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理想 -4-
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今日はもう何度も渡った給湯室までの道。社長室を出て右へ20mほど、左手にある階段を下りて、その下りた先。
「黒宮さん」
櫻井は視線を落とした先にいる男の名前を呼んだ。
なんとなく、彼がそこで待っている気はしていた。
さきほどと同じ位置、同じ表情で、階段の入り口から黒宮がこちらを見上げている。今回は武上も一緒だが、やはり体格の差が際立つ並びである。
彼らのいる方へ階段を一歩一歩下りながら、櫻井は社長の言葉を脳内で反芻していた。
あまり目を付けられないように……怒らせたくない……香月も逆らえない……黒宮には……
櫻井の中で徐々に固まっていたはずの計画、それが社長の言葉で形を歪めていく。当初よりも危なげがあり、だからこそ魅惑的なものに。
フロアに下りて黒宮、武上と並ぶ。
櫻井はまだその計画に手を伸ばすことを恐れていた。
「おかげで、助かりました」
迷いを抱えたまま頭を下げたら、自分で思うより声が小さくなってしまった。
「うん、ケイちゃんが役に立ったなら良かった」
「外村さんは?」
「今度メシ奢れとだけ言って帰ったよ」
黒宮から先に給湯室の方へ向かい歩き始めて、櫻井はその後を追う形になる。武上はその後ろを少し離れてついてきた。
「そうですか……礼も言えませんでしたね」
「そんなの俺から言っとくよ」
「では、もしよろしければ……俺からもまた改めてお礼は申し上げるので」
こちらに振り向き頷いた黒宮は、少しだけ微笑んでいた。
それだけ見ていれば極めて温厚な人物のようだが、今回は外村もこの男の一声で動いたわけだ。
一体黒宮は、どこにまでどの程度の影響力を持っているのか。それがもし、こちらの側に付いてくれたなら……
「黒宮さん」
櫻井は腹を決め、おもむろに黒宮の名を呼んだ。
「ん?」
「黒宮さんのおかげで、pmpは救われました」
「そう?」
丁度給湯室に着いた所だ。小さな流し台の隣に盆を置いて、黒宮に面と向かう。
「今日のこと、とてもケーキ一切れでは足りません。何かお礼をさせてください」
黒宮は少し目を丸くしたあと、視線を外して中指を唇にあてた。
「お礼か、お礼ねぇ」
黒宮は流し台に腰を預け、置かれた盆の上から勝手にコーヒーカップを取って飲み出した。
「なんだろう。土下座とか?香月くんにやったみたいな」
「土下座ですか」
「やるよね、やっぱり」
「まぁ、やれと言われれば」
「もっと意外性のあるのがいいよねぇ」
意外性……それを求められるのが、こちらとしては意外なことであった。
「えーと、じゃあそうだ」
ポンと黒宮が手を叩く。
「ここでパンツ下ろしてお礼してもらうとか」
「パ、パンツ?」
櫻井は思わず聞き返した。黒宮は真顔でコクリと頷く。
「それならどう」
黒宮の表情は本当に真剣なのか、それとも大して期待もしていないのか、計りかねた。
櫻井は視線を移し、給湯室の入り口に目を移す。壁があって死角が増えてはいるものの、扉が無いから通路からこちらの様子は簡単に覗ける。
しかし足音や人の動く気配は感じられないし、後ろにいた武上がうまいこと入り口付近でこちらと向こうを隔てている。
それからチラリと磨りガラスの窓が閉まっていることも確認したあと、ひとつため息を吐いた。
「人が来たらすぐ上げますからね」
櫻井はそう言ったあと、ベルトを外して、スラックスのジッパーを下ろし、下着ごと膝の下まで履き物を下ろした。
「本日は、ありがとうございました」
上半身はかっちりとスーツを着込んだまま下半身を露出させた姿で、45度頭を下げる櫻井を、黒宮はしばらくキョトンと見つめていた。
「ぷふっ、くくく……ははははっ」
唇の隙間から零れる笑い声。そりゃそうなるだろうと、大方櫻井の予想していた通りの反応だった。武上の方からはなんの反応も感じられないが。
