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二.
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生徒のあいだでは特別棟とも呼ばれている北校舎の脇には、建物に沿って小さな花壇が二つほど並んでいる。その他にはすぐそばの公道と学校の敷地内とを隔てるフェンスと木々が立っているだけで、校舎裏とでも言うのがしっくりくる。一、二年生が使う北門は近いものの、昇降口へ行くために通る必要もないため、ここにはほとんど誰も来ない。
それなのに、この場所にはたびたびゴミが捨てられている。いや、それなのに、と言うよりは、それだからと言った方が正しいのかもしれない。ポイ捨てが良いことだとは思わないけれど、もしそれをやるのなら出来るだけ人に見られないようなところで、人に見られないようにするのが真理だとは思う。
フェンスの向こうの道は、この高校に通っている多くの生徒が歩く通学路だし、一般教室から移動してわざわざ特別棟の教室で昼食を広げる生徒は一定数いる。直接ここを通らなくても、ゴミはいくらでも捨てられるというわけだ。
ゴミ拾い用の大きなトングで、落ちていたオレンジジュースの缶を拾い上げる。中身は空っぽだ。中途半端にへこんだ空き缶は、泥で汚れていた。
「……こんな風に捨てるんだったら最初から、……買うなっつーの」
独り言を漏らしながら、ゴミ袋に放り込む。
夏休み前の定期試験のあいだ、雨はほとんどずっと降り続いていた。学校全体がただでさえ鬱々とした雰囲気になる時期だけれど、雨のせいでそんな空気がより強くなっていたように思う。そんな定期試験も昨日でようやく終わった。
雨も今朝までは降っていたけれど、昼過ぎには太陽が顔を出した。そして空は、もうすぐ夕焼けに変わる。あいにく北校舎の裏側は夕日の鑑賞スポットにはならない。せいぜい校舎と木々の間の空が赤くなっていくのを見ることができる程度だった。空が夕暮れるのを見るのはずいぶん久しぶりのような気がする。それほどに連日雨だったのだ。
七月に入ってから、雲に隙間が出来た瞬間や今日の昼過ぎなんかには、それを待ち構えていた蝉が堰を切ったように鳴いていたし、気温もだんだんと高くなってきているけれど、梅雨明けはもう少し先らしい。
いくつかゴミを拾ってから、僕はふと手を止めた。
フェンスの前に並ぶ木々の一番端にはひっそりと一本だけ紫陽花が生えていて、僕はそれの前にしゃがみ込む。紫陽花にはまだところどころ雨粒が残っていた。テスト週間に入る前はまばらに花が付いていたと思う。しかし、その花がもうどこにもなかった。葉の間に手を伸ばして触れてみる。
「もう切ってしまったよ」
同時にそんな声がして、顔を向けるとそこには日比野さんが立っていた。
「紫陽花は、時期が来たらそうやって切ってしまわないと」
「去年も聞いた」
言葉を遮って僕は言った。彼の少しゆっくりすぎる口調は、いつも終わるのを待っていられなくなる。
「で、来年は僕も切りたいって言ってあったはずだけど」
僕がそう続けると、日比野さんは途端に困ったように眉を下げながら頭を掻く。
「あぁ、あれ、そうだったかな……、それはごめんね」
日比野さんは、この高校で用務員をやっている。すらりと背が高く、三十後半の年齢よりもけっこう若く見えると思う。それが理由なのかは知らないけれど、校内で女子生徒に声を掛けられているのを度々見かける。
北校舎裏の花壇は、日比野さんが管理をしている場所の一つだ。花を植えるも植えないも、日比野さんの気分次第という状態になっている。
「来年は一緒にやろう」
「……どうせ忘れるんじゃないの」
「今度は忘れないよ」
僕はその言葉を全然信用できなかったけれど、とりあえず頷いておくと、日比野さんは少し安心した様子で微笑んだ。
