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最後の夢
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海沿いに建つそのホテルは開業を待たずに捨てられたバブル期の遺物である。現在も取り壊しの予定はなく、そのため野生動物の棲家となり浮浪人が居着くようになり、今では心霊スポットとしても有名である。
管理者はいるが名ばかりで、敷地を囲う柵も建物の出入り口や窓も荒れたままになっており、比較的誰でも侵入は容易かった。三崎大地が此処を選んだ理由の一つがそれである。加えて此処は住宅地から離れており、前面には海、背後には山と地形として孤立していた。
動画配信者等、他人と鉢合う可能性も多分にある。しかし大地にとっては大した問題ではない。どうせ得られる結果が同じなら、過程など関係ないのだ。
大地はぽっかりと口を開けたままの玄関ホールからホテルの中へ入り、足を止めずに階段を登っていく。階段には動物の死骸や排泄物、人間の持ち込んだであろうゴミや壊れた家電などが転がっていた。そんなものを横目に、或いは意に介さずさっさとまたいで大地は屋上を目指した。
時刻は日付が変わる頃。大地は未成年であるが家族が寝静まってから何とか家を抜け出して自転車に飛び乗り此処までやってきた。全身には治りかけの生傷や青痣が幾つも出来ていて、額の切り傷は朝にやられたばかりだ。
もうたくさんだ。大地は祈るような思いで屋上のドアを潜り、開けた夜空に迎え入れられた。周囲に明かりがないだけで夜空にはこんなにも星々が輝いていることが分かる。以前夜空を見てこんな風に綺麗だと感じたのはいつのことになるだろうか、思い出せなかったがもうその必要もないのだとすぐに思い直した。
本当は海に飛び込みたかったが、残念ながらこのホテルの客室はオーシャンビューの段々造りになっており、屋上から飛び降りたとしてもすぐ下の階のベランダに落ちてしまうだけだった。
でも背後の山側は暗く木々も生い茂っていて、ホテルの外壁も綺麗に垂直だ。同じ高さから飛び降りるのならこちら側が適切なのは考えなくても分かる。人の出入りが全くないわけではないが、わざわざホテルの裏手、鬱蒼とした山の中へ入ってくる人間はそう多くない。大地は誰にも知られず、一人でひっそりと終われるこんな場所を求めていた。
さっさと柵を乗り越えようと近付いていたとき、ふと視界の端に何かオブジェらしきものが見えた。それは室外機が幾つも並べられた区画の傍にぽつんと佇んでいた。
小さいが神社であった。石造りの屋根と壁、観音開きの扉は木で出来ていたらしいが、潮風と長年放置されたせいでボロボロになっていた。注連縄や賽銭箱だったものらしい残骸も崩壊しその破片が散らばっていた。
何が祀られていたのか、大地はその社の前にしゃがみこみ、御神体が納められていたであろう中へ手を入れてみたが、残っていたのは台座だけだった。誰かが持ち去ったのだとしたら罰当たりなことだな、と信心深いわけでもないが大地は自然とそんな感想を抱いていた。それから静かに手を合わせて、ただ一言「ごめんなさい」と謝っていた。
気が済んだ大地は改めて柵へと近付き手を掛ける。このまま体重を掛ければ柵ごと落ちてしまいそうなくらいには柵も傷んでいた。大地はそんな柵に足を掛け、慎重に乗り越えて地面に背を向ける。
碌でもない人生だった。でもこれで終わりに出来る。
喧(やかま)しい人たちに囲まれ、理不尽な扱いを受けてきたけれど、もうその必要もない。元々その程度の存在だったんだと、大地は再度、改めて思った。だから黙っていなくなっても大丈夫。最期くらいは一人で静かに過ごそうと。
手を放す。
背中から落ちた体勢はすぐに頭が真下に、縦に一直線に伸びる。このまま目を瞑っていればすぐに地面に衝突する。いや、衝突するより先に意識を失うはずだ。だからもう何も感じなくなる。加速する自分の身体の重みも、もうすぐにプツンと途切れる。
大地はそのつもりだった。少なくとも大地はそうなることを願っていた。しかしいつまで経っても意識は失わない。意識は今も何かを感じていた。例えば触感。大地の全身に走るのは地面に衝突したことによる痛みなどではなく、何か柔らかく温かく、しかし力強い安定した包容感だった。どさ、という物音はしたが、大地の身体はどこも痛くならなかった。