「すげぇ……くくく、本当躊躇い無いな、ふふっ……めっちゃ真面目……バ、バカ……くくく……」
……ここまでツボに入るとは思わなかったが。
「あの、本当にこんなんでいいんですか?」
そろそろいいだろうと考え身なりを整えながら、黒宮に問う。
「いや、かなりいいよ。面白い、ふふ……」
口元を押さえながらも堪え切れていない黒宮の笑顔。本当に笑うと顔が変わるなと思いながら、櫻井はその笑顔を眺めていた。
「はぁ……その例の土下座の時も思ったけどさ、けっこう振り切れた行動力してるよね」
落ち付きだした黒宮が、まだ口元がニヤけたままに言う。
「いやおもしろ……名前何だっけ?」
「あっ……櫻井と言います。そうだ、名刺を武上さんに」
名刺ケースを取り出して振り返ると、武上はやはりニコリとした雰囲気も無かった。
「こちら、是非よろしくお願いします」
「こちらこそ」
名刺交換は機械的に終わる。
「ありがとね櫻井くん、今日は面白かったよ」
黒宮は盆の上のロールケーキを取ると半分に割って、片方を櫻井に差し出した。少し頭を下げて受け取ると、黒宮はニコリと笑う。
「じゃあまた、なんか会ったら話でもしよう」
「……はい、ぜひ!」
黒宮はロールケーキを咥えながら、武上と共に去っていく。櫻井はその背中を見送ったあと、渡されたロールケーキを一口かじった。
かじったあと、1本5,000円のロールケーキ、その一切れをひどくつまらなさそうに睨む。
口の中に押し込むように残りをすべて頬張ると、そそくさと食器を洗いだした。2人を車で待たせてしまっているんだ、早く帰らないと。
洗い物を済ませて冷蔵庫から残ったロールケーキの箱を取り出し、駐車場までまっすぐに戻る。
「すまん、待たせたな」
扉を開けて後部座席を覗くと、前島は退屈そうにスマートフォンをいじっており、木田は腕を組んで鼾をかいていた。
緊張疲れだろう、その寝顔を見ていると、やっと事態が一段落着いた気になった。
「随分時間かかってたな」
退屈そう、とはいえ前島も随分落ち着いた。運転席に腰掛け、荷物を助手席に預けて発車の準備をする。
「社長と話しててな。……あと、黒宮さんともすれ違ったし」
「あぁ、シタタリのドラムの?」
「そうそう、今日の話したらまぁ笑ってもらえたよ」
「そりゃ笑うしかねえだろ」
前島も苦笑する。
「ケーキ食うか?」
助手席に預けていたケーキの箱を後部座席に回すと、前島が嬉しそうな表情で「お、いいの?」と受け取った。
「櫻井さんも今回だいぶ奮発したよなぁ、俺でも名前知ってるやつだぞこれ」
「それくらいはしないと謝罪にならねえだろ」
櫻井は車を発車させた。まず向かうのは室井健嗣、木田の交際相手の家だ。
事務所の先輩で同性、その室井の家へ木田を送り届けるのも、もう慣れたものだ。
「しかし、黒宮さんは印象のいい人だったよ」
黒宮の名前を出しながら、前島の反応を窺った。
「あー、俺も先週の打ち上げでちょっと話したけど、普通にいい人だよな。シタタリのサポートって言ってもそんな偉ぶってなくて」
すでに面識があったのは初耳だった、先週はそれどころでは無かったから仕方がないか。とにかく、好印象は好都合だ。
「お前らのドラムも頼んでみるか?」
「ははは!無理無理、ぜってーあっちの仕事だけで忙しいだろ」
「そうだな……」
それでも、俺はあの人をこちら側に付けたいよ。櫻井は腹の中でそう続けた。
車は混雑した道をノロノロと進む。櫻井はどうすれば黒宮に取り入ることが出来るか、そのための段取りを考えていた。
* * *
その頃、同じように黒宮も武上の運転する車の後部座席に位置していた。
「あの櫻井って奴、面白いね」
「俺もそう思います」
「今のが終わったらさ、次はあいつで賭けよう」
「かしこまりました」
「いつもどおり、あいつのこと調べといて」
武上に命ずる黒宮の歪んだ口元が、ウインドウに反射していた。
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