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「ええ、今回はいろんなコンペなどに出場して海外を転々と…」
「おお、そうか」
古い造りのこの家には、まだ土間がある。
スーツケースを横にして開くとパンパンに詰まった中から、立てとかトロフィーなどを出して並べる。
「お土産です」
「いらん」
英語の苦手な師匠は、横文字の並んだ羅列を見て、一瞬で意味を理解するのを諦めた。結構有名なコンペのものも含まれているのにも関わらず興味がない。確かに、個人の成果といってしまえばそれまでだが、自分の育てた弟子の勇姿と思えば、世界に通じる優秀な弟子を育てた師匠なんだと自らを技術力の高さを認識してほしいなんて遠回りに思う。
だが、師匠はまるっきり興味がない。そもそも、そんな遠回りに話を理解できるような人でもない。
親心で弟子の勇姿を見守ってもらえたらそれでいいと思う。それも想定の範囲内なので特別感情が乱れることはない。長年、師匠を見ていたらままあ想像がつく。
「まあ、こないだの変なお香よりはマシだけどな」
師匠の元を離れて、海外を転々とした生活をしているが、どこの国へ行っても、師匠ほどの腕を持つ人はいない。そりゃあ、タトゥーと刺青の文化の違いについて語り出したら、1日じゃとても語り尽くせないし、民族や文化の違いを論争するのは、ナンセンスというもの。
国や文化が違うのに、皮膚に墨を入れるという風習があって、それに価値観や神秘的な意味が絡んでいるのは、どこの国も共通しているというのは興味深い。
太古の昔から色んな土地でカルチャーが発展して、神仏と絡んでいるもののどこかでそれを悪とする者たちとの歴史の間で揺れる。時に、国や宗教さえ巻き込んで大事になって歴史を引き継ぎ、今に至る。時折、話題に挙げられては倫理観を試される。
限られた情報しか与えられなかった時代、それにより大衆が操作されていた。今は様々な手段で情報が得られるものの、強者によって弱者の意見は簡単に変わってしまう。
だから、何が悪で何が善なのかは、本人の経験値に委ねられている部分が多いのも事実。
刺青を日常にしている自分には、善悪とは何かについてはわからないし、白黒つけるつもりもない。ただ、窮屈な世界で生きていると、見えないことも多いから師匠の元から離れることにした。
自分がやっていることは、悪なのか?善なのか?
それを天秤にかけることに意味はあるのか?そもそも悪とはなんなのか?
痛みと引き換えに体に刻み込むという、捉えようによっては無謀にも勇敢にも解釈できる行為は、人間にとって肉体と共に魂を結びつける儀式のような行為ではないだろうか。そう考えれば、国や人間が変わっても、皮膚に針を刺して墨を流し込むという文化が固有に進化し続けるというのは合点がいく気がする。
そのために地球の裏側まで行ったし、最先端の技術にも触れもした。自らに傷をつけるというのは、ピアスも切っても切り離せない訳で、それについても随分勉強した。
国を回って文化に触れて、贔屓目に見ても師匠の技術は追随を得ない。やっぱり、師匠の元に帰ってきて思うことは、どんな文化や機械が進化しても、昔気質を貫く職人の持つものを一生かかっても真似はできないということ。
最近は、海外のショップやイベントから声をかけてもらえるようになって、世界各地いろんな場所でタトゥーを彫る自分には、少なからず顧客はいるものの、それでもまだ十分ではないと思ってしまう。それはきっとこの人がいるからだ。
もどかしささえ与えない圧倒的な技術と、時代や文明が変わっても貫き通す昔気質の頑固な性分は自分には到底真似なんてできない。
「あれは師匠が…」
師匠はそう言って、狭い台所でガシャガシャと荒い手つきで何かをしていた。
この部屋は、昔から…いや、ずっとずっと変わっていないんだと思う。師匠が生まれた頃よりもずっと前から、間取りとかそういうのとか。
取り残されているといえば、確かにその通りで、トイレが水洗になったのがまだ新しいほうなのだ。ちなみに、まだ和式。
だから、師匠が立ったらちょうど良い台所は、自分が立つと狭いと怒られるし、部屋の真ん中の電気にもすぐに打つかる。
「あれ?そういえば、土壁から変えたんですか?」
「ああ、そうなんだよ」
この家の壁は、擦ればボロボロと落ちる土壁だったはず…
壁の色が新しくなっているが、既に刺青に使われるインクか何かがついているのと、師匠が室内で吸うタバコの脂で薄汚れていた。
「ミエコに変えたほうがいいって言われて、変えたんだよ」
ミエコというのは、師匠の一人娘。
と言っても、師匠は結婚をしていない。師匠は、兄弟を亡くしていて、その子供を引き取ったらしい。
詳しくは聞かないし、師匠も話さないからそれ以上のことはわからないが、現在ミエコは都内のマンションに住んでいて、たまに師匠の世話をしている。
「そうですか…」
眼鏡は相変わらず変えないのに…
頑固な性格をしているくせに、娘には甘い一面を示すのが、なんだか少しささくれ立つ。
「ほれ」
師匠が不器用に用意してくれたのは、口の欠けた湯呑みに入れられたお茶だった。
土間から靴を脱がずに室内を見ていた自分に合わせて、段差に胡座をかいた師匠は隣に座った。
「ありがとうございます」
いつもの口の欠けた湯呑みの中に、緑茶が入っている。粗暴な性格が出ているので、やや茶葉が浮いている。
師匠も自分の湯呑みにお茶を入れてそれをズズッと口にしていた。師匠の指は太くて短くて丸っこくて、皮膚が分厚い。それなのに、繊細な彫り物を手がけることができるため、見た目と作品とのギャップがありすぎる。
師匠のどこにそんな繊細な要素があるのかと、人間性を長年研究して探すものの全く外側には出ていない。
「師匠」
今の刺青は、ほとんどが機械彫りで師匠のように手彫りをする職人は数える程度しかいない。だからこそ、師匠の風貌から生み出される手仕事は、もはや神の領域なんじゃないかとさえ思うようになってきた。
海外へいって師匠の仕事を見ない間にも、師匠の元には依頼がくる。それを日々師匠はこなしていって、どんどん技術が磨かれていく。
今日よりも明日、明日よりも明後日の方がどんどん洗練されていって、久しぶりに見た師匠の絵柄もまた以前見たものよりも精度が上がっている。もう人が踏み込めない領域の技術なんじゃないだろうか。
「なんだ?」
師匠は、手を伸ばして使い古されて黒ずんでいるタバコ盆に入れられた灰皿を引き寄せて、タバコを咥える。
「好きです」
少ない紙タバコを振って先端を出して口に咥えて、それからマッチで火をつける。
ライターだとオイルの匂いがしてイマイチ気に入らないと言って、いつもマッチで火をつける。マッチは火をつけた瞬間から、微かに火薬の匂いをさせて一瞬で燃え上がる。
抱えるように手で覆って火をつけて、すぐさま手首を振って消すと、真っ白い煙が立ち上る。その匂いもまた独特で懐かしい。
マッチの火に照らされた師匠の瞳に暖かな光が入る瞬間を見逃さない。師匠はそれをすぐに灰皿に放る。
「おめぇ、まぁたそんなこと言ってんのか」
最初の煙を勢いよく吸い込んで、両の鼻の穴から盛大に吐き出すと狭い部屋にたちまち広がる。
眉間に皺を寄せて、こちらを見る。迷惑をしているといった表情ではなく、タバコの紫煙が目に染みるからだ。
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