ぎゅっと強く瞑ったままの目を開けるよりも早く、見知らぬ男の声が大地を呼んだのだ。
「ようやく来たのか我が待ち人よ。この龍神を此処まで蔑ろにするとは大した度胸だな」
誰の声なんだと不思議に思った大地が目を開けると、眼前に広がるのは華やかな面立(おもだ)ちと髪をなびかせる男が近寄せた顔だった。な、と驚いてバランスを崩しかける大地だったが、相手の男はしかとその腕に力を入れ、大地の身体を抱え直す。
「もう来ないかと思っていたが、いや待ってみるものだな! 儂は嬉しいぞ!」
ははは、と一人で笑う男の話に付いてゆけず、大地は取り敢えず自分の目で見て取れる範囲だけでも状況を確認しようとした。しかし視線を男の顔から少し逸らしただけで心臓が止まってしまうほどに驚いた。どうやら今いるのは空の上だったからだ。
男は雲の小舟に乗っており、大地はその男の両腕に横抱きで抱えられている。そんな二人を乗せた雲の小舟は夜更けに眠る木々の上を静かに山頂へ向かって走っていた。
「な、何だよアンタ!? 俺は、俺はもう死んだのか!?」
ようやく喋れるくらいには落ち着いた大地が男の胸倉を掴んで怒鳴るように訊いた。男は急に引っ張られたことには驚いたようだが、大地の言っていることには首を傾げ、そんなわけないだろうと答えた。では何故俺は空を飛んでいるのか、それ以前にはアンタは誰なんだ、と矢継ぎ早に質問を繰り出す大地に、男はあやすように背中を叩いて笑いかける。
「何故とは可笑しなことを訊く。儂はこの河川の主である龍神トキワ。河川の治水工事により社を移転する見返りに伴侶を差し出すよう人間らと約束を取り付けていたんだ。その約束の待ち人がようやく現れたから、こうして迎えに来たということだろうが」
ははは、と男は笑った。大地にとってその回答が少しも納得に値するものではないことにもまだ気付かずに。
大地は荒唐無稽なその話に圧倒されていたが、すぐに勢いを取り戻して男に訴えた。
「ば、馬鹿言え! 知るかそんなこと! 俺は死にに来たんだ、頼むから邪魔しないでくれ! 死なせてくれよ!」
「っとと、暴れるなこら!」
男の腕から逃れようと手足をばたつかせる大地だが、男は絶対に落とすまいとしっかりと大地を抱えている。その力が見た目からは信じられないほどに強く、腕も体幹も頑丈で、大地は自分の無力さを突き付けられたようでますます腹が立った。
いいから離せ、降ろせと叫んで考えもなしに男を殴りつけ始める。とうとう男も言葉では宥められないと悟ったらしい、仕方あるまいと小さな声で呟く。
「今のままでは話にならんからな」
横抱きの体勢から大地の足を下ろして男は右手で大地の頭を掴んだ。そのまま互いの顔の距離を縮めるとその口を塞ぐ。大地は突如塞がれた唇の感触に全身の動きを止めた。何をされたのかと考える間もなく、呼気のみならず舌と唾液とが侵入を果たした。
「ん、……っ、ん、んんっ……ぁ」
咄嗟に男の胸倉を掴んだが突き飛ばそうとしたのか何をしようと思ったのかもわからないまま、大地は男の舌先に翻弄されていた。抗う余裕もなくその合間に少しずつ男の唾液が口の中に溢れて来てしまう。息苦しくなり、大地は気付いたときにはその唾液を飲み込んでいた。
暫くその行為が続けられ、唇が離れたときには大地はすっかり息が上がっていた。とにかく呼吸の仕方が分からない。躊躇なく口腔内を這い回る男の肉厚で長めの舌を受け止めるだけで手一杯だった。
「これで暫くは動けるだろう。一時的なものだが」
糸を引いて垂れる唾液を手の甲で拭い、男が深く息を吐きながら言った。何の話なんだと大地は未だ訝しげに男を見返していたが、男はようやく大地を解放していた。
ここからでもいい、飛び降りようと大地はすぐさま男に背を向けたが、男はしっかりと大地の腕を掴んでいた。離せと尚も訴える大地だが男のその冷たい目付きに怖気付き、覇気を削がれてしまった。大人しくなった大地に男は改めて口を開く。
「全く、少しは話をしようとは思わないのか馬鹿者。何百年と待たされた挙げ句、目の前で死なれては流石の儂も堪ったものじゃないぞ」
この男は怒っている。大地はそのことにようやっと気付いた。顔を上げるのも恥ずかしくなり、俯いて蚊の鳴くような細い声で「ごめんなさい」と呟いた。男はそれを聞くと溜息を一つ零し、まずは本殿に戻る、そこで落ち着いて話そうと続けた。
