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【一歩】-7
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智明の部屋に幸平が来て一緒に暮らすようになってからというもの、穏やかな日々が続いていた。
手元のコーヒーはもう残り僅かで、智明は気づかれないように、そっと幸平の揃いのマグカップを覗いた。思った通り中身はすでに空で、狭いソファーで肩を並べていた幸平が、立ち上がろうと前屈みになったところだった。
ソファーから離れれば、もうこの恋人の真似事のような時間は終わりだ。ふたりの空間は日常へとあっさり姿を変えてしまうだろう。まだもうちょっとと引き止めたいのをぐっと我慢して、智明はカップを持ってキッチンに向かう幸平の背中を静かに見送った。あと数日もすれば割れてしまう運命にあるカップを、このときばかりは恨めしく思った。
「え……何て?」
『だからさ、俺結婚するわ』
その連絡はあまりに突然で、智明は握っていたスマホをうっかり取り落としそうになった。
洋之が結婚という言葉を口にしたのは初めての事で、智明はもやついた重たい気持ちが急激に腹に溜まっていくのを感じた。遂にここまで来てしまったかと天を仰ぐ一方で、果てしなく捩れた愛情表現に恐怖を覚えたし、どこまで幸平を傷つければ気が済むのかと腹立たしくもなった。
電話口で怒鳴りたいのを必死に堪えながら、会食という名の結婚報告会の日程を組んだ。おそらく幸平も先に連絡を受けたことだろう。どんな反応をみせたのか想像することしかできないが、洋之はさぞや悦んだに違いない。
しかし実際に大変だったのは会食の当日だった。彼女を目の前にした幸平は平静を装っていたが明らかに顔色が悪かった。会話もぎこちなく、智明は本気で心配して何度も助け舟を出すはめになった。洋之はそんな幸平の憔悴していく姿を平然と――というより寧ろ幸せそうに眺め続けている。
挑発するように彼女の手を握り、仲の良さをアピールする度に、幸平はますますげっそりと頬をこけさせていった。気持ち悪くなって席を立った幸平の背を擦りながら、そんな弱る幸平の姿に洋之が興奮しているのを、もちろん智明は見逃していない。
歪んだ愛情表現に自分の付け入る隙などこれっぽっちもないのだと改めて見せつけられて苦しくなった。でもだからこそ、この二人の均衡を保つには自分という存在が必要なのだということも理解していた。
家に帰ってきてからの幸平の荒れ方は想像以上だった。手のつけられない子どもそのもので、マグカップを床に叩きつけたときには、さすがの智明も手を上げていた。唯一、恋人気分を味わうことが許されていた時間が失われた瞬間だった。
この日、目隠しをせずに幸平を抱いたのは、洋之と幸平、二人に対する当て付け以外の何物でもなかった。
抵抗する間も与えず、何度も幸平を掻き抱いた。洋之につけられた傷を、自分の傷で上書きしたかったのだ。けれど幸平の瞳が失望の色を宿すことはなかった。そのことが逆に智明を苦しめた。嫌われれば思いの丈をぶつける事だってできただろう。しかし受け入れられてしまえば、それ以上のことは望めない。
翌朝飲んだコーヒーは、いつもよりずっと苦く感じられた。
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