この高校で父親の知り合いが用務員として働いている、という話を母から聞いたのは去年の春のことだった。それから間もなく入学した僕は、放課後に母から聞いた名前を頼りに用務室へと行ってみた。日比野という名前の用務員はいないかと訊くと、北校舎の裏にいるかもしれないと告げられ、その日初めて僕はここへ来た。
そして日比野さんを見つけた。
僕は、死んだと聞かされていた父親について、この人に会えば何か訊けるかもしれないと考えていた。だけどいざ会った瞬間に、どう切り出していいのかわからなくなってしまって、結局あの日からずっと訊けないままでいる。それから時折この校舎裏に来て、初めのうちは適当な理由をつけてごみ拾いや花壇の世話を手伝って、何か訊こう、何か訊こうと思っては失敗を繰り返していた。
でもある日ふと、疑問が浮かんだ。先走っていた行動に、思考がやっと追いついたのだ。僕は、父親について何が知りたいんだろう、と。あったこともない父親なんかに何を訊いて、それに何の意味があるのだろう。
そうしていつの間にかこんな風に、日比野さんの仕事を気まぐれに手伝うことだけが習慣化してしまった。
「掃除、ありがとうね」
軍手をはめた手を伸ばされ、ごみ袋を渡す。彼が軍手をするのは掃除をするときではなくて、土を触るときだ。
「何かやるの?」
「ん? あぁ」
花壇の方へ視線を向ける。二つ並んだ花壇は、どちらもほとんど空いてしまっていて、まばらに雑草だけが生えていた。
「そろそろなにか植えようかなと思ってね。だけど今日は、雑草を間引くだけだよ」
「ふーん」
僕は花壇のすぐ傍にしゃがみ込み、日比野さんが雑草を抜いていくのをぼんやりと見て、時々自分でも小さな草を引いてみたりもした。
花のない囲いを見ながら、一か月ほど前のことを思い出す。春が終わるまでここにはチューリップが咲いていた。それが梅雨に入る前に、突然無くなった。いや、無くなったんじゃなくて、荒らされたのだ。花壇が踏み荒らされる事件は、去年もあった。
僕は腹を立てたけれど、日比野さんはいつもののんびりとした口調で「困ったものだね」と言うばかりだった。
まだ少し湿っている花壇の土を指先でつまむ。人さし指と親指のあいだで、ざらざらと土が擦れた。汚れるのは好きじゃないけれど、土の感触はけっこう好きだ。
「今度は何を植えるの?」
日比野さんは、うーん、と唸ってから「どうしようかなあ」と答える。どうやら新しい花が花壇に並ぶのはまだ先になりそうだ。
「凪」
日が少し暮れてきた頃、耳に馴染んだ声がして顔を向けた。僕と目が合うと、彰都は右手を少し上げる。
「今行く」
手に付いた土を払っているあいだに、彰都は日比野さんに頭を下げて、日比野さんは「こんにちは」と返す。僕は放ってあった鞄を手に取った。
「じゃあ、帰りまーす」
「はい、気をつけてね」
おまたせ、と言いながら彰都に駆け寄る。
「別に待ってないぞ」
「言うと思った」
僕が笑うと、彰都も微かに口角を上げた。いつものやり取りだ。彰都とは小さい頃からの付き合いで、こういう瞬間は心地が良い。何を考えるでもなく、先の見える会話をして、けれど飽きるわけでもない。呼吸をするのに似ている。
彰都と学校を出て、歩いて二十分ほどの場所にある最寄り駅から電車に乗った。扉のそばに並んで立ちながら、外を流れていく見慣れた景色を一緒に眺める。電車は高架を走り、高い建物もほとんどないため、夕暮れの空がよく見えた。
「暑くなってきたな」
まだ降りない駅で電車の扉が開いたとき、彰都が少し潜めた声で言った。僕は頷く。弱い冷房が効いていた電車内にひとしきり夏の空気が入り込んでから、扉は閉まって電車は再びゆっくりと走り出した。
「今日は日比野さんのところ、楽しかったか?」
「楽しいとかは、別にないって。いつもと同じ」
「そうか」
「ごみ拾って、雑草抜いて、彰都が来て、終わり」
「俺が邪魔したのか」
そう言ってこっちを向くから、僕も視線を彰都に向ける。彰都は一つの吊革に両手を伸ばし、腕に顔を預けて僕を見ていた。中学三年から彰都を少し見上げ始めたけれど、もうすぐ追いつく気がする。
「違う」
「それなら良かった」