数分も経たないうちに視界が開け、豪華な社の建つ土地が現れた。この山にこんな開けた場所があっただろうかと考える大地の手を取り、着いたぞと男は言う。
地面すれすれまで下りた雲の小舟から大地は男の手を借りて降りる。雲の小舟が消えると同時に今度は立派な楼門が二人を出迎えた。
「な、何……ここ?」
手を繋いだまま導かれるように楼門を潜る大地。大地を引っ張って前を歩く男が愉快そうに答えてくれた。
「此処が儂の棲み処の本殿だ。普通の人間にはまず見えない、所謂異界と呼ばれる場所になる」
神域であるそこは、ある年頃の子供であれば稀に迷い込むことも出来るが、基本的には人間は寄せ付けない。入れるときはその神の許しを得られた者か異界にあるものを口にした者。
「あの小舟も本来ならば人間は乗れない。だがお前がどうにも暴れるからな、儂の唾液を飲ませて一時的に異界に馴染めるようにしたぞ」
そういうことだったのかと大地は先程の行為を思い返して顔を赤くする。意図はどうあれキスは初めてだったからだ。しかしそれが異界への侵入を許されるためだとは、どうして想像が出来るだろう。
建屋の扉を開けると中には広々とした廊下が続く。幾つ目か分からない部屋へと入ると、大地が先に座らされた。男は少し離れた所謂上座に腰を落ち着ける。
「改めて歓迎するぞ、待ち人よ。儂は龍神トキワ。元の棲家はこんなものではなかったが、人間たちに譲るために此処に落ち着いたのよ」
にこにこと嬉しそうに、龍神トキワはそう告げた。しかし大地にとってはやはり理解し難く、それ以前に無関係だろうがという気持ちが大きかった。いつの話持ち出してんだろうと質問しても良かったのだが、大地はまだ死ぬことを忘れたわけではなかった。此処から逃げ出せるのなら何でもいい、と思いながらトキワに頭を下げてみせる。
「……あの、よく分からないままですが、そういう話は俺にされても困りますし……俺は、もう生きていたくないので、出来れば……他を当たってほしいのですが」
そう願い出てみたものの、トキワは首を傾げ何故だと返してきた。何故とは、とそのまま繰り返す大地にトキワは続ける。
「お前が自死を図ろうとしていたことは分かる。だが、儂の元へ来ることは俗世を捨て不当な扱いをする者たちとも縁が切れ、もう二度と苦しむ必要がなくなることでもある。それでも死にたいのかお前は?」
言うなればお前は龍神の嫁となるのだ。トキワはそう言った。
嫁。
大地は確かに自分の耳にはそう聞こえたと確認してからトキワに問い返す。
「俺、男ですが?」
「見れば分かる。それがどうした?」
「嫁とは……女、のこと、では?」
「ああ。そんな人間レベルの問題が神にも存在すると思っているのか。案ずるな、性別は問わん」
嘘でも冗談でもなさそうだと不本意ながら大地は理解した。これは相当の理由がなければ逃げられないのではないか、とも。
しかし同時に大地には疑問も生じていた。本当にこれは現実なのか。もしかしたらこれは夢なのではないか。このまままともに話をする価値があるものなのか。
周囲を見れば見るほど、トキワを見れば見るほど、話をすればするほど全てが怪しく思えてきた。やはり自分はもう死んだのではないか。これは、死の直後に見ているほんのささやかな幻覚ではないだろうか。
「その……伴侶をもらうっていう約束は、いつ交わした話なんですか?」
会話を進めていれば、そのうち解放される流れになるかも知れない。どのみち夢から覚めるまではトキワから逃げられそうにないため、大地は抱いた疑問を一つずつ訊くことにした。神様やら伴侶やら、漫画か昔話でしか聞いたことがない内容だったのもこれが夢である可能性を残していた。
トキワは姿勢をやや楽にして、うん、と呼応する。詳しい年代はもう覚えていないらしいが、数百年は前のこと。当時この辺りは今よりも規模の大きな川が流れていて、大雨のたびに氾濫して田畑や人々の暮らしを荒らしてしまっていた。
時代が下り暫くして統一政府が成立すると、土地の管理や整備が順次行われるようになった。その時にこの河川も氾濫の危険を減らすための工事が決まり、トキワを祀っていた大きな神社は移転、もしくは解体を迫られた。
当時は何代にも渡り神社に仕える神職の一族がいて、そう易々と場所を動かすわけにはいかない、河川工事は賛成だが自分たち人間の一存で神様は動かせない等々と交渉は難航した。
