありませんか」
ベッドに寝かされて、催眠術の真似事をされる。しまった。看板をもうちょい、よく見てくりゃよかった。
心の病なんぞ言われたら、鼻で嗤うしかない。俺はそういうのは、似非科学のようで、あんま好かん。
「蝉。夏。昔の思い出」
田舎の神社で、よく蝉を捕まえた。素手で捕らえる奴もおったし、虫取網と、カゴをちゃんと持ってくる奴もいた。緑色のプラッチックんなかで休む蝉。
でかい麦わら帽子。
鬱蒼と生えた雑草。
子供以外、誰も来ん神社。
兄ちゃんは生まれたときにちょっと病気をしとって、身体が弱かった。
俺んが図体もでかくて、どっちゃが兄貴なのかと、よう言われとった。線の細い兄はいじめられることも多かったんで、俺が守ってやったりもした。ほんで。
…………ほんで。……………
………………………それから。…………………
蝉。
茶色い羽。
黒い目玉。
細い足。
脱け殻。
近所の友達と蝉採りをした。ほんで、兄ちゃんは一匹も捕まえられんくて。みんながからかって。
脱け殻なら見つけたんもと、手のひらに兄ちゃんはそれを乗せとう。誰かが悪ふざけで、それを兄ちゃんの口に押し込もうとした。当然、避けた。けど、そのあと。
みんなが、よってたかって、兄ちゃんを押さえつけて。押し倒して。半ズボンから見える、太ももの裏っ側の白さ。どんなにもがいても、逃げられない両腕。馬乗りになっとう奴に、むりやり口をこじあけられんとしてる姿。
俺が止めに入る前に兄ちゃんは泣き出して、ほんでみんなは白けてやめたんやった。まさかほんまに、口に入れるわけないやんか。おふざけじゃ。
あの日、初めて欲情を覚えた。まだ射精もなんも知らん頃やった。
昨夜、兄ちゃんがほろ酔いで、男に犯されそうになったけえ、なんもかも捨てて逃げてきたと言うた。
俺んなかでどろどろと形にならんもんが、ずっと隠してきた気持ちが、固い殻を破って今騒ぎ立てとる。やかましく。けたたましく。
「処方です」
医者は小さな瓶を俺に渡した。出すとこは、霧吹きのようになっとった。
「かなり刺激の強い媚薬ですので、ご使用は程々に」
俺は医者に金を払ったかも分からん。どうやって家に帰ってきたかも知らん。
気付くと玄関の内側にいて、兄ちゃんが心配そうな顔してリビングからやってきた。
「あっつ。……え、ねえ、熱あるやろ」
もたれかかった俺を、いまだに俺より背の低い兄は、受け止める。いっぺんでいいからキスしてくれと伝えると、だいぶ迷ったあとに、兄ちゃんはいいよと言ってくれた。
唇の重なった瞬間、蝉の鳴き声は止んだ。
ああ、なんや。
こんな簡単なことやったんか。
「兄ちゃんに処方あんねん」
「…………は? おれに?……って、おかしくない?」
霧吹きシュッとかけると、兄ちゃんは途端にへたりこんだ。
「どない?」
「え? えっ……ぁ……力、入らんのやけど……」
不安がっとう兄ちゃんを寝室まで運んで行き、ベッドに寝かせた。
もうあとは、甘い樹液を延々と貪るように抱いた。
終
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