快速電車で停まる三つ目の駅で、僕たちは電車を降りた。
「家まで送りたいんだが」
「今日は店を手伝う日、でしょ」
「ああ」
「じゃあ彰都の家まで行く」
「いいのか」
「テストも終わったし、家で急いでやることもないし」
僕の家は駅の南側、彰都の家は北側にある。
駅の北口を抜けてしばらく行くと、小さな商店街に出る。町の一番北にある中学校への通学路として、三年間自転車でここを真っ直ぐ走っていた。あの頃と比べるといくつか開かないシャッターは増えたものの、変わらないことの方が多い。
和菓子屋のガラス越しに見えた店主の奥さんに彰都が頭を下げ、日本人形と目を合わせながら人形屋の前を通り過ぎ、旅行が趣味の夫婦が経営する雑貨店の店先に貼られた「旅行中のため七月末日までお休みです」という張り紙を見て夫婦の旅行先について彰都と予想し合った。
そうして二本目の交差点を過ぎた先に、少し開けた駐車場がある。三方を建物に囲まれたその場所は、一歩踏み入れるとなんとなく空気が静かになるような気がする。駐車場の奥には石畳や竹で造られたほんの小さな庭のような空間があって、数個の飛び石が二階建ての建物の入り口へ続く。一階部分にはすでに暖簾がかかっていた。
――手打ち蕎麦 望月
入り口にかけられた暖簾で、その文字が風に揺られている。
望月彰都はこの蕎麦屋の一人息子であり、僕の恋人だ。
「じゃあ」
立ち止まった僕の手の甲にふと彰都の手が触れて、すぐに離れる。一秒ほどの出来事で、まるで偶然に当たってしまったような。それでも、彰都がそれをわざとやったということは判った。
「気をつけて帰れよ」
「うん。じゃ、また明日」
僕はろくに彰都の目も見ないまま、振り返って帰路についた。
雑貨屋の前を早足で進み、人形とは目を合わせないようにして、和菓子屋の手前で道路を反対側に渡る。
商店街を抜けて駅が見えてきた頃、ようやく鼓動が落ち着いてきた。
彰都からいわゆる告白というものを受けたのは、およそ半年前のことだ。年が明ける前の寒い日だったことを憶えている。あれから半年ほどが立った今でも、僕は彰都との「恋人」という関係に慣れることができていない。そして、それを実感するたびに僕は自分に言い聞かせる。こんな風になることは僕も、それに彰都も解っていただろ、と。
そんなことを考えながら駅の高架下にある自転車置き場を歩いていると、無造作に並べられた大量の自転車を照らす外灯の一つが切れかけて点滅しているのが目に入った。それを見ているうちに、頭の中には半年前の光景が浮かんでくる。
十二月の放課後、ほとんど日が暮れた教室では、頭上の蛍光灯が不規則に点滅を繰り返していた。家庭科授業の居残りをさせられていた僕のところへ、部活を終えた彰都がやって来て、机上に丸めてあったプリントを拾い上げた。「将来」や「家族」について考えなければいけない瞬間というのは、なんでもないところにいくらでも転がっている。
色々な話をした。話さなければ良かったかもしれない、と今になって思う。もしあの日、あんなプリントを適当に終わらせていたら。もし彰都とあんな話をしなかったら。もし、告白を断っていたら。僕たちの関係は今頃どうなっていただろうと、時々考えてしまう。
けれどもちろん、そんな「もしも」なんていう想像には何の意味もなくて、現実は、あの日プリントをやらなかった僕は彰都と話をして告白を受けた。そして、僕たちは友だちという関係を辞めて、恋人同士になった。
そのとき僕は彰都に、とある条件を出した。
彰都もそれに納得したはずだ。だからこれで大丈夫なんだと、自分の気持ちを整理しようと深呼吸をする。けれど、頭上の高架を走っていく電車の音がうるさくて気が散ってしまう。自転車の鍵を差し込んで少し乱暴に回す。
高架下を出て、ペダルに足を掛けて自転車を漕ぎ始めると、湿った風が滲んだ汗を撫でつけた。梅雨はもうすぐにでも明けるだろうと思う。ペダルはやけに重かった。
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