初めはそれを黙って見ていたトキワだったが、この河川工事はこの先も続いていく人間の生活にきっと必要なものになるから早めに移転先を確保してくれと思った。
「それと人間を一人差し出すことを条件に話を纏めてくれと、当時の神職の夢に出て伝えたのだ」
工事を行うのであれば一日でも早い方がいいという計らいと、人質の意味合いがあったことは否めなかったとトキワは続けた。
「初めは話し相手程度に考えていて、工事が済み儂の社の移転まで終われば返すつもりだった。だのに待てど暮らせど音沙汰はなく、工事は進んでいるのに人間は来ない。次第に神職も土地の権利者も皆死んで顔触れが変わりよった」
社の移転までも無事に済ませられた。人間を差し出すという話は有耶無耶にされたのだろう。納得はいかなかったが、こちらも騙すような言い方をしてしまった自覚があった手前、無理にせっつくわけにもいかなかった。人間たちの暮らしが穏やかになるのならそれでいいじゃないかと、トキワは自分に言い聞かせていた。
しかし、いつの頃か「龍神が嫁を欲しがっている」という噂が周囲の集落に定着した。旅人たちはうっかり生贄に選ばれることのないようにこの辺は足早に通り過ぎるようになった。あくまで噂であり、トキワ自身に全くそのつもりはなかったが、噂に便乗する悪党は散見された。それを見た時にはさすがに眉を顰めた。
結局こちらが要求した人間は来るのか来ないのか。トキワ自身も曖昧になりいつからか、自分は何かを、誰かを待っているのだと思い込むようになっていた。
時代は更に流れ人々は変わり、それと共に暮らしの有りようも変化していった。
「所謂儂の縄張りはあくまでこの河川で、海に出る手前からはもうワタツミのものになる。あの辺りに境界の目印である社を建てておいたのだが、まさかあんな高い場所に移されていたとは」
はは、とトキワは笑う。首を傾げる大地に、神というものは平行移動には敏感だが垂直移動は気付かないのだとトキワは教えた。というのも、その社こそが文字通り「入口」だったからだ。
「儂の神域(縄張り)に入るためにはあの社の横を通らなければならない。しかしあんな高所にあってはまず人間は来られないな」
そう言われて大地は思い出す。今にも朽ちてしまいそうな小さな石造りの神社。あれが龍神の縄張りへの入口。その横を通るということは、そうだ。まさしく大地がしたように、屋上から飛び降りることになる。だからトキワは大地を出迎えられたのだ。トキワにとっては大地の行動が、ようやく人間が約束を果たしたのだという意味になる。
けれど、大地はそれを聞きますます居た堪れない気持ちを抱いてしまう。大地は死ぬつもりで飛び降りたのだ。勿論トキワのために来たわけではない。期待を持たせるような真似になってしまったこともだが、こうして実際喜ばせてしまったことが心苦しい。
「あの、では龍神様……は」
「トキワでいいぞ」
「……と、トキワ様は少しの間話し相手がいれば、それで構わない、ということでしょうか?」
大地の質問に、トキワは頬杖を付いて一度唸る。それがなぁと眉を顰めながら答えた。
「いざこうして人間が来てみたら、自分でも意外なほど嬉しくてな。儂はどうやら思いの外嫁というものを欲していたらしい。もはや話し相手程度では物足りぬな」
トキワにそう言われ、そうすか、と大地は肩を落とす。であれば何としても大地はこの話を断らなければならなかった。環境がどうあれ、この先もこのまま生きていくことからどうしても逃げ出したかったのだ。
それもこんなに美しい神様の伴侶として。
何も知らずにやって来た大地を見てこんなに喜んでいる相手と共に。
生きていく覚悟など今の大地にはどうしても難しい話だった。早く惨めに死にたかった。トキワと出会ってしまったからにはその思いは更に強くなった。
「そう言えばお前、名前は」
「っ、ごめんなさい!」
トキワがふと思い出して大地に訊ねようとしたのと同じタイミングで、大地は深く頭を下げた。手も額もすっかり床板に付いた状態だった。それを見たトキワは慌てた様子でおいよせと言ってくるが、大地はその体勢のままトキワに告げる。
「俺には、俺には無理です。そんな存在じゃないんです……! 俺は誰かが愛してくれるような、誰かを喜ばせられるような存在じゃなくて、俺は、生きてちゃ駄目だったから……だから、頼むから……」
今までの日常がフラッシュバックして、大地は反射的に込み上げてくる嘔吐感を必死に抑え込む。手が震えていた。怒鳴り声と振り下ろされる握り拳の影。暗い視界。頭から掛けられた排水の臭い。その全てが大地の存在を否定していた。
