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互角の勝負
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窓から見下ろした午後の街は、一マイル先も見通せないほどに濃霧の底で澱んでいた。ロンドンはよく「パブで煙草を吹かす紳士」と例えられるけど、今日はまさにそうだった。目に見えぬ紳士の吐く紫煙は辺りかまわずと言った感じで始末に負えない。
ほらご覧、通りを行く人は、ゾンビのように手を伸ばしてよろよろ歩いている。それか、足下をよく見るためにずっと陰気に俯いている。信号が変わる度に車のクラクションや怒号も飛び交うし、うるさいったらありゃしない。
こんな大騒ぎの元を作るなんて自己中心的な男だ。まるで何処かの誰かみたいに。
そんなことを思っていたら、本当に憂鬱になってしまった。ああ、しかし行動を起こさねば。マフィン君がちょうど何処かへ出掛けている今の内に。
僕は不吉な予感に呻いた後、死神の住まう二号室の扉をノックした。
「何の用だ」
ガチャリ、と扉を開けるや否や、彼はその隙間を埋めるようにだらしなく立ち、気怠げにそう言った。生まれつきの美麗さが台無しになるほどに頭はボサボサで、顔は「寝起きです」と言わんばかりにぼんやりして締まらない。高価なブリティッシュスーツは寝巻き代わりなのか、皺だらけだった。
けれど、本当に眠いのなら、利き手を腰にやる必要はない。足先で絨毯や新聞紙の山の下に隠した銃かナイフかを抑える必要もない。顔を合わせた瞬間、その瞳が鋭く光ったことだって僕は知っている。
「聞く必要あるかい? 君に限って」
「そうだな」
シャーロックはふっと笑った。同時に、まるで憑き物が落ちたように気怠げなそぶりは消え失せる。彼はくるりと背を向け、後ろ手で部屋の中央にある椅子を指した。それから煙草に火を付ける。
ジュッというライターの音を聞きながら、僕は絨毯に広がる物や書類を遠慮なく踏み付けて椅子に向かう。やれやれ、汚い部屋だ。何処もかしこも物だらけ。壁は犯罪者たちの写真や陰惨な事件の切り抜きでいっぱいだ。大家のユウミさんが見たらなんて言うかな。空気も煙で濁っている。窓は開いているのにだ。
僕は椅子に辿り着くと、その上に転がっていた本やバイオリンやペーパーナイフやらを適当に側の机へ片付け——でもいざという時に手を伸ばせるようにしてから——腰を下ろし足を組んだ。
「お前の話はこれのことか」
シャーロックは煙草を咥えながら懐に手をやり、不恰好に膨らんだ小さな封筒を抜き出した。
ああ、やってくれたねマフィン君。一目でUSBメモリが入っていると分かり、僕は溜め息をつく。寄りかかった椅子の背もたれは綿が抜けて硬かった。
「そう。それを返して欲しいんだよね」
「返して欲しい? 妙だな。これは俺がハリーから『もしもの時に聞いて』と預かったものだぞ。わけを言え」
「嫌だね。どうせ検討も付いてる癖に」僕は舌を鳴らした。
「意地悪なやつ」
「そうか? お前が俺の立場なら同じことを言うと思うがな」
シャーロックは不思議の国のチェシャ猫のようにニヤニヤと、胸をえぐるような嫌な笑みをした。さすがにとても腹が立ち、僕はすぐさま傍の机からペーパーナイフを取って投げつけた。木の柄は重く刃も分厚いが、彼の瞳に届くまで〇.一秒とかからない。
しかし、ここは彼の本拠地だ。彼は身を捩ってそれを避け、体の重心を戻しながら、ナイフが刺さった壁にかかる死体の写真入り額縁に手をかける。見る間にそれが飛んで来た。僕は椅子を滑り降り、耳に風を感じつつ、凶悪な回転をやり過ごす。同時に床のガラクタから黒く厳ついベレッタPx4を拾い上げ、トリガーに指をかける。けれど彼も彼で、額縁で隠していた壁の凹みからコルト・パイソンを抜き出していた。黒光りする九ミリの銃口が真っ直ぐ僕を向いている。
全く、いつもいつもこれだ。僕は呆れて肩を落とした。
いつになったらこの男を完全に出し抜くことが出来るのだろう。参ったね、本当は今すぐにでも撃ちたいけれど、彼と心中なんて最悪だからな。
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