もう嫌だった。このまま、三崎大地という人間が生きていることが、自分自身で許せなかった。
「お願い、だから……し、死なせて、くださ……」
絞り出した声も語尾はもう消えていた。すっかり身に着いたその謝罪する姿はとても弱々しく、風が吹けばきっとのまま崩れてしまう朽ちる寸前の枯れ枝のようだった。
見捨てられ、忘れられ、辿り着いた最後の場所で。
「……どうしてもか?」
気付くとトキワの声が頭の真上から降って来た。大地が目を開けると自分を覆うように影が出来ていることが分かる。それも大地のトラウマを刺激する要素となってしまい、大地は小さな悲鳴を上げて頭を守るように更に身を小さくした。
しかしトキワは今までの相手とは違い、その手は大地を殴ることも貶すこともしない。ただ優しく頬に触れ正面から視線を合わせる。大地の目尻からは既に涙の粒が零れていた。
「どうしても死ぬと言うのか?」
淋しげなその声に大地は気付けたのだが、恐怖の方が大きく意識を支配している状態では気に留める余裕などなかった。懇願するように何度も首を縦に振り、お願いですからと泣きながら繰り返した。
そんな大地の身体をトキワは柔らかく両腕で包んだ。暫く泣き続ける大地の背中を優しく叩き、落ち着くのを待ってくれた。それから改めて大地に名前を訊ねた。三崎大地、としゃくりあげながらも答えた大地の髪を撫でると、トキワは大地の身体を離した。顔が見える距離を取り、大地、と呼び掛ける。
「ならばお前の命、儂に食わせてくれないか?」
トキワの申し出に、大地はやや気の抜けた声で呼応した。命を食らうとは何を意味するのか大地には理解出来なかった。意味を訊ねようとする大地の涙を拭い、トキワは一人で話を続ける。
「そこまで言われては流石に儂も引き留めるに忍びない。ならばお前の命は儂がもらおう。大地、構わないか?」
龍神が直々に殺してくれるのだと、大地はそう理解した。こんな奇跡のような最期を迎えられるのかと、夢だとしてもあまりに出来過ぎだった。けれどそこで改めて思い直す。やはりこれは夢なのだと。こんなに都合のいい方向へ話が進むわけがないと。
そう理解した大地は自分でも涙を拭いて、お願いしますとトキワに頭を下げた。命を粗末にするどころか、神様の一部になるのだ。普通に言ったら気が狂ったと思われるだろうこともここでは何も可笑しくはなかった。
一思いにと言わんばかりの姿勢で、大地は目を閉じてトキワの次の行動を待つ。トキワの手が再度大地の頬を撫で、それから唇に何かが当てられる。それがキスだと大地はすぐに気付いた。目を開くとトキワの長い睫毛が一番に映って、キスをしているという事実と相俟って腰から背中にかけてゾクリとした何かが走った。
強すぎずそれでいて丁寧な力加減の愛撫に大地は思わずトキワの服を両手で掴む。それを待っていたかのようにトキワは空いている手を大地の背中に添わせ、そのまま大地を寝かせるように二人して倒れ込む。
唇は離さないままトキワの手は別の動きに移る。大地の服の中へ滑り込ませると、指先で素肌を隈無くなぞっていった。大地が反応する箇所を見付けると、一度そこを通り過ぎてまた戻ってきてから重点的に撫でた。
トキワからの舌先と指先による刺激に大地は動揺しながらも次第に慣れてきて、何か物を考えるくらいの余裕は作ることが出来た。舌先を絡め取られているままだったがトキワに呼び掛けるように喉を震わせて訴える。
「な、何をして……? 食べ……るの、で、は……?」
自分の予想と大きく異なる展開に理解が追い付かず、一旦口を離してもらって大地は乱れた呼吸のままにトキワに訊ねる。トキワは今までのように笑わず真剣なその表情を変えずに頷いて見せた。ただ、やはり神様という存在ゆえか、人間である大地ではおよそ思い付かないだろう手段を教えてくれた。
「食べるということであればどんな形でもいいのだ。ならばお前も……痛みよりも快楽に落ちた方がましであろう」
そう言いながらトキワは大地の上半身を曝け出す。大地は慌てて肌を隠そうとするが再度キスにより頭を固定され、その気持ちよさと羞恥から両手は無意識にトキワにしがみついてしまう。大地の身体には多くの痣と傷がそこかしこに残っている。綺麗に治り切れずに残ってしまった切り傷や、昨日今日出来たばかりと思われる青痣。その一つひとつをトキワは指先で捉え、優しく撫でるように確認する。
大地にとってはそれが嫌で惨めで仕方がなかった。見られたくないものだった。けれどトキワの指先からは加虐性も支配的圧力も感じられず、まるでそれは本当に「手当て」をされているかのような治癒のようですらあった。
トキワの顔が大地の目の前から離れていく。今度は痣や傷の一つひとつに唇を落としていった。ときわ、と呼ぶ大地の声とトキワの肩を掴んだままの両手は震えていて、まだ恐怖と悲壮の方が大地には強く作用しているのが分かった。
「案ずるな、痛め付けることはしない」
そのまま下腹部まで下がって、トキワの手は大地の太腿を撫でていく。履いているものも脱がしてソレを包むように揉んできた。大地の手がトキワの肩から離れ、自分の顔を覆った。大地の脚の震え方から恐らくこちらでも酷い目に遭わされて来たのだろうとトキワは推測した。
だからこそ優しく扱った。触れるかどうか分からないほど軽いキスを繰り返し、舌を這わせて反応を見る。大地は過去のつらい記憶と戦っているのか顔面を完全に腕で隠し、全身に力を込めて硬直してしまっている。
「大地、怯えないでくれ。それではどうしてもお前に傷を付けてしまう」
トキワが大地のソレにキスをしながら大地の顔を見上げる。そんなトキワの優しさはこの時点で大地にも充分伝わっていたが、大地のこれはもはや条件反射であり、大地自身でもどうにもならなかった。ごめん、と震える声で謝ってくる大地にトキワは胸が痛む。
「……本当はもっと時間を掛けたかったが」
このまま長引かせては大地の精神が参ってしまうとトキワは考えた。自身の意に反するが大地の身の安全を優先することに決めると、トキワは大地の身体を浮かせ俯せに変えさせる。上体だけ起き上がって何をされるのかを確認する大地の視線に気付きながらも、トキワは目を合わすことはしなかった。ただ「力を抜いていてくれ」と告げ、大地の双丘の谷間へと指を挟む。ぐぐ、とその谷間を開くと中央に見えた蕾に口を近付けた。
あっ、と悲鳴のような大地の驚く声が上がる。やめてと大地は訴え出るがトキワは聞き入れない。まずは蕾周辺に息を吹き掛け、それから唇を押し当てる。トキワの唇が触れるたび大地の腰が震えるのが分かる。大地の蕾は決して綺麗とは言えない状態だった。乱暴にされた跡が一目見て分かるものだったのだ。
トキワは慎重に唇で大地の蕾の緊張を解していく。ヒクつく蕾の動きを確認しながら、とうとう直に触れた。声を上げず逆に息を呑むような反応を見せる大地を安心させるように、トキワは大地の双丘を撫でる。掌は双丘を愛撫し、唇で蕾の力みを緩めていく。それから舌を差し込んだ。
「ぁ……っ、んぁ、」
乱暴にされたとは言え、大地の身体は快楽を“覚えて”しまっているらしい、舌先でも差し込まれるとその反応は甘いものに変わった。そう叩き込まれたこと自体も屈辱であることは想像に難くないことがトキワにとっても悲しかった。
「あ、ぁ……ふぅ、っ」
観念したのか急に脱力して大地は尻を突き出した体勢で止まった。恐らく今までされてきた扱いよりも痛みは少ないと思うがとトキワは大地に告げるものの、大地がそれを聞いているのかはもう分からない。大地の瞳はぼんやりとして、もう意識を失っているのかと慌てるほど無様なものだった。
こうして虐げられてきたのだ。大地は曖昧になった意識の中で回想していた。気に入らなければ殴られ、こちらの拒絶もお構いなしに暴かれる。力任せに打ち付けられ、中に幾度も何人もが無責任に吐き出した。
そんな記憶が大地の全身から抵抗する力を削ぎ、大地をただ人形のようにしてしまう。今も大地にとっては同じ状態であった。そうだ、これは命を取られる行為なのだとこの時改めて思い出した。
トキワは痛みはないと言ってくれたが、大地にとってはどのように触れられるかは関係なかったのだ。行為そのものが暴力であると大地は学習していた。確かに痛みはない、けれど悲しさと絶望感で到底快楽など感じられるとは思えなかった。
「大地……」
大地の背中にかぶさるようにトキワの顔が大地の耳元に近寄る。大地はその声に肩を震わせ怯えた目でトキワを見返してしまった。トキワの表情も歪み、悲哀と葛藤とが滲み出ていた。
トキワはこれまでの相手とは違うだろう、大地はそう頭では理解出来ていた。けれどどうしても身体の震えが止まらない。嫌だと拒絶したい気持ちと、それでも挿入(い)れられたいという相反する感情が湧き上がる。
こんな気持ちでトキワを受け入れたくない、と大地は強く思う。やめてほしいと願い出ようとした大地だが、それは叶わずトキワの方が先に動いた。
「どうか耐えてくれ大地。お前の苦しみは理解しているつもりだ、だから」
だから耐えてくれとトキワは言い切ると同時に大地のナカへと侵入する。押し拡げられる感覚に大地は目を見開き息を止めた。でも痛くはない、それに一気に全部を挿入されたりもしない。トキワはゆっくりと時間を掛けて、すこしずつ挿入(はい)ってきてくれた。
大地の方は挿入(い)れられることに馴れてしまっており、トキワがどれほど慎重に進めようとしても簡単に呑み込んでしまう。大地は気付いていないのだろう、今も必死に恐怖心と戦っている。結局大地の蕾はすぐにトキワの根本まで咥え込んでしまった。きゅうきゅうと締め付けるこれも、大地の意図に反したものだろう。
それでも大地のナカへの侵入はトキワにとっては喜ばしいものだった。大地に深呼吸するように伝え、トキワは上体を起こす。大地の背中には正面よりも酷く痛々しい傷跡が広がっていた。よく見ると肉付きは悪く所々は骨が浮いて見える。こんな身体で、彼は此処まで来たのだ。
例えそれが死ぬためであったとしても、この人間が龍神の元へ来たことは事実だった。
ゆっくりと打ち付けを始めるトキワ。その動きに大地の腰も揺れ始める。怯えながらもナカに咥え込んだソレの快楽は享受するよう大地は無意識に動いていた。次第に滑りがよくなり、打ち付けが激しさを増していく。
「っ、あ、あぁっ、ひぁっ……!」
突かれるたびに声が大きくなる大地。今誰に抱かれているのかも大地には分からなくなっていた。それでも教え込まれたナカの快楽はどんどん大きくなり、大地の全身に広まっていく。
「ふぅ、っんん……んん、っぁ……」
声というよりも音が零れるような喘ぎに変わる。大地のその反応を見たトキワは一度自身のソレを抜き、大地の身体を抱える。肩や背中に幾つかキスをしてからまた向かい合うよう大地を仰向けにする。
惚けた表情の大地の頬を撫で、トキワはまた挿入する。勢い余って一気に奥深くまで貫いてしまったが、大地に痛がる様子はなく「ふぁあんっ」と甘い嬌声を漏らした。
「大地、儂に嫁いでくれ大地……お前に傍にいてほしい」
打ち付けながらトキワはそう大地に呼び掛けるが、大地は聞いているのかいないのか、ただ喘ぐだけで返答はない。この時の大地はもうナカからの快楽に支配されていた。しかし今回のこれは今までのような恐怖と絶望感による支配ではなかった。
大地の意識はふわふわとしていた。気持ちいいと心の底から思えた。トキワの苦しそうに歪む赤い顔がかろうじて確認できたこともその一助となっていただろう。温かい、心地よい快楽だった。
「ぅぁ……っ、と、きわ……」
大地を気遣いながらも激しい打ち付けがやめられず苦悩していたトキワを、大地が上の空のような声色で呼んだ。大地はその両腕をトキワに向けて差し出すように広げていた。トキワはその意味を瞬時に汲み取り、覆い被さるように大地の全身を背中からぎゅうと抱き締めた。
「ときわ……っ、あ、ときわ……」
「うん、うん……」
自分がこんなに優しく甘く抱かれるなんてことがあるのかと、大地は今も疑って掛かっていた。でも最期に見る夢としてはこれ以上ないほどに充足したものだと、大地は落ちてゆく意識の中で満足げに笑った。落ちる直前、ナカに吐き出された熱を感じ取れたことも大地にとっての幸福だった。
***
意識が戻ってきた。大地は目覚めた直後はただぼんやりと天井を眺めるだけだった。布団に寝かされ傍らにいるトキワの手に優しく髪をいじられていることまで一つずつ把握するとようやく目を見開いて「えっ!?」と動揺の声を発した。
起きたかと柔らかく微笑むトキワに対し、大地はキスでもするのかと言わんばかりに詰め寄って勢いのまま問う。
「何でだ! 殺してくれるんじゃなかったのか!? 俺の命を食べるってアンタ言ったじゃないか!」
まだ生きているじゃないか。大地はそう青ざめた顔でトキワを問い詰める。けれどトキワは微笑んだまま、嘘は言ってないぞとまず返した。大地の肩に触れ、大地の額に口付けを落とす。身構える大地の反応を見て、トキワは大地の顔が視界に収まる距離まで離れてじっと見詰めて改まる。
「食べたぞ、お前の命はちゃんと。半分だけ」
はんぶん、と怪訝そうに繰り返す大地に頷いて見せてトキワは続ける。
「同じように儂の命も半分、お前に食べてもらったがな」
魂という核を持つ命の半分を互いに交換した。トキワはそう説明した。トキワは大地の手を取り指先にキスをして、済まないと謝った。
「思ったのだ。大地をこのまま死なせたくないと。儂の傍にいてくれと強く願った」
大地が本当に消えてしまいたいことも承知で、トキワは命の交換を行った。これは言わば契りを交わすことと何ら変わりなく、それに加え大地を人間以上の存在に生まれ変わらせることも意味する。龍神の命を半分混ぜることによって、大地は人間よりも長い寿命を得たのだ。
「その分儂の寿命は些か短くなったがな。そのくらいはしなければ……大地を儂の傍に置いておく資格はないと考えた」
「な、何で、そんな」
そんな勝手なことを。それに騙したのか。大地にはそうとしか受け取れなかった。折角これで終わりになると、心の底から安堵したあの時間は何だったのだろうか。この人も俺を裏切ったのかとすら思っていた。大地は力なく肩を落とし、背中を丸めて俯く。
「……何で、言った通りにしてくれなかったんだ……」
俺はまだ生き続けるのかと独り言のように大地は呟く。ホテルの屋上から飛び降りる前よりも酷い喪失感が大地を襲った。そんな大地に対しトキワが音もなく頭を下げたのは、その直後のことだった。
「済まない大地。それでも儂は、やはりお前が来てくれたことは偶然ではないと思いたいのだ」
何百年と待たされた約束。到底人間が自ら通り抜けることは出来ないだろう境界を潜ってきた人間。このまま手放してもいいのだろうかとトキワは迷っていた。死を望む大地の意思を挫いてまで引き留めることが正しいのか、その相対する思いを持ったまま大地を抱いた。
「お前にとっては何ら関係のない話であることは否定しない。けれど儂にとってはこれが望みだったのだ、大地」
忘れられた時間を超えてやって来た大地をこの手で幸せにしよう。トキワは大地をその腕に抱いてそう決意した。だから己の命の半分を交換し、人間としての三崎大地は殺した。そこまで言われて、あ、と大地は気付いたように呼応した。
人間としては死んだ。そう言えばと大地は慌てて自分の腕や腹部を確認する。あんなに広がっていた痣や傷たちが一つ残らず消えていた。常に感じていた吐き気や眩暈、全身の怠さもないと呟きながらトキワを見上げる。トキワも笑い返して「作り変えられたんだぞ」と告げた。
「不死とまではいかないが……今の大地は儂の寿命と添い遂げるには充分なだけの不老長寿の存在になっている。今後も儂が大地の魂を癒すことで、人間の頃の酷い記憶も薄らいでゆくはずだ」
トキワはそう説明すると、再度少しだけ距離を作るように後ろに下がり、腰を折るようにそっと頭を下げた。
「事を済ませてから言うべきではないが……どうかこの儂とこれからを、共に生きてはくれぬだろうか」
頭を下げ律儀に乞い願うトキワに、大地はすぐに何も返せずにいた。本当に信じていいのだろうか。この期に及んでまだ疑っている自分がいて、大地はつい吹き出した。恐らくそれが答えだったからだ。
吹き出した大地の反応が気になり、トキワがゆっくりと顔を上げる。大地はそんなトキワを真っ直ぐに見詰め、うんと確かに頷いて見せた。ぱぁ、と明るく笑うトキワに大地は一つ提案する。
「トキワ、俺に名前を付けてくれないかな?」
名前、と首を傾げるトキワに大地は説明する。三崎大地という人間は死んだ。今此処にいるのは龍神に命の半分をもらった人間以上の存在。つまりこの存在は「三崎大地」ではない。
「もう俺はアンタの伴侶である別人なんだ。だから……俺の新しい名前を、トキワに付けてほしい」
大地自身としても、人間だった自分への最後の決別になる。大地の申し出にトキワはややぽかんとしていたが、すぐに目を細めて嬉しそうに笑うと目の前にいる可愛い伴侶を抱き締める。そうだな、お前の言う通りだと告げながら。
トキワの背に回した腕を解き、トキワの頬を二つの手で挟む。トキワもそれに従うように顔を近付けた。確認のキスをして、トキワが口を開く。
「――大河(たいが)。お前は今から大河だ、いいか?」
トキワの愛しさが滲む声に、大河は満足気に笑った。
【了】
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